#17
職人衆の見事な手際により、我が城――修道院跡地は、見違えるように立派な「家」へと生まれ変わった。
ひび割れていた石壁は滑らかに補修され、雨漏りの跡が痛々しかった屋根もしっかりと葺き直されている。
何より、夜になっても隙間風が一切入ってこないのだ。
アーサー殿と職人たちには、いくら感謝しても足りないほどであった。
温かな朝の光が差し込む窓辺。
新調した白木の机に向かい、私は静かに針を進めていた。
手元にあるのは、真っ白な木綿の布。
そこに、昨日市場で買ったばかりの青い絹糸を使い、幾重にも桔梗の花を縫い取っている最中であった。
武家の女にとって、刺繍や手習いは単なる暇つぶしではない。
一針一針、規則的に布に糸を通していく作業は、己の心を平穏に保ち、雑念を払うための「禅」に近い精神修養であった。
かつて母・妻木煕子は、幼き私に針の持ち方を教えながらこう言ったものだ。
『玉。糸は、人の縁と同じ。絡ませず、焦らず、ただ真っ直ぐに引くことで、美しい花が咲くのですよ』
母の柔らかな声を思い出しながら、私はふう、と静かに息を吐いた。
出来上がったのは、クレアに贈るための小さな手拭い(ハンカチ)である。
日ノ本に伝わる高度な技法を用い、光の当たり具合で桔梗の花弁が立体的に浮かび上がるように仕上げてある。
「……よし。これで一つ完成ですね」
だが、手元の糸巻きを見れば、青い絹糸が残り少なくなっていた。
他の色も揃えたいところだ。
私はシロに留守居を頼み、買い出しのために街へ出ることにした。
身に纏うのは、例の「町娘の服」である。
若草色のブラウスに、膝下丈の深い緑のスカート。
いまだに足元がすうすうとして落ち着かず、外に出るたびに羞恥で顔が赤く染まってしまう。
だが、この格好でなければクレアに「目立ちすぎるから駄目!」と怒られてしまうのだ。
私は諦めて、スカートの裾を少しだけ下に引きつつ、大通りへと向かった。
* * *
平和な聖都サン・マリアンヌの市場は、今日も活気に溢れていた。
目的の手芸店へ向かう前に、私はふと、ある建物の前で足を止めた。
『書店』である。
(先日クロエ教授から文字の基礎を教わり、少しは読み書きができるようになりました。せっかくですから、少し立ち寄ってみましょう)
以前の私であれば、用事以外の寄り道など考えられなかった。
常に人の気配を探り、最短距離で用を済ませて戻るのが鉄則だったからだ。
だが、この街には命を狙う刺客も、私を監視する兵もいない。
「寄り道」という、かつて許されなかった自由に、私の心は密かに弾んでいた。
店内に入り、私は植物や薬草の図鑑が並ぶ棚から一冊の本を手に取った。
クロエ教授の教えを思い出しながら、文字の連なりを脳内で音声に変換していく。
「……マ、ン、ド、ラ……ゴ、ラ。強い、魔力を、持つ、根菜……」
(ふむ。我が家の庭に生えているあの『暴れ芋』のことですね。魔力を持つということは、やはり兵の士気を高める陣中食には最適ということ。いざという時の兵糧として、さらに増産しておくべきでしょうか……)
私は真顔で図鑑を読み込み、今後の農業計画(という名の備蓄戦略)を練った。
書店を出た後、今度は甘く香ばしい匂いに鼻腔をくすぐられた。
『菓子店』である。
ガラスの向こうには、先日カフェでいただいた南蛮菓子のように、美しく焼き上げられた菓子が宝石のように並んでいる。
(……一つくらい、よろしいでしょうか。これもまた、異世界の文化を学ぶための重要な視察です)
私は己にそう言い訳をしつつ、店内に並ぶ小さな焼き菓子をいくつか購入した。
絵本を読み、菓子を買う。大人の精神を持つ私だが、この瞬間ばかりは、年相応の十五歳の少女に戻ったような浮き立つ気分であった。
* * *
その後、私はクレアのパン屋へ立ち寄った。
「おはよう、ガラシャちゃん! 今日も可愛いね!」
小麦粉で白くなったエプロン姿のクレアが、満面の笑みで出迎えてくれる。
「おはようございます、クレア。実はお渡ししたいものがありまして」
私は懐から、先ほど縫い上げた桔梗の刺繍入り手拭いを取り出した。
「いつもお世話になっているお礼です。稚拙な出来ですが、よろしければお使いくださいませ」
クレアは手拭いを受け取ると、その場にピタリと固まった。
「……え?」
彼女は刺繍に顔を近づけ、目を丸くし、やがて凄まじい悲鳴を上げた。
「ち、ちちち稚拙!? どこが!? なにこれ、糸が光を反射して浮き出てるみたい! これ、大聖堂の宝物庫か、王宮に飾るレベルの芸術品だよ!?」
「おや、大げさな。ただの暇つぶしの縫い物にございますよ」
「ガラシャちゃんて、本当に何者なの!?」
とりあえず喜んでもらえたなら何よりだ。
私の常識のズレに頭を抱えるクレアに別れを告げ、私はようやく目的の手芸店へと足を踏み入れた。
店内には、壁一面に色鮮やかな絹糸や木綿糸、金糸銀糸が並んでいる。
私は青や紫、赤の糸をいくつか選び、色合いを確かめるために己の小袖の端切れ(見本用の布)と見比べていた。
その時である。
ふわりと、白檀に似た高貴な香の匂いが漂ってきた。
「まあ。見事な糸の艶。……いえ、それよりも……」
背後から掛けられた声に振り返ると、そこには豪奢なドレスを身に纏った初老の婦人が立っていた。
年齢は五十代半ばほどだろうか。
銀色の髪を美しく結い上げ、胸元には大粒の宝石が輝いている。
しかし、その目元には権力者にありがちな傲慢さはなく、ただ純粋な驚きと美への探求心が宿っていた。
婦人の視線は、私が持っていた端切れ――明智の桔梗紋を縫い取った布に釘付けになっていた。
「素晴らしいわ。糸のよりを活かして光沢を操る、こんな繊細な技法、聖都の熟練の職人でも滅多にお目にかかれない。……あなた、その見事な針捌き、いったいどこで学んだの?」
婦人は息を呑むようにして私に問いかけた。
私は咄嗟に結界を張り、恭しく一礼した。
相手の身なりと護衛を連れずに一人で歩く堂々とした振る舞い。
間違いなくこの街の有力な貴族である。
「お褒めにあずかり、光栄の至りに存じます。ですが、大層な職人に師事したわけではございません」
私は目を伏せ、事実をありのままに答えた。
「辺境の家におりました頃、長く、暗い幽閉生活を強いられておりまして。毎日壁のシミを数えるのにも飽き果て、心を狂わせぬために、ただひたすらに針を動かし続けておりました。……これは、その執念と退屈の産物にすぎません」
ピシッ、と。
手芸店の中の空気が、見事に凍りついた。
婦人は目を見開き、口元を扇で隠したまま完全に固まっている。
(しまった。またしても事実をそのまま口にし、場を重くしてしまいました!)
私は内心で己のポンコツ具合を激しく叱責した。「母から教わりました」とでも言えばよいものを、なぜ幽閉などという血生臭い単語を出してしまうのか。
だが、婦人の反応は私の予想とは違っていた。
彼女は扇を下ろし、私の顔――十五歳の少女の、あどけなさを残す顔立ちを痛ましそうに、そして深い慈愛を込めて見つめたのだ。
「……こんなに若く愛らしい娘が、幽閉だなんて。どれほど辛く、恐ろしい日々だったことか」
(……おや?)
「少し、場所を変えましょう。あなたとお話がしたいわ」
* * *
婦人――マダム・ベアトリスに連れられてやってきたのは、大通りから少し入った場所にある、一見さんお断りのような高級サロン(喫茶室)であった。
通された個室は、ベルベットの長椅子に、金細工の施された机。
大坂の細川屋敷の客間や、天下人の聚楽第にも劣らぬ豪勢な設えである。
運ばれてきたのは、薄い磁器の器に入った『紅茶』と呼ばれる琥珀色の飲み物だった。
「さあ、遠慮なく召し上がって。お茶請けには、あなたのような可憐な娘に似合うお菓子を用意させたわ」
私は背筋を伸ばし、かつて千利休殿の茶の湯で学んだ作法を思い出しながら完璧な所作で杯を口元へと運んだ。
音一つ立てず、指先まで洗練された動きに、ベアトリス様は満足げに頷いた。
「あなた、名前は?」
「ガラシャ、と申します」
「……ガラシャ。あなたは、ただの町娘ではないわね」
ベアトリス様は私を見据えた。
「この街にはね、大聖堂や王侯に仕える職人たちが多くいるの。でも、あの花……あれほど美しく繊細に、光沢を表現できる者はいないわ。それに、その気高き立ち振る舞い。没落したどこかの高貴な身分のお嬢様でしょう?」
(……やはり、この国の有力者は一筋縄ではいきませんね)
私はゆっくりと茶器を置き、そっと目を伏せた。
「はい。遠い異国の、没落した武家……騎士の家の出でございます。お家騒動により、不運にも幽閉の身となりました」
「それで? 誰があなたを解放し、この聖都へ?」
「……神が、としか申し上げる術がありませぬ。ただ、私はもう、運命に翻弄される籠の鳥にはなりたくないのです」
これは嘘偽りのない、私の心からの言葉だった。
その時である。
ベアトリス様の目に、ふたたび深い同情と、母性が浮かんだ。
「そう……よく頑張ったわね、ガラシャ。あなたは強くて、そして誰よりも気高いわ」
彼女は、まるで我が子を見るような目で、私の手を優しく取った。
「私は、刺繍や美しい手仕事が何よりも好きなの。あなたのような才能と気品に溢れる娘が、身一つでこの聖都を生き抜こうとしている。……放ってはおけないわ」
(……!)
「これからは、何か困ったことがあったり、面倒な輩に絡まれたりしたら、私の名前を出しなさい。ベアトリス・ヴァン・ローゼン。この聖都で、私の名を知らない者はいないから」
私は目を瞬かせた。
これは、大名家同士の取引ではない。
武力でも、金でもない。
私の「趣味」と「気品」、そして少しの同情が生んだ、純粋な好意による後ろ盾――いや、守護の盾であった。
「……身に余るお言葉、生涯忘れることはございません。かたじけなく存じます、ベアトリス様」
私はもう、飾られるだけの花ではない。
自らの足で歩き、土を耕し、そして縫い上げる喜びを手に入れたのだ。
紅茶の香りが満ちるサロンの窓辺から、私は平和な聖都の街並みを見下ろした。




