#16
翌朝、小鳥たちの囀りよりも早く、修道院跡地の静寂は活気ある物音によって破られた。アーサー殿の言葉通り、荷馬車に大量の真新しい木材や石材を積んだ数人の男たちがやってきたのだ。
大聖堂の修繕も請け負うという、聖都でも名うての職人衆である。
「お嬢ちゃんがこの家の主かい? アーサーの坊っちゃんから話は聞いてるぜ。任せとけ、隙間風一つ入らねぇ、城みたいに頑丈で立派な家に直してやるからよ!」
日焼けした肌に無数の傷跡を持つ、屈強な親方が豪快に笑う。
「かたじけなく存じます。何分古い建物ゆえ、ご不便をおかけするやもしれませぬが、どうかよろしくお願いいたします」
私が深く頭を下げると、親方は「おうっ!」と威勢よく応じ、瞬く間に配下の者たちに指示を出し始めた。
トントン、カンカンと、木を打ち据える心地よい槌の音が朝の空気に響き渡る。
庭の片隅では、シロが「見事な統率力でござるな。無駄な動きが一切ない」と感心して尻尾を揺らしている。
私も縁側に立ち、職人たちの淀みない仕事ぶりを静かに眺めていた。
(素晴らしい手際です。あれはただの大工ではありません。戦場において真っ先に陣地を構築し、堀を掘り、城壁を直す『黒鍬衆)』にも匹敵する精鋭たち……。これほどの者たちを集めるとは、アーサー殿の采配も見事と言うほかない)
私はふと、己の小袖の袖口に目を落とした。
己の城(家)を普請してくれている兵(職人)たちに対し、主として何の労いもせぬのは武家を束ねる者としての恥である。
戦国の世において、過酷な土木作業に従事する者たちの士気を支えるのは、金銀の恩賞以上に、腹を満たす温かい「兵糧(昼食)」であった。
(よし。私が彼らのために、昼の炊き出しを行いましょう。重労働の労をねぎらう、最高の陣中食を振る舞うのです)
そう決意し、意気揚々と台所(炊事場)へと向かった私であったが――薄暗い土間に足を踏み入れた瞬間、ピタリと動きを止めた。
私は、密かに、いや滝のような冷や汗をかいていた。
(……さても。よくよく考えれば、私はまともな料理の作法を何一つ知りませぬ)
生前、大坂の細川屋敷においては、毎日のように美しく彩られ趣向を凝らされた見事な御膳を口にしていた。
しかし、それは腕利きの料理人や下女たちが丹精込めて作り上げた「完成品」にすぎない。
大名家の姫であり奥方である私が、自ら泥のついた野菜を洗い、生肉を切り裂いて、あの美しい料理をどうやって一から作り出せばよいのか。
その過程など知る由もなかったのである。
(私が己の手で実践できる唯一の調理法……それは、父上が戦陣で重宝していたという『見つけたいやききの草を、すべて鍋に放り込んで泥のようになるまで煮立たせる』という、極限状態の陣中食のみ……)
美しい料理の味を知っているからこそ、己の生み出す「発光する泥汁」がいかに異端であるかは、実は私自身が一番よく分かっていた。
だが、それを職人衆に振る舞えばどうなるか。
(皆、一口で白目を剥いて気絶し、我が城の普請は完全に滞ってしまうでしょう。そればかりか、毒を盛ったと判断されれば、私はこの聖都の防衛隊に討ち取られるやもしれぬ!)
己の高貴さゆえの無力さに私は絶望的なため息を漏らした。
籠城戦ならばいざ知らず、平時の、しかも恩人である職人衆に泥水を飲ませるわけにはいかない。だが、今の我が家には大した食材の備蓄もないのだ。
私が台所の隅で立ち尽くし、切腹でも申し渡された武士のように目を閉じていると、「おや、ガラシャ君。なんだか随分と深刻な顔をしてるじゃないか」と、聞き慣れた声が響いた。
振り返ると、勝手口のところにクロエ教授とヨゼフ殿が立っていた。
二人の手には、籠いっぱいの瑞々しい野菜や、大きな肉の塊、そして香ばしいパンが抱えられている。
「教授、ヨゼフ殿……そのお荷物は?」
「昨日、君の庭で採取した巨大マンドラゴラ(薬草)の研究がすこぶる捗ってね! そのお礼に、市場で美味そうな食材を買い込んで、ヨゼフ殿と一緒に昼食でもどうかと思って来たんだ」
「お嬢ちゃん、最近ちゃんと食べてるか心配だったしね。……それに、表で工事してる職人さんたちの分も足りるくらい、教授がごっそり買ってくれたんだよ」
私は、この世界にまします慈愛の女神の導きを確信した。
「……いとありがたき幸運。実はいま、表で普請をしてくださっている職人の方々に、昼食を振る舞おうと考えていたところなのです」
私は深々と頭を下げた。
「どうか、その食材を使わせてくださいませ。私が腕を振るい、皆様に極上の料理を作りますゆえ!」
私が誇り高く宣言し、竈の前に立った瞬間である。
「待って!! お嬢ちゃん、お願いだから待って!!」
ヨゼフ殿が、悲鳴のような声を上げて私の両腕にすがりついてきた。
「えっ? どうかいたしましたか?」
「職人さんたちに、あの『泥みたいな光る劇薬』を飲ませる気かい!? 全員気絶して屋根から落ちたらどうするんだい!!」
「……おや。あれは疲労回復に最適かと存じますが」
私が首を傾げると、隣でクロエ教授が「おお、あの伝説の神話級ポーションの醸造工程が見られるのか! ぜひ記録をとらせてくれ!」と炭筆を構えて目を輝かせた。
だが、ヨゼフ殿は胃のあたりを強く押さえながら、首を猛烈に横に振った。
「ダメだ! 今日は私が、まともな『普通のスープ』の作り方を教えるから! お嬢ちゃんは私の言う通りに野菜を切るだけにして!」
ヨゼフ殿の必死の懇願(命乞い)により、私の「まともな料理」の幕が開いた。
「よし、まずはその『暴れ芋』の皮を剥いて、一口大に切るんだ。魔力が強い土地で育った芋だから、少し元気なんだけど……」
ヨゼフ殿が籠から取り出したのは、ごつごつとしたこげ茶色の芋であった。しかし、それはただの芋ではない。
まるで生き物のようにビクンビクンと脈打ち、まな板の上に置かれた瞬間、「ピギィ!」と奇妙な鳴き声を上げて跳ね回ろうとしたのだ。
(敵将、あり……!)
私は血筋というべきか、究極の反射神経を発動させた。
「ふっ!」
鋭い呼気とともに、私は棚から引き抜いた包丁を逆手に持ち、空中に跳ね上がった暴れ芋を、目にも留まらぬ速さで斬り捨てた。
タタタタタタタッ!!
まな板の上に、寸分の狂いもなく一口大に切り刻まれた芋が綺麗に並んで着地する。小太刀の如き私の包丁捌きに、跳ね回っていた芋は完全に沈黙した。
「……討ち取ったり」
私が静かに息を吐いて包丁を収めると、背後でヨゼフ殿とクロエ教授が口をあんぐりと開けて固まっていた。
「お、お嬢ちゃん……今、完全に暗殺者の動きだったよ……?」
「ガラシャ君、君のその武術の素養はいったいどこで……」
(昔見学した稽古の太刀筋。見よう見まねでやってみたのですが、上手くいってしまいましたか。私もやはり明智の人間ですね。……ちょっと怖かった)
「さあ、次は何を斬ればよろしいですか?」
私が澄ました顔で微笑むと、二人は顔を見合わせてゴクリと喉を鳴らした。
その後も、ヨゼフ殿の厳格なる指導は続いた。
「肉は水から煮込んじゃダメだ! まずは鍋で表面を軽く焼いて、旨味を閉じ込めるんだよ!」
「ほう。火攻めで周囲を炙ってから、一網打尽にするのですね」
「例えが物騒だけど、まあそんな感じだ! 次にさっき切った野菜を炒めて、それから水を入れる!」
ヨゼフ殿の教えに従い、肉を焼き、野菜を炒め、そこに水を注いでコトコトと煮込む。味付けは塩と、教授が持ってきてくれた少しの香草だけ。
やがて鍋からは、かつての青臭い泥のような匂いではなく、肉の脂と野菜の甘みが溶け合った、えも言われぬ芳醇な香りが立ち上り始めた。
(……なんと。すべてを無差別に煮立てずとも、具材の持ち味を引き出すことで、このような深い香りが生まれるとは)
私は目から鱗が落ちる思いであった。
料理とは、ただ栄養を腹に詰め込むためのものではなく、命を慈しむための儀式であったのだ。
「よし、いい匂いだ。最後に、お嬢ちゃんのその……『少しのお祈り』を込めてくれるかい? あくまで『少し』だよ。暗闇で本が読めるほど発光しない程度にね」
ヨゼフ殿に念を押され、私は胸のロザリオをそっと両手で包み込んだ。
我が城の普請のために汗を流す職人衆と、温かな知識を授けてくれた恩人たちの、無事と安寧を心から願って。
(主よ。どうかこの糧に、彼らを癒すささやかな温もりを与えたまえ)
カッ……と微かな純白の光が鍋全体をふわりと包み込み、すぐにスッと消えた。
木杓子で掬い上げてみると、スープは泥色ではなく、肉の旨味が溶け出した美しい黄金色に澄み渡っている。
「……見た目が綺麗すぎます。これでは武骨さが足りず、士気が上がらぬのでは……」
「いや、むしろこれでこそ食欲が湧くというものだよ」
* * *
昼時。
私たちは庭の木陰に長机を運び、休憩に入った職人たちに、温かいスープと切り分けたパンを配った。
「おお、こりゃあ美味そうな匂いだ! 嬢ちゃんのお手製かい?」
親方が嬉しそうに木の椀を受け取る。
私は無意識のうちに小袖の袖口をきつく握りしめ、心臓を早鐘のように打たせていた。
(口に合うでしょうか。もし不味いと匙を投げられれば、主としての面目が潰れるだけでなく、彼らの士気は底に落ち、普請の質にも関わります……!)
深い緊張感の中、私は親方たちがスープを一口飲むのを、息を詰めて見守った。
「…………」
親方の動きが、ピタリと止まる。
(あっ……やはり、気風が足りなかったのです!)
私が絶望しかけ、申し訳なさにその場で切腹の作法を思い描き始めた、次の瞬間。
「くぅ〜っ!! 身体の五臓六腑まで染み渡るぜ! なんだこのスープ、信じられねぇくらい美味い!!」
親方が相好を崩し、豪快に天を仰いで笑ったのだ。
「野菜の甘みがしっかり出てて、肉もホロホロだ! それに、なんだか一口飲んだだけで、午前中の肩の痛みも疲労も、魔法みたいにフッ飛んじまったぞ!」
「本当だ親方! めちゃくちゃ美味いっす! お代わりもらえますか!?」
他の職人たちも、次々と笑顔でパンをスープに浸し、あっという間に椀を空にしていく。白目を剥いて気絶する者は一人もいない。ただ、純粋な「美味しい」という喜びの顔だけがそこにあった。
「……美味、でございましたか?」
私が恐る恐る尋ねると、親方は「ああ、聖都で一番の味だ! 午後も気合入れて働くぜ!」と親指を立ててみせた。
「……!」
その瞬間。
私の中で頑なに張り詰めていた武家の矜持も達観も、すべてが春の雪のように溶け去っていった。
自分が手をかけ、心を込めて作ったものが、誰かの笑顔になり、血肉となる。
誰かに「美味しい」と喜んでもらうことが、これほどまでに満たされるものだったとは。
奥御殿に閉じ込められていた頃には、決して味わうことのなかった素朴な幸福感であった。
「お粗末様でございました……ふふっ」
私は袖で口元を覆い隠すことも忘れ、年相応の、それこそ十五歳の少女のようなホクホクとした笑顔を咲かせていた。
「よかったね、お嬢ちゃん」
ヨゼフ殿がホッと安堵して目を細め、クロエ教授も「うむ、発光せずとも十分に奇跡の味だ。実に興味深い!」と三杯目のスープを堪能している。
澄み渡る秋の空の下。
職人たちの豪快な笑い声と、心地よい槌の音。
そして温かなスープの匂いが満ちる我が家。
私は胸元のロザリオにそっと触れ、この得難い「日常」という名の奇跡に、静かで深い感謝の祈りを捧げた。




