#13
朝陽の暖かさと、ふかふかの羽根布団の恐ろしいほどの心地よさに私は危うく寝坊をしかけた。
戦国の世では、いつ何時襲撃を受けても飛び起きられるよう、浅い眠りを繰り返すのが常であった。
しかし、昨夜はあの冷たい銀の簪を手放したせいか、一度も目を覚ますことなく朝を迎えてしまったのである。
身支度を整えるため、私は昨日クレアが買い与えてくれた「町娘の服」へと袖を通した。
「……やはり、あまりに肌を晒しすぎではないでしょうか」
誰も見ていないというのに、私は顔にカッと熱が集まるのを感じ、たまらずスカートの裾を下に引っ張った。武家の女として、肌の露出は己の貞淑さを疑われる忌避すべき事態である。
私が赤面してそわそわとしていると、庭先からシロの声が響いた。
「おお、姫君! 本日もいと麗しきお姿! その身軽な装束なれば、いざという時の立ち回りも迅速に行えましょうな!」
「……ええ。お世辞痛み入ります、シロ」
やはり元・魔狼とはいえ、武士の魂(?)を持つシロには、この服は「動きやすい戦闘着」に見えるらしい。私は少しだけ安堵し、籠を手に取って修道院跡地を出た。
本日の目的は、この世界の「理」を学ぶことである。
街の情勢、歴史、そして法律。この地で生きていくためには、無知であってはならない。
* * *
石畳の大通りを歩き、私はシロを外に待たせて一軒の巨大な建造物へと足を踏み入れた。看板には本の絵が描かれている。『書店』である。
「まあ……!」
一歩足を踏み入れ、私は思わず感嘆の息を漏らした。
壁一面、天井まで届くほどの巨大な本棚に、夥しい数の書物が整然と並べられている。
生前、書物といえば手書きの巻物や写本が主流であり、南蛮寺で目にした活版印刷の書物も極めて高価な希少品であった。
これほどの知識の結晶が、市井の民に開かれているとは。
(さすがは平和な聖都。和歌や漢籍を嗜む者として、血が騒ぎますね)
私は心を躍らせながら歴史書の棚へ向かい、分厚い一冊を手に取った。
表紙をめくり、真新しい紙の匂いを吸い込みながら、第一の頁に視線を落とす。
「…………?」
私は、ピタリと動きを止めた。
そこに並んでいるのは、まるで這い回るミミズか、幾何学的な記号の羅列であった。
「……読めませんわ」
何度目を瞬かせても、文字が頭に入ってこない。
そこで私は、致命的な事実に思い至った。
神が私に与えてくださった『言葉を紡ぐ恩寵』は、異世界の言語を耳で聞き、口で話すための「音声と意志」の翻訳には完璧に機能している。
しかし、私がこれまでの人生で一度も学んだことのない「文字の形」までは、恩寵の管轄外であったのだ。
(さても、困りましたね。これでは童と同じ文盲ではありませんか)
私は密かに冷や汗をかきながら、歴史書をそっと棚に戻した。
三十七年の生涯で積み上げた教養も、文字が読めねば宝の持ち腐れである。
私は店の中をうろつき、やがて『絵本』が並ぶ子供向けの区画へと辿り着いた。
文字の形と絵が共に描かれたものなら、独学で規則性を導き出せるはずだ。
私が手に取ったのは、三匹の愛らしい子豚が、家を建てる童話の絵本であった。
一番目の子豚は、藁で家を建てたらしい。
(……藁で陣を構築するとは、愚の骨頂。あのようなもの、一本の火矢を射掛けられれば一溜まりもなく灰燼に帰します)
私は無意識のうちに眉間に深い皺を寄せ、挿絵の藁の家を睨みつけた。
二番目の子豚は、木の家を建てた。
(木壁も、防塁や堀がなければ容易く破られます。三番目の煉瓦の家は防御力こそ高いものの、周囲に水堀もなく、兵站の描写も見当たりません。これでは長期の兵糧攻めに遭えば、自滅を待つのみ……)
そこまで考えた瞬間である。
ハッとして、私は激しく首を振った。
(い、いけませぬ! 何を考えているのです、私は!)
私は急激に冷静になり、絵本で顔を隠すように俯いた。
(なぜ私は、童話の豚の住処を相手に、真剣に陣立ての粗探しなどしているのでしょう! そもそも私は戦の采配など一度も振るったことのない、奥御殿の女。実戦を知らぬ素人が、いっぱしに兵法を語るなど、歴戦の武将の方々に鼻で笑われます!)
私は己の無自覚な傲慢さに恥じ入り、顔を真っ赤にした。
(いや、それ以前の問題です。この平和で美しい世界で、日ノ本の血生臭い戦の理を持ち出すこと自体、やめねばなりません……っ)
私が絵本の陰で葛藤し、一人でワタワタとしていると、不意に隣から声が降ってきた。
「随分と真剣に絵本を読んでいるね、お嬢さん」
ビクッとして顔を上げると、そこには見知らぬ女性が立っていた。
私よりも身体は一回りほど年上――三十代半ばだろうか。学術院の者が着るような白衣を纏い、無造作に束ねた髪と、知的な光を放つ銀縁の眼鏡が印象的である。
「あ、その……」
「さっきから君の様子を見ていたのだけれど」
女性は興味深そうに目を細め、私の手元の絵本を指差した。
「君のその立ち振る舞いや、時折口から漏れていた独り言の語彙力。とても高等な教育を受けた貴族の令嬢にしか見えない。……それなのに、なぜ幼児用の絵本と睨み合って、文字の拾い読みから始めようとしているんだい?」
(……っ、聞かれていましたか)
私は一瞬たじろいだが、すぐに気品ある微笑みを浮かべ直した。
「初めまして。私はガラシャと申します。……お恥ずかしい話ですが、私は遠い異国の生まれでして。ある種の『恩寵(魔法)』の力により、皆様のお言葉を解し、こうして会話をすることはできるのですが……文字の造詣までは恩寵が及ばず、難儀しておりましたの」
「恩寵……なるほど! 聴覚的・音声的な概念変換のみに作用する翻訳魔法アーティファクトの効果か! それは極めて珍しい……実に興味深いね!」
女性は突如として眼鏡を輝かせ、早口で捲し立てた。
知識を探求する者の、独特の熱量である。
「私はクロエ。学術院で教授をしている者だ。そういうことなら、私が少し文字の基礎を教えてあげよう」
クロエ教授は気さくに笑い、私の絵本を覗き込んでいくつかの単語と発音の規則性を丁寧に教えてくれた。
彼女の教え方は理路整然としており、学の素養がある私にとっては砂が水を吸うように理解できた。
「ありがとうございます、クロエ教授。あなたの博識には感服いたしました。もしや、古代文字や歴史の専門家でいらっしゃるのですか?」
私が感謝を込めて尋ねると、彼女は軽く手を振った。
「いや、私の専門は『植物学』だよ。未知の薬草や、特殊な魔力を持った植物の生態調査。それが私の生き甲斐でね。だが、最近は新種の発見がなくて退屈していたところなんだ」
(植物学……)
その言葉を聞き、私は「はて」と小首を傾げた。
植物の専門家であれば、我が家の庭の惨状……もとい、あの不思議な植物たちの正体をご存知かもしれない。
「植物の専門家でいらっしゃるのですね。それは奇遇にございます。実は、私の家の庭に、少しばかり不思議な薬草が生えておりまして」
私は世間話のつもりで、ふんわりと微笑んだ。
「不思議な薬草?」
「ええ。私の背丈ほどもありまして、夜になるとチカチカと眩い光を放つ泥……いえ、薬草なのです。それに昨日植えた桔梗に似た花は、見事な美声で賛美歌を歌い出しまして。あれはいかなる品種なのかと……」
「…………はい?」
クロエ教授の動きが、完全に停止した。
ズレかけた眼鏡の奥の瞳が、これ以上ないほど見開かれている。
「ひ、人が隠れるほどの巨大な発光植物……!? その上、自意識を持って歌う花だと!? そ、そそそ、それは神話時代の文献にしか記されていない、伝説の霊草の特徴……っ!!」
教授は突然、私の両肩をガシッと力強く掴んだ。
「お嬢さん!! 君の家はどこだ!? 今すぐ私をその庭に案内してくれ!!」
「えっ、あ、はい。街外れの修道院跡地ですが……」
「よし行くぞ!! 走れ!!」
知識探求の鬼と化したクロエ教授に腕を引かれ、私は絵本を持ったまま文字通り街の大通りを引きずられていく羽目になった。
(……さても。私の生活は、やはりなかなか静かにはさせていただけないようです)
書店の外で待っていたシロが、「姫君!? 誘拐でござるか!?」と慌てて後を追ってくる足音を聞きながら、私は風でめくれるスカートの裾を必死に押さえることしかできなかった。




