第3話 水晶に映らない知性
王宮には時計がない。
朝は光で、夜は暗さで判断する。原始的だが、不便かというとそうでもない。もともと湊は腕時計を持たない人間だった。時間は周囲の動きで読む。五年間でそうなった。
三日が経った。
蓮司の一日は湊には見えない。朝、廊下で顔を合わせる。夜、食堂で顔を合わせる。それ以外の時間、蓮司はいつも誰かに連れていかれている。騎士団長、宰相、国王付きの侍従、老魔術師。名前が変わるだけで構造は同じだ。蓮司の周囲には常に人がいて、蓮司はいつもその中心にいる。
湊の一日も、似たようなものだ。ただし、連れていかれる先が違う。
最初の仕事は、東棟の備品整理だった。
倉庫の棚に、布や陶器や蝋燭の類が雑然と積まれていて、それを種類ごとに分類して台帳に記録する。台帳というのは羊皮紙のようなもので、インクというのは妙に粘度が高くて、湊はまず書き方に三十分かけた。
隣でリリアが同じ作業をしていた。
「これ、何年も誰もやってなかったみたいで」とリリアが言った。
「すごい量ですよね」
「そうだな」
「あの、嫌ですか? こういう仕事」
「嫌じゃない」
「本当に?」
「整理されていないものを整理するのは、嫌いじゃない。終わりが見えるから」
リリアが少し考える顔をした。
「終わりが見えるのが好きなんですか」
「嫌いな仕事の終わりが見えるのが好きだ」
「じゃあこの仕事は嫌いなんですか」
「好きでも嫌いでもない」
「……難しいですね」
「そうか?」
「はい」とリリアが言った。
「私、好きか嫌いか、どっちかなので」
湊は陶器の欠けた皿を棚に戻した。台帳に「破損・一枚」と書いた。羊皮紙に書くと、なぜか少し重大な事実のように見える。媒体が感情に影響する。人間は不思議だ。
「リリアは何が嫌いか」
「え?」とリリアが顔を上げた。
「急ですね」
「聞いてみた」
リリアはしばらく考えてから、「怒られることです」と言った。迷いがなかった。
「怒られることが嫌いで、怒る人が多いところにいる」
「……そうなりますね、王宮は」
「よくやっている」
「そう、ですかね」
「褒めている」
リリアがまた笑った。今日で三度目の、悪気のない笑い方だった。
昼過ぎ、廊下で蓮司とすれ違った。
蓮司の隣にはヴァルド騎士団長がいた。四十前後の大柄な男で、首から剣の柄が覗いている。蓮司はその横を歩きながら、何か話していた。ヴァルドが大きくうなずいた。笑っていた。
「如月」と蓮司が気づいて声をかけた。
「ああ」
「何してた」
「備品の整理」
「備品?」
「棚にあるものを分類して台帳に書く仕事だ」
蓮司が湊の顔を見た。何か言葉を探しているような顔だったが、見つからなかったらしい。
「そっか」
「そうだ」
「またな」
ヴァルドが「参りましょう」と促し、蓮司が歩き出した。廊下の角を曲がって、足音が消えた。
湊は元来た方向へ歩き始めた。
楽しいか、と聞かれなかった。聞かれていれば「楽しくはない」と答えただろうが、聞かれなかったので答えなかった。これを惜しいと思うかどうかで、人間の種類が分かれる気がする。湊はどちらでもなかった。
夕方、老魔術師に呼ばれた。
召喚儀式を担当した白髪の老人、オルフェンだ。執務室は北棟の一番奥で、湊は二度道を間違えた。
「座りなさい」と老人は言った。
湊は椅子に座った。古い木の椅子で、軋んだ。
「測定の結果について、話がある」
「聞きます」
「君の数値は低かった。しかし」とオルフェンが言いかけて、一度口をつぐんだ。
「測定できなかった、と言う方が近い」
湊は少し考えた。
「測定できない、というのは」
「水晶は魔力と戦闘適性を測る。知力は測らない。知力には、水晶が対応していない種類がある」
「知力に種類がある?」
「そうだ」とオルフェンが言った。老人の目が少し細くなった。
「気づくものは、めったにいない」
湊は答えなかった。気づいたのではなく、老人の言葉の構造から類推しただけだ。しかし訂正するほどの話でもなかった。
「君には、おそらく」とオルフェンが続けた。
「水晶が測れない種類のものがある。それが何かは、まだわからない。わからないが」
「何ですか?」
「気をつけなさい」
湊は少し考えた。
「何に」
「人が君に集まるとき、それは偶然ではない。ただ、理由を知らない者が多い」
それだけ言って、老人は窓の外に目を向けた。話が終わった、という雰囲気だった。
湊は立ち上がり、「わかりました」と言った。わかっていなかった。わかりましたと言うのが適切な場面というのはある。これも五年間で身につけた技術の一種だった。
夜、食堂で蓮司と向かい合った。
「訓練どうだった」と湊は聞いた。
「最高」
「そうか」
「如月は?」
「備品の整理が終わった。明日は厨房の手伝いらしい」
「厨房」
「料理じゃない。水を運ぶ」
蓮司が黙った。何か言葉を探しているような間だったが、今度は見つかったらしい。
「如月がここにいる意味、あるのかなって」
「ある」
「でも雑用だろ」
「そうだ」
「それは…」
「皇」と湊は遮った。
「俺がここにいる意味を気にするより、お前がここにいる意味を果たす方が先じゃないか」
蓮司が三秒黙った。
「確かに」
「珍しく『確かに』が遅かった」
「考えてたんだ」
「何を?」
「俺がここにいる意味」
「今それを考えるのか」
「確かめたかった」
湊はスープのようなものを一口飲んだ。塩気が少し足りなかった。蓮司は本気でそれを考えていたのだろう。この男は怒ったかどうかより、意味があるかどうかの方に関心がある。自分の意味について、他人に確かめる必要を感じている。それが羨ましいとは思わない。ただ、少し珍しい種類の人間だとは思う。
蓮司は笑った。邪気のない笑い方だった。それが湊には、やはりときどき羨ましかった。この男は答えが出なくても笑える。それはひとつの才能だと思う。勇者適性よりは地味だが、日常生活においては案外便利な種類の。
部屋に戻る廊下で、湊はオルフェンの言葉を思い出した。人が君に集まるとき、それは偶然ではない。
リリアが笑った。蓮司が待っていた。老魔術師が呼んだ。
どうせろくなことにならない、と思った。ただ、この王宮でその言葉を受け取れる人間が、少しずつ増えてきている。
それが今夜の発見だった。湊はそれを、心の少し冷えた場所でそっと確認した。
発見を喜ばないのは、もう慣れている。
厨房は朝が一番うるさい。
料理人が四人と見習いが二人、それに食材の搬入業者らしき男が一人、全員が同時に何かを言っている状態で、湊は扉を開けたところに立ち止まった。どこから入っていいのかわからない、という問題よりも、入ったところで何をすればいいのかがわからない、という問題の方が先にあった。
昨日の夕食の席でグラナードが言っていた。今後は厨房の補助にも入ってもらう、と。補助の内容は「水を運ぶ」、それだけだった。どこの水をどこへ運ぶかは言わなかった。宰相というのは概要だけ伝えて詳細は現場に丸投げする種族だということが、三日でわかってきた。前の会社の部長と同じ種族だ。
「如月様」
声がした。




