第2話 雑用の有段者
翌朝、と湊は思った。
翌朝、という言葉が異世界でも成立するのかどうか、まだよくわからない。ただ、光が窓から差し込んでいて、石造りの天井は昨日と同じで、自分が生きているのは確かだった。
石のベッドではなかった。その点だけは評価できる。布団のようなものがあって、枕のようなものがあって、「最低限の文明はある」と湊は確認した。それ以上の感想は特になかった。
扉を開けると、廊下に蓮司がいた。
「おはよ」
「……なんで廊下にいる」
「待ってた」
「なんで」
「如月と話したかった」
湊は蓮司の顔を見た。屈託がない。昨日、広間で勇者適性ありと判定され、国王に握手され、兵士たちに囲まれ、それでもこの男の顔には何も積み重なっていなかった。鉄のようだな、と湊は思った。正確には、鉄ですら重力には従う。蓮司はもっと別の何かだ。
「話って?」
「昨日のこと」
「昨日のどれだ、色々あった」
「全部」
全部、と湊は繰り返す。全部を話せる体力は今朝の湊にはない。
湊は腹に手を当てて呟いた。
「腹減ったな」
「あ、食堂あるってさ。案内してもらえる約束した」
「誰と」
「兵士の人。レオンって言ってた」
湊は軽くため息をついた。この男は着地してから何時間で人脈を作るんだ。昨日、召喚されて水晶に手を置いて、それから何があったか湊は正直よく覚えていない。気づいたら部屋に案内されていた。蓮司は今ごろ騎士団長に気に入られている、とその時点で予測できていれば、もう少し心の準備ができたかもしれない。実績がある、この展開にも。
食堂は広かった。石造りで、長いテーブルが並んでいて、匂いはまあ悪くはない。兵士たちが数名、遠巻きに蓮司を見ていた。湊の方を見ているものは一人もいない。それはそうだ、と湊は思った。
「あの、昨日は失礼しました」
若い声だった。振り向くと、二十代前半らしい兵士が直立していた。レオン、というのはこの男か。
「皇様には、改めてご挨拶を」
皇様。湊は咀嚼した。「様」がついた。
「蓮司でいい」と蓮司が言った。
「皇様は、長い」
「そんな、恐れ多い」
「じゃあ蓮司さんで」
レオンが小さく頭を下げた。その視線が湊の方に一瞬だけ向いて、それからすぐに蓮司に戻った。自然な動きだった。あまりに自然で、湊は少し感心した。訓練されている、という感じではない。本当にそこには「見るべきものがない」と思っているのだろう。
悪意のない無視は、悪意のある無視より、どこか静かに深く刺さる。もっとも、刺さるためには皮膚が必要だ。五年間で湊の皮膚はかなり分厚くなっている。有段者、と言ってもいい。
「如月さんには、その」とレオンがどこか申し訳なさそうに言いかけた。
「気にしなくていい」
「でも、昨日の測定の結果が……」
「仕方ない。実力通りだ」
少し間を置いてから、付け加えた。
「慣れている」
レオンは何か言いたそうな顔をして、それ以上は言わなかった。この若者はまだ親切心がある。それが数年後も残っているかは、わからないが。
朝食の途中で、宰相が来た。
五十代の男で、金と白が混じった顎髭を整えていた。グラナード、と蓮司が後で教えてくれた。この男もやはり蓮司にだけ話しかけた。王宮での今後の扱いについて、勇者としての訓練の日程について、国王陛下との謁見について。
湊は黙って麦のようなものを食べていた。
悪くない味だった。
「如月さんには」とグラナードが最後に、いかにも付け足しという口調で言った。
「当面は王宮内の雑用をお願いしたい」
「雑用…ね」
「王宮の維持、環境整備、諸々の補助業務です。勇者候補でないとはいえ、異世界からお越しいただいた身ですので、相応の扱いはさせていただく」
「わかりました」
グラナードが少し意外そうな顔をした。もっと抵抗するとでも思っていたのかもしれない。
湊は思わなかった。雑用の何が悪い。五年間やってきた。段位でいえば有段者だ。
「如月」と蓮司が言った。
「なんだ」
「いいのか」
「何が」
「雑用だよ」
「有段者に向かって失礼なことを言うな」
「……って何の?」
「雑用のだ」
蓮司は三秒黙って、それから「それはランク制なの?」と言った。
本気の顔だった。湊は答えなかった。答えるべき言葉が見当たらなかったのではなく、答えたところで蓮司には届かないとわかっていたからだ。。
グラナードはすでに次の話を始めていて、レオンが熱心にメモを取っている。テーブルの端で、湊はまた麦のようなものを食べた。
昨日と同じだ、と湊は思った。
正確には、異世界に転生しても昨日と同じだ。転生前と同じ配置に、三秒で戻ってきた。これを何と呼ぶか。諦観というには少し疲れた言葉だ。ただ、ここが自分の場所だという感覚がある。窓際の席で、一歩後ろで、ペンを動かしているとそれっぽく見える場所。
五年間で身につけた技術は、異世界でも使える。
その発見だけが、今朝の収穫だった。
午後、蓮司は騎士団長のところへ連れて行かれた。
湊には何の案内もなかった。廊下に立っていると、通り過ぎる侍女たちが遠巻きに見ていた。脅威ではない、という視線だ。警戒でもない。ただ、そこにいる理由がわからない、という目をしていた。
湊には自分でもわからなかった。
石造りの廊下を、特に目的地を決めずに歩いた。窓の外は広い庭で、木が数本と噴水があった。噴水の水は透き通っていた。綺麗だな、と思った。それだけだった。
角を曲がったところで、誰かと正面からぶつかりそうになった。
「あ」
若い声だった。振り向くと、小柄な娘が、大きな布袋を両手で抱えていた。十七、八歳だろうか。栗色の髪が少し乱れていて、頬に赤みがある。走ってきたらしい。
「す、すみません」と娘が言った。
「前を見ていなくて」
「こちらこそ」
「あなたが、昨日召喚された方ですか?」
「そうだが」
娘は少し考える顔をしてから、「勇者様じゃない方の」と言った。
「うん、じゃない方だが」
「あの、失礼でしたか?」
湊は少し考えた。失礼かどうかという問いに答えるには、自分がどう感じたかを確認する必要がある。確認してみると、別に何もなかった。
「失礼じゃない。正確な区別だ」
娘がほっとしたような顔をした。それから、布袋を片手に持ち直して、空いた手を胸に当てた。
「リリアと言います。女給をしています」
「如月湊だ」
「きさらぎ、みなと」とリリアが繰り返した。
「変わった名前ですね」
「異世界から来たので」
「あ、そうですよね」
リリアが少し笑った。悪気のない笑い方だった。蓮司とは別の種類の、天然の笑い方だった。蓮司の天然は無自覚な確信から来ている。この娘の天然は、たぶん別の場所から来ている。どこかはまだわからない。ただ、害がない種類の天然だという感触はある。蓮司の天然は、ときどき人を傷つける。本人はまったく知らないまま。
「その袋、重そうだね」
「あ、平気です。いつもこれくらいは」
「どこへ持っていく」
「東棟の洗濯室まで」
「案内してもらえるか」と湊は言った。
「まだ王宮の構造がわからない」
リリアが少し目を丸くした。
「私が案内するんですか?」
「邪魔なら別の人を探す」
「あ、いえ…邪魔じゃないです!むしろ案内します、はい」
リリアはそう言って、袋を両手に持ち直した。それから三歩進んで、振り返った。
「荷物、持ってもらえますか?」
「案内してもらう側が荷物持ちか」
「重いので」
湊は少し考えてから、袋を受け取った。確かに重かった。
廊下を並んで歩きながら、リリアがぽつぽつと王宮の構造を説明した。東棟と西棟の違い、使用人が使う階段の場所、食事の時間帯。湊は黙って聞いていた。有用な情報だった。
「勇者様は訓練場にいらっしゃると思います」とリリアが言った。
「そうか」
「すごいんですよね、昨日の測定。みんな話してました」
「そうだろうな」
「如月様は」とリリアが少し言いにくそうに言った。
「これから、何をされるんですか」
「雑用」
「……それは」
「悪くない仕事だ。むしろ得意だ」
「得意なんですか」
「まあ」
「どんな雑用が得意ですか」
「整理と記録」
「続けてきたから得意になったんですか」
「そうだ」
「続けると得意になるんですね」とリリアが言った。少し間があった。「向いてると思われると、ずっとやることになりますよね。私もそうなので」
「向いたわけじゃないんだが」
「え?」
「なんでもない」
湊は少し間を置いた。この娘は慰めているのでも、共感しているのでもない。ただ、事実を言っている。悪意がない分、少しだけ怖い種類の事実だった。
リリアはまた少し考えてから、「私も雑用です」と言った。
「知ってる。女給だと言っていた」
「あ、そうか、言いましたね」
リリアが笑った。さっきと同じ、悪気のない笑い方だった。
廊下の突き当たりに、人がいた。
白い衣で、遠すぎて顔はわからない。ただ、こちらを見ていた。視線、という言葉では足りない何かがあった。値踏みではない。観察でもない。もっと静かで、もっと執拗な何かだ。
リリアがその方向に気づいて、少し体を強ばらせた。
湊は何も言わなかった。リリアも何も言わなかった。二人は洗濯室の方向へ歩き続けた。白い衣の人影が角を曲がって消えるまで、湊はそちらを見なかった。見ない方がいい、という判断ではない。ただ、見たところで今の自分には何もわからない、という確信があった。
わからないものは、急いでわかる必要もない。リリアが体を強ばらせた一瞬だけ、湊は覚えておくことにした。
洗濯室の扉の前で、湊は袋を返した。
「ありがとうございました」とリリアが言った。
「また迷ったら声をかけてください」
「世話になる」
「いえ、その、如月様が荷物持ってくれたので私の方がお世話になりました」
「そうか」
「はい」
リリアが中に入っていくのを見届けて、湊は廊下を引き返した。
どうせろくなことにならない、と思ったが、声には出さなかった。
出す相手が、まだここにはいない。
それが、今日いちばんの平和だったかもしれない。




