第4話 息と声、そして白い衣
エプロンをした小柄な人影が、厨房の奥から小走りで来た。リリアだった。頬に小麦粉がついている。
「今日から厨房ですか」
「そうらしい」
「よかった。私もです」
「よかったのか」
「一人だと水の桶、重くて」
なるほど、と湊は思った。よかった、の意味が分かった。歓迎ではなく、即戦力としての期待だ。リリアはそれを悪気なく言っている。悪気がないので、腹も立たない。
「桶はどこだ」
「こっちです」
リリアが先に立って歩いた。厨房の奥に、木製の桶が十数個積まれていた。大きい。湊が一人で持てなくはないが、持ちたくはない種類の大きさだ。
「井戸が中庭にあって、往復を五回くらいします。朝のうちに」
「五回か」
「多い日は七回です」
「七回の日はいつだ」
「大きなお客様がいらっしゃるときです」
「それは最近あるか」
「勇者様が来られてから、多くなりました」
そうか、と湊は言った。皇蓮司が来た、つまり自分も来た、つまりリリアの仕事が増えた、という三段論法が一瞬で展開されたが、声には出さなかった。出したところで、リリアは悪気なく「そうなんです」と言うだろう。それはそれで困る。
湊は桶を一つ持った。確かに重かった。
中庭の井戸は古く、滑車が軋んだ。
リリアがロープを引っ張り、湊が桶を受け取る。その繰り返しだ。単純な作業だったが、リズムができると悪くはなかった。体を動かしていると、余計なことを考えない。正確には、考えないというより、考えても特に結論が出ないことが多いので、体を動かしている方が合理的だ、という感覚に近い。
「如月様は、向こうの世界では何をされていたんですか」
二往復目の帰り道、リリアが聞いた。
「会社員だ」
「かいしゃいん?」
「働く場所に毎日通って、言われた仕事をこなす」
「ここと同じですね」
「そうだな」
「楽しかったですか」
楽しかったか。湊は少し考えた。楽しかったかどうか、と問われると難しい。ただ今、口をついて出そうになったのは「まあ、それなりに」という答えだった。
それが少し、妙だった。
三日前なら「さあ」と答えた気がする。五年間のことを振り返って、楽しかったと思う感覚は、あの会社を出るまでなかった。なのにここに来て三日が経ったら、楽しかったかもしれない、という気がしてくる。年金をもらい始めた老人が、サラリーマン時代を急に懐かしむような感覚に似ている。戻れない、とわかったから、楽しく見える。そういう仕組みだ。
楽しかった、と思うならまだいい。問題は、楽しかったかどうかもわからないことが、まだいくつかある、ということだった。たとえば瀬川明里からのメッセージ。あれが何を伝えようとしていたのか、それが「重かった」と一度は思ったが、何が重かったのかをまだ湊は処理していない。処理したふりをして、置いてある。
ロープを引く音がした。三往復目の桶が上がってきた。
「まあ」と湊は言った。「今となっては」
「今となっては?」
「戻れないと、そういうふうに見える」
「見えるって、楽しかったように?」
「そうだ」
リリアがしばらく考える顔をした。桶を胸の前に持ったまま、少し首を傾けていた。
「私、向こうの世界のこと、よく知らないんですけど」
「そうだろうな」
「でも、如月様が楽しかったなら、よかったです」
「楽しかったかどうかはまだわからない」
「さっき楽しかったみたいって言いませんでしたか」
「言った。言ったが、戻れないから楽しく見えるだけかもしれない」
リリアがまた首を傾けた。今度は反対方向に。
「難しいですね」
「そうでもない。人間そういうものだ」
「そうなんですか」
「実績がある」
リリアが「実績」という単語を口の中で繰り返してから、笑った。悪気のない笑い方だった。湊は桶を受け取って、廊下の方へ歩いた。笑い声が後ろで少し続いていた。
四往復目の途中で、事件が起きた。
事件、というほどのことでもない。ただ、湊の観測範囲では確かに何かが起きた。
リリアが桶を持ったまま、廊下の角を曲がりきれなかった。
正確には、曲がりきれたのだが、その先に侍女が一人立っていて、リリアは避けようとして足を止め、足を止めたせいで桶の水が勢いで半分こぼれた。侍女の足元が濡れた。侍女は十八か十九くらいで、一瞬凍りついてから、声を上げた。
「何してるの!」
「す、すみません、前が見えなくて」
「ドレスが濡れた。これ、どうするの」
「本当に申し訳ありません、拭きます、今すぐ」
リリアが慌てて腰のエプロンを外そうとした。桶を足元に置いた拍子に、今度は少し傾いて、また水がこぼれた。侍女の足元がさらに濡れた。
「もういい!」
侍女が廊下を歩いていってしまった。
リリアが桶の前にしゃがんで、濡れた石床を手で押さえた。押さえたところで水は消えないのだが、とにかく押さえていた。
湊は桶を床に置いた。
「怪我はないか」
「ないです……あの、ドレス、弁償しないといけないですか」
「わからない。ただ、侍女のドレスをこの王宮で弁償できる金額は、たぶん女給の俸給では無理だ」
「そうですよね」
リリアが顔を上げた。困り果てた顔をしていた。頬の小麦粉がまだ残っている。
「あの、如月様のせいではないですから、気にしないでください」
「気にしていない」
「本当に?」
「俺が関係しているなら気にする。してないなら気にしない」
「私のせいなので」
「そうだ」
リリアが少し固まった。慰めを期待していたのかもしれない。湊は慰める言葉を持っていないわけではなかった。ただ、今の状況で慰めを言うと、リリアが現実の問題を後回しにする、という懸念がある。懸念を正直に言うと、それはそれで別の問題が発生するので、何も言わなかった。
「とりあえず、残りの水を運ぼう」
「……はい」
リリアが立ち上がった。桶を持った。少し傾いている持ち方だったので、湊は無言で角度を直した。リリアが「ありがとうございます」と言った。
廊下を歩きながら、湊はさっきの侍女の後ろ姿を思い出した。怒り方が、職業的だった。日常的に怒る立場にいる人間の怒り方だ。ミーナ、という名前をリリアが後で教えてくれた。女給仲間の中では一番付き合いが長い、とも。
友人の怒り方が職業的になっていることに、リリアは気づいているだろうか。
たぶん気づいていない。
それでいい、という話ではないが、今すぐどうにもならない、という話ではある。
昼過ぎ、仕事が一段落した。
中庭の隅に石のベンチがあって、リリアがそこに座って何かを食べていた。丸いパンのようなものだ。湊が近くの壁に寄りかかると、リリアが「どうぞ」と言って、パンを一つ渡してきた。
「厨房からもらえるのか」
「はい。昼は。言ってなかったですね」
「教えてくれ、そういうことは」
「はい。あと、夕方に賄いもあります。魚のスープが多いです」
「悪くない」
「嫌いですか、魚」
「嫌いじゃない」
「よかった」
リリアがパンをちぎって食べた。湊は壁に寄りかかったままパンをかじった。固かった。固いのは鮮度の問題ではなく、製法の問題らしい。この世界のパンは全般的にこういうものだ、と三日で学習した。
「さっきのこと、怒られますかね」
リリアが空を見ながら言った。
「侍女のことか」
「はい」
「報告が上がれば、怒られるかもしれない」
「そうですよね」
「報告が上がらなければ、そのまま消える話だ」
「どっちだと思いますか」
湊は考えた。さっきの侍女の態度を思い返した。怒った。怒って、去った。ただ、追いかけてこなかった。現場に誰かを呼びにいく気配もなかった。
「五分の四で、消える」
「五分の四」
「根拠はないが」
「五分の一が残るんですね」
「そうだ」
リリアがしばらく黙って空を見ていた。
「私、よく失敗するんです」
「知っている。見ていた」
「見てたんですか」
「ここ数日で三回」
「三回も」とリリアが言った。驚いた顔だったが、否定しなかった。「数えてたんですか」
「数えていたわけじゃない。自然と入ってくる」
「なんで」
「わからない」
湊は、正確には、とそこで少し考えた。わからない、というのは少し違う。リリアの動き方は特徴がある。丁寧にやろうとして、丁寧にやろうとするあまり、一点に集中しすぎて他の点が抜ける。人が来たと気づくのが遅い。気づいてから動くのも少し遅い。ただ、本人は最善を尽くしている。そのことは動き方を見るとわかる。
それを全部言うと、また長くなる。
「気になる動き方をする」
「気になるのは、いいことですか」
「どちらでもない。ただ、目が行く」
リリアが少し考えてから、「すみません」と言った。
「謝らなくていい」
「でも」
「謝るべきことを謝るのはいいが、謝らなくていいことを謝っていると、本当に謝るべきときに言葉の重さが変わる」
リリアがパンを持ったまま、また少し固まった。
「難しいですね」
「そうでもない。区別するだけだ」
「区別できます?」
「慣れれば」
「いつ慣れますか」
「さあ」
「さあって」
「さあ、という感じだ」
リリアが笑った。今日で何度目か、悪気のない笑い方だった。湊はパンをもう一口かじった。固かった。
午後の早い時間、湊は備品室に台帳を戻しに行った。
東棟と北棟を繋ぐ渡り廊下の、「く」の字に折れた石壁の内側。人の動線から外れた袋小路を、湊は三日前から知っていた。知っていたが、今日そこへ向かったのは台帳を戻す最短経路だったからだ。
角を曲がりかけたところで、足が止まった。
湿り気のある淀んだ「音」があった。
最初に届いたのは息だった。男の息だ。深く、規則的で、その規則性が何を意味するか、湊は一秒で理解した。理解した上で、もう一秒、そこに立っていた。
次に届いたのは声だった。
女の声だった。声と言うより、声になる寸前のものだ。喉の奥で殺しきれなかった何かが、石壁を伝って漏れてくる。殺そうとしている。殺しながら、殺しきれていない。その「きれていない」部分だけが、湊の耳に届いた。
見えなかった。
息と声が混ざり合う。
壁一枚、隔てていた。
だから見えなかった。だから、聞こえるものだけが湊の中で膨らんだ。男の息の間隔。女の声が途切れるたびに訪れる、一瞬の完全な沈黙。その沈黙が何を意味するか。沈黙の後に来るものが何か。来るたびに女の声が一段、堪えきれなくなっていく、その一段ずつの、微細な変化。
見えない分だけ、耳が過剰になった。
耳が過剰になった分だけ、頭の中で何かが動いた。動いたものを、湊は止めなかった。止める必要を、その二秒の間、感じなかった。
女の声に、聞き覚えがあった。
今朝、廊下で声を上げていた声だ。怒った声と、今聞こえている声とが、同じ喉から出ている。それが湊の中で奇妙に重なった。重なりながら、どちらが本当の声かという問いを、湊は立てなかった。どちらも本当だ。ただ、片方は人目のある側に属していて、もう片方は石壁の内側に属している。その二つが壁一枚で隣り合っている。
湊は引き返した。
急がなかった。急ぐと、それが音になる。
迂回しながら、台帳を脇に抱えたまま、歩いた。耳の過剰がまだ少し残っていた。残っているものを、湊は整理しなかった。整理できなかった、という方が正確だ。
この王宮の石壁は厚い。厚いが、殺しきれないものがある。
殺しきれないものだけが、壁を越えてくる。
それが今日の発見だった。湊はそれを、心の少し冷えた場所でそっと確認した。冷えているはずの場所が、いつもより少し、確かに温度が高かった。
夕方、湊は北棟の廊下を歩いていた。
特に目的はなかった。王宮の構造を少しずつ覚えている段階で、歩くことが一番早い。歩いて、記憶する。記憶したことが役に立つかどうかは、後でわかる。
窓の外に、噴水が見えた。
昼間とは違う光が水面に当たって、少しだけ橙色に光っていた。きれいだった。きれいだという感想は、三日前と変わらない。
廊下の突き当たりに、人がいた。
白い衣で、遠すぎて顔はわからない。ただ、こちらを見ていた。視線、という言葉では足りない何かがあった。値踏みではない。観察でもない。もっと静かで、もっと執拗な何かだ。
湊は立ち止まった。
立ち止まったことに、自分で少し驚いた。足が先に判断した。頭は追いついていない。あの人物が誰かはわからない。わからないのに、足が止まった。
白い衣の人影が、角を曲がって消えた。
湊はしばらくその場に立っていた。「わからないものは急いでわかる必要もない」と思おうとして、思えなかった。正確には、思ったのだが、足の判断を上書きできなかった。
どうせろくなことにならない。
今度はそれで、少し上書きできた。
廊下を歩きながら、湊はオルフェンの言葉を思い出した。人が君に集まるとき、それは偶然ではない。
リリアが笑った。蓮司が待っていた。老魔術師が呼んだ。そして今、名前も知らない誰かが廊下の突き当たりでこちらを見ていた。
偶然ではない、と言われても、理由がわからなければ対処のしようがない。対処できないことは、保留しておくしかない。それが湊の長年の方針だった。
ただ。
保留の箱が、少しずつ重くなっている気がした。
それが今夜の発見だった。湊はそれを、心の少し冷えた場所でそっと確認した。
発見を喜ばないのは、もう慣れている。




