第20話 勇者の腐臭
最初に変わったのは、距離だった。
蓮司がリリアの隣に立つときの、距離が変わった。先週までは並ぶ距離だった。今週は、囲む距離だ。並ぶと囲むは違う。並ぶのは二人が同じ方向を向いているときの距離だ。囲むのは、一方がもう一方を中心に置いているときの距離だ。
リリアは気づいていない。
湊は今朝、東棟の渡り廊下でそれを確認した。確認して、台帳を持ったまま、三秒だけ立っていた。三秒で確認できたことと、三秒では確認しきれなかったことが、同じ重さで残った。
昼過ぎ、中庭にリリアがいた。
厨房仲間の若い侍女と並んで、石段のあたりに座っていた。二人で笑っていた。リリアの笑い方はいつも通りだ。体の奥から来る、悪気のない笑い方。その笑い方が今日も、湊の視界に入ってきた。
蓮司が中庭に来たのは、それから間もなくのことだった。
来て、リリアを見た。見た瞬間に、歩く速度が変わった。速くなった、というより、重心が前に出た。出た重心が向かっている先が、リリアだった。向かいながら、蓮司の視線は侍女に一度も触れなかった。触れなかった、ということは、見えなかった、ということだ。リリアだけが見えていた。
「リリア」と蓮司が声をかけた。
リリアが振り返った。振り返って、笑った。
蓮司が自然に、二人の間に入った。入ったことに、蓮司は気づいていない。侍女が少し体を引いた。引いた侍女に、蓮司は一度も視線を向けなかった。向けないまま、リリアだけを見ていた。
侍女が「では私は」と言って立ち上がった。
リリアが「あ」と言った。言ったが、間に合わなかった。
足音が遠ざかった後、中庭に二人が残った。蓮司の呼吸が、一度だけ、深くなった。深くなったことに、蓮司は気づいていなかった。ただ、呼吸がそこで一段、落ち着いた。
湊は渡り廊下の柱の手前に立っていた。
三秒、立っていた。三秒で足が動いた。動いた方向は、中庭ではなかった。
夕方になる前、渡り廊下でリリアとすれ違った。
一人だった。足音が今日は少し速い。速い足音で、下を向いて歩いていた。下を向いて歩くリリアを、湊は今まで見たことがなかった。
「リリア」
顔が上がった。
笑おうとした。笑い方が、今日は出てくるのが遅かった。遅れて来た笑い方で、笑っていた。
「如月様」
「仕事か」
「終わりました」
リリアが足を止めた。いつもの三十センチより遠い距離で立っていた。遠い、ということに、リリアは気づいていない。気づかずに測った距離が、今日の距離だった。
「手首」と湊は言った。
リリアが少し固まった。
「何ですか」
「何でもない」
何でもない、という言葉が嘘だということを、湊は言いながら確認した。確認して、それでも引っ込めなかった。引っ込めたのは言葉ではなく、言葉の後ろにあったものだ。
リリアの右手首が、袖の中に少し引かれた。引かれたことに、リリアは気づいていない。体が先に、隠した。
「明日も厨房か」と湊は言った。
「はい」
「そうか」
リリアが頷いた。それから、また笑った。今日三度目の、遅れて来る笑い方だった。
「おやすみなさい」
足音が遠ざかった。遠ざかりながら、また少し速くなった。
湊はしばらく、足音の消えた方向を見ていた。
皮膚の上に、まだ何かが残っていた。残っているものに名前をつけなかった。つけると、次に何かをしなければならなくなる。
夜、食堂に蓮司がいた。
一人で、酒のようなものを飲んでいた。色の濃い液体だ。それを今夜は一人で飲んでいた。一人で飲む蓮司を、湊は今まで見たことがなかった。
「如月」と蓮司が気づいて言った。声が、少し滑らかだった。
「飲むか」
「遠慮する」
「座れよ」
「酒に弱い」
「座るだけでいい」
湊は座った。向かいの椅子に。蓮司の顔を確認した。いつもの邪気のない顔だった。ただ今夜はその邪気のなさが、いつもと違う場所から来ていた。力が抜けた場所から来ていた。力が抜けた人間の顔には二種類ある。満ちた顔と、崩れた顔だ。今夜の蓮司は、どちらでもなかった。どちらかに今まさになろうとしている、途中の顔だった。
しばらく、二人とも黙っていた。
蓮司が椀を持って、一口飲んだ。
「俺、おかしくなってきてるかもしれない」
声に感情がなかった。感情がない声で言った、ということが、今夜の湊には一番重かった。怒っていない。困っていない。ただ、確認している。自分の状態を、声に出して確認しようとしている。確認するために、今夜湊を呼んだ。
「何が」と湊は聞いた。
蓮司が答えなかった。
答えない、という事実が今夜の答えだった。答えない間に、蓮司の指が椀の縁をなぞった。一周した。もう一周した。なぞりながら、窓の外を見ていた。窓の外には夜しかない。
「エリシア殿下のことか」と湊は言った。
三秒あった。
今夜の三秒はいつもと違った。この男が三秒黙るとき、たいてい「確かに」が来る。今夜は来なかった。来なかったまま、三秒が終わった。終わった後に、蓮司が椀を置いた。
音が、今夜の食堂で一番大きかった。
「如月はさ」と蓮司が言った。声が、滑らかな場所から出ていた。滑らかな場所は、普段この男が使わない場所だ。
「俺のこと、どう思ってる」
「同期だ」と湊は言った。
「そうじゃなくて」
「どう、とは」
蓮司がまた黙った。今度は三秒より長かった。長い間に、この男の顔が少しずつ変わった。邪気のなさが剥がれていった。剥がれた下から出てきたものを、湊は今夜初めて、蓮司の顔の上に見た。
見たことのない顔だった。
五年間、隣にいた。五年間で見たことのない顔が、今夜の食堂に出てきた。出てきたそれは、怒りでも嫉妬でもなかった。もっと前の段階のものだった。何かを欲しがっているのに、欲しがっていることを言葉にできない。言葉にしようとするたびに、欲しがっているものの形が崩れる。崩れるから言えない。言えないから、また欲しがる。その循環が今夜、この男の顔の上にあった。
「リリアのことが」と蓮司が言いかけた。
止まった。
止まった場所に、今日の渡り廊下があった。二人の間に入った。侍女が去った。呼吸が一度、深くなった。湊はそこにいなかった。いなかったから、見ていない。見ていないが、今夜の蓮司の止まり方から、何があったかを確認できた。
「リリアは」と湊は言った。
「なんだよ」
「今日、手首を袖の中に隠した」
蓮司が湊を見た。
正面から見た。見た目が、今夜初めて、測る目になった。この男が測る目をするのは珍しかった。測る目は、怖いものがある人間の目だ。怖いものがある人間が、その怖いものに近づいてくる何かを確認するときにする目だ。
「何が言いたいんだ」と蓮司が言った。
声が、一段、上がっていた。上がったことに、蓮司は気づいていなかった。気づいていれば、この男はすぐに笑ってごまかす。笑わなかった。ごまかさなかった。上がったまま、そこにあった。
「何も」と湊は言った。
「……そうか」
蓮司が椀を持った。飲んだ。飲み方が、さっきより雑だった。雑な飲み方をするとき、この男は何かを流し込もうとしている。流し込んで、終わりにしようとしている。終わりにならない何かを、今夜は飲み込もうとしていた。
「俺は」と蓮司が言った。椀を置いた後に言った。
「リリアを傷つけるつもりはない」
湊は答えなかった。
答えなかったのは、答えが出なかったからではない。答えを出す前に、別のものが来た。来たものが何かを確認してみると、それは今夜この男が言った中で、唯一、正直な一文だった。正直な一文は、正直だから重い。正直だから、反論できない。反論できないことと、信じられることは、まったく別のことだ。
「そうか」と湊は言った。
「……ああ」
蓮司が立ち上がった。足が、今夜少しだけ、おぼつかなかった。おぼつかない足で、食堂を出ていった。足音が遠ざかった。重心が前にある。いつもの足音だ。ただ今夜は、向かっている方向がどこかを、湊には確認できなかった。
食堂に一人残って、湊はしばらく椅子に座っていた。蓮司の椀がテーブルの上にある。液体が少し残っていた。
今夜残ったのは、一つだった。「信用しています」という声に、迷いがなかった。それだけが、今夜最も重かった。言わなかった、という事実が、食堂の蝋燭の光の中に、静かに横たわっていた。
窓の外に、雨の気配があった。まだ降っていない。降る前の、空気の重さだけがあった。その重さが今夜の王宮全体に満ちていて、食堂の石の天井にも、テーブルの上の残った液体にも、同じ重さで載っていた。
どうせろくなことにならない、という言葉が、今夜は来なかった。
それだけが、今夜の湊の、正直な記録だった。




