第19話 王女の指先
朝の廊下に、グラナードがいた。
宰相がこの時間帯に東棟を歩くのは珍しい。執務室は北棟の奥だ。湊はその背中を、十歩ほど後ろから確認する。グラナードは立ち止まっていた。立ち止まって、壁の一点を見ていた。壁には何もない。窓だ。窓の外の中庭を、見ていた。
中庭に、蓮司がいる。
リリアもいた。二人は並んで、中庭の端の石段のあたりに座っている。座って、何か話していた。声は届かない。届かなくても、わかることがある。リリアの体が少し傾いていた。蓮司の方へ、半分だけ。気づかずに傾いている体の角度だ。
グラナードは、それを見ていた。
十秒ほど見てから、視線を外した。外した角度が、緩かった。残念だったのか、確認できたのか、湊には判断できなかった。ただ、グラナードが窓の外を見るとき、その視線の先に何があったかを、今朝の湊は確認した。
「如月さん」とグラナードが言った。
振り返っていた。湊に気づいていたのだ、最初から。
「おはようございます」
「今日の仕事は」
「北棟の台帳の補充です」
「そうですか」とグラナードが言い、少し間を置く。間の使い方が、訓練されていた。意味を詰め込む種類の間だ。詰め込んだまま、次の言葉が来る。
「勇者候補殿は、お元気そうですね」
湊は答えた。
「そうですね」
「女給と仲がよろしいようで」
「そうですね」
二度、同じ言葉を使った。同じ言葉を二度使うのは湊の習慣ではない。ただ今朝は、別の言葉を選ぶ理由がなかった。グラナードが何を確認しようとしているのかは、わかった。わかった上で、何も足さなかった。
グラナードが湊を見た。測るための目だ。この男の目は、いつも何かを測っている。測って、台帳に記録する。記録した台帳を、この男は自分の中に持っている。見えない台帳だ。「女給が、勇者候補殿の傍に居続けることは」とグラナードが言いかけ、止まった。止まってから、別の角度で続けた。「王宮の秩序にとって、必ずしも望ましくない場合があります」
湊は何も言わなかった。
言わなかったのは、言葉が出なかったからではない。この男が今口にしたことの意味の、全部を確認しようとしていた。確認するのに、一秒かかった。一秒かけて確認してみると、グラナードの言葉には二枚の意味が重なっていた。一枚は表だ。秩序、という言葉が入っている。もう一枚は裏で、こちらには別の言葉が入っている。その言葉が何かを、湊は今朝、廊下の光の中で確認する。
エリシアの名前が入っていた。
「そうですか」と湊は言った。今度は一度だけ。
グラナードが微かに口元を動かした。笑ったのではない。確認が取れた、という顔だ。何を確認できたのかは、わからない。この男は台帳に何かを書いた。書いた内容は、見えない。
「お仕事、頑張ってください」
廊下を歩いていった。足音が遠ざかる。消えてから、湊はしばらく窓の外を見た。
中庭に、まだ二人がいる。リリアが笑っていた。体が半分、蓮司の方へ傾いたままだ。
台帳の補充は午前中で終わった。
北棟の備品室に補充分を戻してから、湊は書庫の前を通り過ぎようとした。通り過ぎようとして、足が一瞬だけ遅くなる。遅くなった理由を確認しようとして、やめた。エリシアが来るかどうかは、今日の湊には予測できない。予測できないことを確認しようとするのは、習慣の無駄だ。
足が、書庫の扉の前で止まった。
扉は少し開いていた。
開いている。今日の仕事は書庫の整理ではない。扉が開いているのは、誰かがいる、ということだ。誰かがいる書庫に、今の湊が入る理由は、一つしかない。
入った。
エリシアがいた。
ただし、いつもと違った。いつものエリシアは湊の机の方を向いて立っているか、棚の前で本を引き抜いている。今日は違う。書庫の奥、一番端の棚の前に立って、棚の中段に手をついていた。手をついて、俯いていた。
俯いたエリシアを、湊は見たことがなかった。
「邪魔でしたか」と湊は言った。
エリシアが顔を上げる。上げた速度が遅かった。遅い、ということは、上げたくなかった、ということではなく、上げるための力をそこから集めてきた、ということだ。力を集めてから、こちらを向いた。
いつもの訓練された顔だった。訓練されている。ただ今日は、訓練の継ぎ目が見えた。継ぎ目の下に、何かがある。隠れているのではなく、隠しきれていないものが、今日のエリシアの顔の一枚内側にある。
「来たのですね」とエリシアが言った。
「通りかかりました」
「そうですか」
間があった。その間に、エリシアが棚から手を離した。離した手を、衣の袖の中へ引いた。引く速度が、自然ではなかった。何かを隠している速度だ。隠したのは、手の震えかもしれない。湊には、確認できなかった。
エリシアが棚の前から離れた。
湊の机の方へ歩いてくる。いつもの歩き方だ。靴底の薄い、静かな歩き方。ただ今日は、重心の位置が違う。いつもは重心が前にある。来ようとしている力で歩く女だ。今日は重心が中心より少し後ろだった。引き留められながら来ている、という重心の位置だ。
「一つだけ」と言った。
「どうぞ」
「グラナードに、会いましたか」
湊は答える前に、一秒置いた。
「今朝、廊下で」
エリシアの指が動いた。台帳でも衣の裾でもなく、今日は机の縁だった。机の縁に指先が触れる。触れたまま、一センチも動かない。止まっている。止まった指の上に、この女の今朝が全部載っている。
「何を言いましたか」とエリシアが聞く。声が低い。ただし今日の低さは、来た低さではない。落ちた低さだ。落ちた声は、来た声より静かに、深く届く。
「秩序、という話をしました」
「それだけですか」
「それだけです」
エリシアが机の縁から指を離した。離して、湊を見た。正面から見た。今日の目は、測る目でも、受け取った目でもなかった。確認している目だ。何かが起きた後で、被害の範囲を確認している目だ。
「グラナードは」とエリシアが言い始め、止まった。止まってから、続けた。
「あなたに、私のことを話しましたか」
「いいえ」
「本当に?」
「本当です」
エリシアが一度だけ、目を閉じた。閉じて、開く。開いたとき、今日初めて、この女の顔から何かが一枚、剥がれた。剥がれて、下から出てきたものがあった。出てきたものの名前を、湊は今日、言葉にしなかった。言葉にすると、その後どうするかを決めなければならなくなるからだ。
「話すつもりだったのでしょう、あの男は」とエリシアが言った。
「おそらく」
「でも話さなかった」
「そうです」
「なぜだと思いますか」
湊は少し考えた。グラナードが話さなかった理由。話さずに確認しようとしたもの。確認できたもの。廊下で、湊が「そうですか」と一度だけ言ったとき、グラナードの口元が動いた。動き方が、確認が取れた、という動き方だった。
「話さなくても、伝わると判断したからでしょう」と湊は言った。
エリシアの机の縁に、再び指先が届いた。今度は触れていない。届いているが、触れていない。触れる直前で、空中に止まっている。止まったまま、そこにある。
「そうです」とエリシアが言った。静かな声だった。静かすぎて、この王宮の石壁と同じ種類の静けさだった。石壁は何も語らない。しかし何かを内包している。内包しながら、黙っている。
「あの男は、いつもそうです」
「一つだけ、聞いていいですか」と湊は言った。
エリシアが少し止まった。いつも問いかけるのはエリシアの方だ。湊が問いかけると、この女は一瞬だけ、準備のできていない顔になる。今日もなった。なってから、「どうぞ」と言った。
「あなたは、なぜグラナードを怖いと思っているのですか」
間があった。
長い間だった。間の中で、エリシアの指先が空中から下りて、机の縁に触れた。触れてから、力が入った。力が入った指先の色が変わる。変わり方が、湊の皮膚に届いた。届いた、ということを確認してから、湊はその先を待った。
「怖い、と言いましたか、私は」とエリシアが言った。
「言っていません」
「では」
「指先が白くなっています」と湊は言った。
エリシアが自分の指を見た。見て、ゆっくりと力を抜いた。抜きながら、この女の体から何かが少しずつ出ていく。出ていくものは、今日ここに来る前から抱えていたものだ。抱えて来た。ここで、少しだけ、下ろした。
「グラナードは」とエリシアが言い始めた。今度は止まらなかった。
「私の出自を知っています」
湊は何も言わなかった。
「正確には」とエリシアが続けた。「知っている、のではなく、持っている、という方が正しい。知識として持っているのではなく、武器として持っている。使える状態で、ずっと持ち続けている」
使える状態で持っている。
その一文の重さを、湊は受け取った。受け取って、確認した。確認してみると、グラナードが今朝廊下で言ったことの二枚目の意味が、はっきり見えてきた。秩序という言葉の下に、別の言葉があった。その別の言葉は、王女の出自だった。王女の出自を持っている男が、蓮司とリリアを見ていた。見て、湊に話しかけた。話しかけて、何かを確認した。
「出自、というのは」と湊は言った。
エリシアが湊を見た。見た顔の中に、今日ここに来た理由があった。来た理由を、今日初めて、この女は湊に向けて持ってきた。持ってきて、置こうとしている。置けるかどうかを、まだ決めていない。
「この話は、今日は、ここまでです」とエリシアが言った。
声が、訓練された声に戻っていた。戻り方が、今日はゆっくりだった。戻るのに時間がかかった、ということは、戻りたくなかった、という意味ではない。戻るための力が、今日はいつもより少し、少なかった、ということだ。
「わかりました」と湊は言った。
エリシアが机の縁から手を完全に離した。離して、扉の方へ歩き始める。歩く速度が、来たときより遅い。遅い、ということは、まだここに何かを残している、ということだ。残したまま出ていこうとしている。
扉の前で、止まった。振り返った。
「如月湊」
「はい」
「蓮司が、女給のそばにいることは」とエリシアが言った。声が一段、低い。来たときより低い。
「私にとって、利点があります」
湊は答えなかった。
「そう聞こえましたか」
「聞こえました」
「正確に聞こえていますか」
「正確に」と湊は言った。
「蓮司が手に入れられるものが増えるほど、あなたが手に入れられるものも増える。そういう意味に聞こえました」
エリシアが扉の前で止まっていた。振り返らないまま、止まっている。止まった理由を、湊は確認しようとした。確認する前に、足音がした。来る足音だ。去る足音ではない。扉からではなく、机の方へ。一直線に、今日二度目の一直線で。来ようとする力だけで歩いている。計算した距離ではなく、来た距離だ。それが今日の一直線の意味だと、湊は皮膚で先に知った。
湊の手首に、エリシアの指が触れた。
ペンを持ったままの手首だった。触れたのは、エリシアの指先だ。一本だけ。薬指か中指か、湊には確認できなかった。ただ触れた、という事実だけが、皮膚の上に来た。冷たかった。香の下から漏れる体温ではない。今日のエリシアが選んで持ってきた温度だ。選んだ、ということは計算がある。計算がある触れ方だ。
湊は手を動かさなかった。
動かさなかったのは、動けなかったからではない。動く理由が、今この瞬間、湊の中にまだ来ていなかった。来ていない間に、指先が一センチだけ、手首の上を動いた。動いて、止まった。止まったまま、離れなかった。
「あなたが困るのは」とエリシアが言った。
声が、耳ではなく、触れている指先から届いた気がした。気がした、というのが正確だ。気がしただけだ。ただその「気がした」が、湊の中で何かを一段、変えた。
「リリアに何か起きてから、と言いましたね」
「言いました」と湊は答えた。声が、いつもと同じだった。いつもと同じ声を出せた、ということを、湊は今この瞬間だけ、確認した。
「私が困るのも」とエリシアが言った。指先が、もう動かない。止まったまま、そこにある。冷たさが、皮膚から少しずつ、内側へ染みてくる。
「同じところからです」
一秒あった。
その一秒で、湊はエリシアの言葉の地図を広げた。広げてみると、地図の上に二つの印がある。一つはリリアだ。もう一つが何かを確認しようとした瞬間、指先が離れた。
離れる速度が、遅かった。
計算した速度ではなかった。計算が、離れる直前の一瞬だけ、別のものに負けた。負けた分だけ、遅かった。その遅さを、湊の皮膚は確認した。確認した事実を、今夜どこに置くかを、湊はまだ決めていない。
「半分、わかりましたか」とエリシアが言った。
「半分」と湊は言った。
エリシアが扉へ歩いた。今度は戻らなかった。扉が閉まった。
書庫に一人残って、湊は台帳を開いた。
開いたが、ペンを持たなかった。しばらく、台帳の白い面を見ていた。
半分、とエリシアは言った。残りの半分が何かを、今日の書庫の空気の中で確認しようとした。確認しようとして、グラナードの朝の顔が戻ってきた。窓の外を見ていた顔だ。中庭に蓮司とリリアがいた。グラナードがそれを見ていた。そして、湊に話しかけた。
エリシアは利点がある、と言った。
利点の意味の半分は、湊が当てた通りだとして、残りの半分は。
残りの半分がどこを向いているか、今日の湊には確認できた。向いている先は、湊だ。蓮司が手に入れるものが増えるほど、蓮司が守ろうとするものも増える。守ろうとするものが増えた蓮司は、湊から、何かを遠ざかっていく。
利点の残りの半分は、そういう意味だ。
湊はペンを持った。台帳に数字を写し始めた。写しながら、今朝の廊下を思い出す。グラナードが「望ましくない」と言った。エリシアが「利点がある」と言った。二人が同じ朝に、同じ場所について、逆の言葉を使った。逆の言葉を使いながら、二人は同じ方向を見ていた。
リリアの方向を。
ペンが止まった。
止まった、と気づいてから、また動かした。数字が羊皮紙に続いていく。続きながら、今日の書庫に残ったものを確認する。
エリシアが「出自を武器として持たれている」と言った。その言葉が示す地図がある。地図の上に、グラナードがいる。蓮司がいる。リリアがいる。その地図を、エリシアは今日、半分だけ湊に見せた。
半分だけ見せた、ということは、残りの半分は地図の中に、まだある。
ある地図の上で、今日も王宮は動いている。動いている中で、リリアは何も知らない。
どうせろくなことにならない、と思った。
思いながら、その言葉が今日向いている先に、あの地図があった。設計者のいない設計図ではない。設計者はいる。ただ、設計者の名前を今日の湊はまだ確認できていなかった。確認できていないものが、台帳の白い余白より広く、今夜の湊の中に広がっている。




