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モブだった俺が異世界で主人公になれたのに、なんで誰も幸せにならないんだ?  作者: 深海周二


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第18話 声と息、息と声

 雨が来た。

 夜の雨だ。石壁を叩く音が、廊下の向こうからずっと聞こえている。湊は台帳を閉じた。今日の分は終わった。終わった、と確認してから、しばらくそのまま机の前に座り続ける。立つ理由が、今夜はなかなか来ない。

 リリアが今日、中庭で蓮司と笑っていた。

 昼過ぎのことだ。湊は渡り廊下から、それを見た。二人のいる場所は十分な距離があって、声は届かなかった。届かなくても、わかることがある。リリアの笑い方が、今日は違った。悪気のない笑い方なのは同じだ。ただ今日は、その笑いに重心がある。自分の重心を、どこかに預けながら笑っている。重心を預ける相手を、リリアはもう決めている。 

 決めた、という事実が今夜の台帳の上に横たわっている。

 蝋燭を消して、湊は立ち上がった。

 廊下は暗かった。

 夜の王宮は人の動線が変わる。昼間は使用人と兵士が交差する廊下も、この時間帯は静まりかえっている。湊は北棟から自室へ向かう最短経路を歩いた。最短経路、と確認してから、足がそこから外れていることに気づく。気づいた上で、修正しなかった。

 東棟へ向かっていた。

 理由を確認しようとしたが、足が先に進んでいた。足が先に何かを知っている。知っている場所へ向かっている。向かいながら、湊はその先に何があるかを、頭でも確認し始めていた。

 東棟の突き当たりに、使用人の宿泊棟がある。

 リリアの部屋は、その棟の二階だ。番号は知っていた。知っていた理由は、一度、差し入れの礼状を届けに来たことがあったからだ。

 角を曲がりかけて、立ち止まった。

 声が聞こえた。

 聞こえたのは、一音だった。

 声と呼ぶより、声になる前のものだ。息が、喉を出る前に形を変えたもの。それが石壁を伝って、湊の耳に届いた。

 最初に届いたのは、リリアの声だった。

 リリアの声だ、と湊は一秒以内に判断する。今まで聞いてきたあの声が、今夜は別の場所から来ている。廊下のリリアでも、中庭のリリアでも、踊り場のリリアでもない。別の場所にいるリリアの声だ。

 次に届いたのは、男の息だ。

 規則的で、深い。規則性が、何を意味するか。湊には、わかった。一秒で、全部わかった。

 足が止まっている。

 止まっていることに気づいたとき、すでに十秒が経っていた。十秒、湊はそこに立っていた。立ちながら、何かが来た。来た何かに、今夜の湊は名前を持っていた。名前を持っている、ということは、準備ができていた、ということではない。準備ができていたのに、来たものの重さが違った。違い方が、今夜は、想定を超えた。



 リリアの声が、また来た。

 今度は少しだけ長かった。長い分だけ、声の形がわかる。声に形がある。形が何を意味するか。意味することを、湊は確認しなかった。確認できなかった、ではない。確認したくなかった、でもない。

 ただ、確認する前に、別のものが来た。

 石壁を思い出した。

 あのとき湊は廊下に立っていた。壁一枚の向こうで、女の声が殺しきれないまま漏れていた。あのとき湊の耳が過剰になった。過剰になったものを、湊は止めなかった。動いたものを、湊は止めなかった。

 今夜は、動いたものを、止めた。

 止めた。止めることが、止めなかったときより重かった。重い、ということは、止めるだけの力が要った、ということだ。要った力の量が、今夜この廊下に来てしまったことの、答えだった。

 湊は引き返した。

 急がなかった。急ぐ理由も、急がない理由もなかった。ただ歩いた。雨の音が続いている。石壁を叩く音が、廊下全体に満ちていた。満ちているものの中を歩きながら、湊は何も考えなかった。何も考えなかった、というのが正確だ。考えようとするたびに、さっきの声が来た。来るたびに、考えが止まった。

 自室の扉を開けた。

 中は暗い。蝋燭を灯さなかった。灯す気が起きなかった。暗いまま、石のベッドに腰を下ろす。

 今夜確認したことを、湊は整理しようとした。

 整理してみると、わかることとわからないことがある。わかること——リリアは今夜、蓮司の部屋にいた。いた、ということは、行った、ということだ。行ったのはリリアの意志だ。意志、という言葉を湊は一秒かけて確認した。確認してみると、間違っていなかった。 渡り廊下で、リリアは「頼んでいいんですか」と聞いた。蓮司は「いいよ」と言った。あの一往復の後に、今夜がある。今夜は、あの一往復の結果だ。結果と原因の間にあったものが、今夜の廊下に積み重なっていた。

 わからないこと——湊は今夜、何しに東棟へ向かっていたのか。

 向かっていた、という事実は確認できる。向かった理由は、今夜の暗い部屋の中でも、まだわからなかった。わからないまま、ベッドの石の冷たさが背中に伝わる。伝わりながら、さっきの声が、また一度だけ来た。

 来た。

 来て、湊の中の何かを、一段、変えた。

 夜明け前に、扉を叩く音がした。

 湊はすでに起きていた。眠れなかった、という意味ではなく、眠ろうとしていなかった、という意味だ。蝋燭は灯していない。暗い部屋に、叩く音だけが来た。

 「如月様」

 リリアだった。

 声を聞いた瞬間に、今夜の廊下が戻ってきた。声の形が一致する。一致する、ということは、湊の耳が確認している。確認した事実を、湊は今この瞬間、どこに置くかを選んだ。

 選んだ先は、今夜も保留の箱ではなかった。保留の箱は、もうこれを受け取れない。

 「入れ」と湊は言った。

 扉が開いた。

 廊下の明かりが、暗い部屋に細く入る。リリアの輪郭が見えた。輪郭だけだった。暗さが、細部を隠している。隠されているものが何かを、湊は今夜この部屋では確認しなかった。

 「眠れませんでした」とリリアが言った。

 湊は答えなかった。

 「如月様は」

 「眠っていない」

 「そうですか」

 間があった。廊下の明かりがリリアの後ろにある。だからリリアの顔が見えない。見えない方が、今夜はいい、と湊は思った。思ってから、その「いい」が何を意味するかを確認する。確認してみると、深かった。深い、ということは、見えないと気づくほど、見たいと思っている、ということだ。

 「今日のこと」とリリアが言った。

 「言わなくていい」と湊は遮った。

 リリアが止まった。

 止まり方が、いつもと違った。叱られたときの止まり方でも、驚いたときの止まり方でもない。遮られたことが、予想と違った、という止まり方だ。予想があった、ということは、何かを言うつもりで来た、ということだ。言うつもりで来て、遮られた。遮られた後に、リリアはまだそこに立っていた。

 「如月様」

 「ああ」

 「怒っていますか」

 湊は少し考えた。怒っているかどうかを確認してみると、怒っていなかった。怒れなかった、でも、怒りたくなかった、でもない。怒りが来る前に、別のものが来ている。別のものの方が、怒りより先にここにある。先にあるものに場所を取られて、怒りが入ってこれなかった。

 「怒っていない」と湊は言った。

 「本当に?」

 「本当だ」

 「でも」とリリアが言い、止まった。

 止まった場所に何があるか、今夜の湊には見えた。見えた上で、促さなかった。今夜リリアが言おうとしているものを、湊は今夜受け取れない。受け取る器が、今夜の湊にはなかった。

 「眠れ」と湊は言った。

 「はい」

 「もう遅い」

 「はい」とリリアが繰り返した。動かなかった。

 動かないリリアを、湊は暗い部屋から見ていた。廊下の明かりを背負ったリリアの輪郭が、まだそこにある。輪郭の向こうに今夜のリリアがいる。今夜のリリアが何を持ってここに来たか——謝りに来たのか、確認しに来たのか、あるいは別のものを持ってきたのか——湊にはわからなかった。

 わからなくていい、と思った。

 思ってから、嘘だとわかった。

 「リリア」

 「はい」

 「蓮司のことを信用しているか」

 間があった。

 今夜一番長い間だった。リリアが答えるまでの間に、廊下の明かりが一度、かすかに揺れた。揺れた理由は、どこかで窓が開いているのかもしれない。理由は確認しなかった。

 「信用しています」とリリアが言った。

 声に、迷いがなかった。

 迷いのない声が、今夜の暗い部屋の中で、湊の皮膚の上に落ちた。落ちて、染みた。染みた場所が、今夜一番、重かった。

 「そうか」と湊は言った。

 それだけだった。それ以外の言葉は、今夜出てこなかった。出てこないのは、言葉がないからではない。言葉はある。ある言葉を、出さなかった。出さないことを、湊は今夜、初めて、選択として確認した。

 選択、という言葉が来た瞬間に、何かが一段、変わった。

 扉が閉まった。

 暗い部屋に、湊一人が残った。

 雨はまだ続いていた。石壁を叩く音が、夜明けに向かって少しずつ遠くなっている。遠くなっているが、消えていない。

 今夜、湊は三つのことを確認した。

 一つ——リリアは今夜、蓮司のところへ行った。行ったのはリリアの意志だ。

 二つ——湊は東棟の廊下で引き返した。引き返したのは湊の選択だ。

 三つ——「信用しています」という声に、迷いがなかった。迷いのない声が、今夜最も重かった。

 三つが並んでいる。並んで、湊の中に横たわっている。横たわったものの重さが、今夜の石のベッドより確かに重い。

 どうせろくなことにならない、と思った。

 思いながら、その言葉が今夜初めて、後ろを向いていた。

 後ろ——今夜よりずっと前、この王宮に来る前、瀬川明里が「話したいことがある」とメッセージを送った夜のことが、暗い部屋の中で、突然、鮮明に浮かんだ。

 あの夜も、湊は何も言わなかった。

 言わなかったことと、今夜言わなかったこととが、暗い部屋の中で、静かに、重なった。 重なった分だけ、重くなった。

 重さに名前はつけなかった。つけなくても、もうわかっていた。

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