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モブだった俺が異世界で主人公になれたのに、なんで誰も幸せにならないんだ?  作者: 深海周二


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第17話 「リリアが困るのが、嫌なのですね」

 朝の書庫に、湊は一人だった。

 台帳を広げて、数字を写している。単純な仕事だ。手だけが動き、頭は別のことをしている。別のことというのは、昨日の渡り廊下だ。蓮司とリリアが並んでいた。三十センチの距離があった。リリアが蓮司の方を振り返った速度が、今朝もまだ体温を持っている。体温を持っている、という事実に、湊は今朝初めて名前をつけた。


 嫌だ、という名前だ。


 嫌だ、と確認してから、湊はペンを置いた。置いてから、また拾う。拾って、数字の続きを写した。嫌だ、という事実と、だからどうする、という答えが、今朝はまだ繋がっていない。繋がっていないまま、ペンだけが動く。


 扉が開く音がした。香りが先に来る。今日は最初から、湿り気があった。来る前からすでに体温が混じっている。この女の体は、書庫の扉を開ける前から、すでに来ようとしていたのだ。 

 エリシアだった。

 扉の前に立っている。いつもの白い衣だ。いつもの金の髪。ただ今日は、立ち方が違った。部屋の主のような立ち方ではない。こちらを確認しに来た、という立ち方だ。確認しに来た、ということは、確認する前に何かを持っていた、ということだ。その何かを確認するために、今日ここに来た。

 湊はペンを置く。立ち上がった。


 「邪魔でしたか」とエリシアが言った。

 「いいえ」

 エリシアが部屋に入った。今日は棚に向かわない。前回も前々回も、まず棚に向かったはずだ。今日は違う。一直線に湊の机の前まで歩み寄る。一直線に来た、ということは計算しなかった、ということだ。計算した距離ではない。来た距離そのものだ。

 机を挟んで、一歩半。

 前回より近い。前回は机の端に指を触れただけだったが、今日は机を挟んでいない。机の横に立っている。横、というのが正確だ。机を迂回して、湊の斜め前に来た。斜め前という距離が、この女にとっての今日の限界だったのか、あるいは意図した距離なのか。湊には判断できなかった。

 「一つだけ」とエリシアが言った。

 「どうぞ」 

 エリシアが湊を見る。今日は最初から、正面だった。測るための目ではない。測ることをすでに諦めた目でもなかった。今日の目は、もっと別の種類だ。言葉を持ってきた目。言葉を持ってきて、それをここに置いていくつもりで来た目だ。

 「蓮司と、リリアのことを…」  

 言いかけた。言いかけて、止まらなかった。

 「よく話しているそうですね」

 湊は答えなかった。

 答えなかったのは、答えが見つからなかったからではない。答えを出す前に、湊はその一文の重さを確認していた。確認してみると、重い。重い、ということは、この女がここに来るまでの時間の分だけ重さがある、ということだ。時間をかけて重くなった言葉だ。

 「そうですか」と湊は言った。

 エリシアの指が動く。

 衣の裾ではない。今日は台帳だった。机の上の台帳の端に、指が一本、触れる。触れて、止まった。止まって、動かない。動かないまま、そこにある。指が台帳の上にある。その指の主が、湊の斜め前に立っている。

 「リリアは、今どうしていますか」

 声が低い。低い、というのは感情がないという意味ではない。感情を通過した後の声だ。何かを通過して、こちらへ来た声だ。

 「仕事をしています」と湊は言った。

 「今日は」

 「厨房の当番だ、と聞いています」

 「そうですか」

 エリシアの指が台帳の上で、一センチ動いた。動いて、止まる。引かなかった。前回は引いたが、今日は引かない。引かないまま、そこにある。

 これが今日の違いだ、と湊は判断する。前回エリシアは引いた。引く速度が早かった。今日は引かない。引かないことが、前回より一段、何かが進んだことを示している。進んだ先がどこかを、湊は台帳の上の指を見ながら確認しようとした。

 確認する前に、エリシアが言った。

 「蓮司がリリアを助けたそうですね」

 「そうです」

 「あなたは」

 間があった。

 「あなたは、何もしなかった」

 事実だ。反論できなかった。反論する理由もなかった。ただ、その事実をこの女に告げられる、という状況の意味を、湊は一秒かけて確認する。

 確認してみると、この女はすでに知っていた。弁償の話がなくなったことも、蓮司が動いたことも、湊が何もしなかったことも。知っていた上で、今日ここに来て、それを湊に向かって放った。

 言うべき理由があるのだ。

 「そうです」と湊は言った。

 エリシアの指が、台帳の上をもう一センチ、動く。

 今度は速度があった。意図した速度ではない。気づかずに動いた一センチだ。台帳の表紙の、湊のペンが置いてある側へ、一センチ動く。そこで止まった。ペンの横だ。ペンと指が、並んでいる。

 「なぜ」とエリシアが言った。

 声が、もう一段低くなっている。この女の声がここまで低くなったのを、湊は今まで聞いたことがなかった。

 「なぜ何もしなかったのですか」

 湊は答える。

 「判断したからです」

 「何を」

 「言わない方がいい、と」

 エリシアが一秒、止まった。止まり方が今日は違った。処理している止まり方ではない。来た言葉が予想と違った、という止まり方だ。予想していた答えと、来た答えが違った。その違いが、この女の体の中で何かを起こしている。

 指が動いた。台帳から離れる。離れる速度が遅い。ゆっくりと、一センチずつ、離れた。離れながらも、この女の体は机の横から動かなかった。動かないまま、湊と一歩半の距離で立ち尽くしている。

 「言わない方がいい」とエリシアが繰り返した。

 「はい」

 「リリアに」

 「そうです」

 エリシアが棚の方を見た。本を見ていない。視線の置き場がない、という意味の動作だ。視線の置き場に困るエリシアを、湊は今まで見たことがなかった。この女は常に視線を道具として使う。使い方を知っているはずだ。しかし今日は、知っている道具を、使えなかった。

 「あなたは」とエリシアが言った。

 棚の方を見たまま、言った。こちらを見ずに放つ言葉は、この女にしては珍しい。 

 「リリアに、何かを言わないことが多い」

 「そうかもしれません」

 「なぜですか」

 「言っても意味がないと判断するからです」

 「意味がない」

 「リリアには届かない種類の言葉が、あります」

 エリシアがこちらを向いた。

 棚から視線が外れて、湊に来る。来た視線の中に、さっきまでなかったものがあった。さっきまでは言葉を持ってきた目だったが、今は言葉を受け取った目だ。受け取って、まだ処理が終わっていない目。

 「リリアには届かない」とエリシアが繰り返した。

 「はい」

 「あなたには届きますか」

 湊は答えなかった。

 答えなかったのは、今度こそ、答えが出なかったからだ。出なかった。この女が今何を聞いているかは、わかった。わかった上で、答えが出ない。出なかった答えを探している間に、エリシアが一歩、湊の方へ動く。

 一歩だ。一歩だけだった。

 ただその一歩が、今日ここに来てからのすべての距離の中で、一番近かった。机の横から、机と湊の間へ、入ってきた。入ってきた、ということは、机が遮断物でなくなった、ということだ。遮断がなくなったとき、湊の皮膚が、香りより先に、体温を感知した。

 今日の体温は違った。

 今までのエリシアの体温は、香の下から漏れていた。抑えきれずに漏れてくる種類の温度だったが、今日は違う。漏れているのではなく、持ってきた体温だ。

 「あなたには届きますか」とエリシアがもう一度言う。

 さっきより近い場所から、言った。

 「私の言葉が」

 湊は答える。

 「届いています」

 エリシアの胸が、一度だけ、深く動いた。

 動いたのは一秒もなかった。ただその一秒未満の間に、この女の体から何かが一段、抜けた。抜けた後に残ったものは、さっきまでとは違う種類の緊張だった。解けた緊張ではない。別の場所に移動した緊張だ。移動した先がどこかを、湊は確認できなかった。

 「では」とエリシアが言った。

 「一つだけ、聞いてください」

 「どうぞ」

 「蓮司が」

 間がある。

 間の中に、この女が何かを選んでいる気配があった。言葉を選んでいるのではない。言い方を選んでいる。同じ中身を、どの形で出すかを選んでいるのだ。

 「蓮司が、リリアに近づいています」

 「知っています」

 「それでいいのですか」

 湊は少し間を置く。

 それでいいのか、という問いを、湊は確認した。確認してみると、二つの意味があった。一つは、リリアのことを心配する問い。もう一つは、そうではない。もう一つの意味が何かを、湊は今日の一歩半の距離と、机の横から机と湊の間へ入ってきた一歩と、「届いています」と湊が答えた後で胸が一度だけ動いた瞬間と、合わせて確認する。

 もう一つの意味は、湊に向けた問いだった。

 「いいとは言っていません」と湊は言った。

 エリシアの指が動く。

 今度は台帳ではなかった。湊の手の近くで、止まった。触れなかった。触れる直前で、止まる。止まったまま、そこにある。触れなかった、という事実と、触れる直前まで来た、という事実が、同じ場所に並んでいた。

 「では」

 エリシアの声が、また一段低くなった。今日一番低い。低い声の中に、今まで聞いたことのない種類のものがあった。これが何かを、湊は今日初めて、名前をつけずに受け取った。名前をつけると、次に何かをしなければならなくなる。受け取っただけにした。

 「あなたが困るのは、どこからですか」

 沈黙があった。

 石造りの書庫に、二人分の呼吸だけが響く。エリシアの呼吸が、今日は湊に届く距離にあった。届く距離にある呼吸が、湊の皮膚を撫でる。来た、ということを、湊の体が先に確認した。頭が追いつく前に、皮膚が知っていた。

 「リリアに何か起きてからです」と湊は言った。

 エリシアが、止まった。

 今日一番長い、止まり方だ。

 止まっている間に、この女の体の中で何かの順番が変わった。来ようとしていた力が、別の方向を向く。向いた方向がどこかを、湊には今日はわからなかった。わからなかったが、向いた先がリリアだということは、確認できた。

 確認できた、ということは、今この瞬間、この女の中でリリアへの何かが一段、形を変えた、ということだ。

 エリシアの指が、湊の手の近くから離れた。

 離れた速度は、遅くなかった。速くもなかった。計算された速度だ。計算が戻ってきた。

 「そうですか」とエリシアが言った。

 声が、戻っている。訓練された声に。低さが、元の低さに。

 「リリアに何か起きてから、と」

 「はい」

 「わかりました」

 扉の方へ歩き始めた。来たときとは歩き方が違う。来たときは一直線だったが、帰るときは一歩ずつ、重さがあった。重さがある、というのは何かを持って歩いている、ということだ。来たとき持っていたものと、帰るとき持っているものが、違う。

 扉の前で止まった。

 振り返らない。

 「如月湊」と言った。名前を呼ぶのは、今日が初めてだ。

 「はい」

 「リリアが困るのが、嫌なのですね」

 湊は答えなかった。

 答えなかった、というのが、答えだった。

 この女は知っていた。答えを知っていて、確認しに来た。確認して、今持って帰る。持って帰った先で何をするかを、湊は今日、半分だけ確認できた。残りの半分が、今日の書庫の空気の中に、まだ残っている。

 扉が閉まった。

 書庫に一人残って、湊はしばらく台帳を見つめていた。

 台帳の表紙に、指の跡はない。触れた形跡は何もなかった。あの指が確かにそこにあったことを証明するものが、台帳の上には何も残っていない。

 あったのに、何もない。

 それが今日の書庫の、唯一の事実だ。

 正確には、もう一つあった。

 リリアに何か起きてから困る、と湊は言った。言ってしまった後で、この女が今日聞きに来た本当の理由を確認する。確認してみると、エリシアは湊が困る条件を知りたかったのだ。知った上で、その条件をどう使うかを、今日持って帰った。

 持って帰った先で何をするか。

 湊には今日、半分だけわかった。

 わかった半分が、今夜の石の天井より、ずっと重かった。

 どうせろくなことにならない、と思った。

 思いながら、その言葉が今日は、エリシアが持って帰ったものと、同じ方向を向いていた。

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