第16話 その距離、三十センチ
蝋燭が消えてから、夜明けまでの間がある。
その間に、湊はたいてい何かを確認しようとして、確認できないまま夜が明ける。今朝はそれが早かった。光が来る前から、すでに目が開いている。
昨夜残ったものが、まだそこにあった。
蓮司が書庫に来た。「いい子だよな」と言った。湿り気のある声だった。湊は「仕事の範囲だ」と遮った。遮った言葉が正確ではなかった、と後で確認する。正確でない言葉を、遮るために使った。遮った後に、何も言わなかった。
言わなかった、という事実が、今朝の石の天井を見つめる視線の先に、まだ居座っている。
朝食の席で、蓮司は早かった。
麦を煮たものを食べながら、レオンに何かを告げている。笑っていた。邪気のない笑い方だ。湊はスープを口に運びながら、その笑いを確認する。蓮司の笑い方には種類がある。何かを目指している笑い方と、目指さずに笑っている笑い方だ。今朝の笑い方は、後者に見えた。断言まではできなかった。 断言できない理由を、湊は確認しようとして、やめた。
午前の仕事は北棟の台帳の整理だ。
前回の転記に漏れがあって、今日は差異を埋める作業だ。単純だが、間違えると後で面倒になる。面倒は早めに潰す。。
作業の途中で、廊下に足音がした。 軽い足音だ。今朝は少し速い。
扉が開く。
リリアだった。
「如月様」
「ああ」
「少しだけ、いいですか」
手に何も持っていない。差し入れではない。湊は台帳に視線を戻しながら、「どうぞ」と言った。
リリアが扉の近くに立った。入ってきたが、奥までは来ない。遠慮している立ち方ではなく、話したいことがあるが整理がついていない立ち方だ。湊はそれを、顔を上げずに確認した。
「蓮司様に、また会いました」
湊はペンを動かした。
「中庭で。ベンチのところで、一人でいたら来てくださって」
「何を話したんだ」
「昨日のこと、まだ気にしてないかって」
「器を割ったことか」
「はい」とリリアが言った。少し間がある。
「もう大丈夫だって伝えたんですけど、それでも少し話して……」
また間があった。
「なんか、聞いてくれる人なんですよね、あの方」
湊はペンを止めなかった。止めなかったが、手の中のペンの重さが、一瞬だけ変わった気がした。
「それで?」
「また困ったことがあれば言えって言ってくださって」
「そうか」
「…ありがたい、ですよね」
ありがたい、という言葉が、少し間を置いて来た。言葉を選んでいた間があった。選んだ言葉が「ありがたい」だった。「ありがたい」の前に、別の言葉が来かけていたはずだ。来かけて、収まった。収まり方が、ほんの少し、ぎこちなかった。
湊は台帳を見ている。
「そうだな」と言った。
昼過ぎ、湊は東棟を歩いていた。
次の仕事の前に、資材を確認する用事がある。その途中で、渡り廊下に差し掛かったとき、声が聞こえた。
蓮司の声だ。
もう一つの声。リリアだ、と湊は判断する。足を止めた。
渡り廊下の手前に石柱がある。柱の手前で止まったから、向こうからは見えない。見えないまま、声だけが届く。
「ほんとに?」とリリアの声がした。
「本当」と蓮司の声が応じる。
「俺、こういうの得意だから」
「こういうの、って」
「人を助けること」
三秒の沈黙があった。蓮司の三秒ではない。リリアの三秒だ。リリアが黙るのは珍しかった。普段のリリアは考えながら声が出る。今は黙っている。黙っている間に、何かを確認している。
「頼んでいいんですか」とリリアが言った。
「いいよ」と蓮司が答える。声が、昨日の朝より一段、近かった。
石柱を抜けて、湊は渡り廊下を歩いた。
二人がいた。蓮司が壁を背にして立っていて、リリアがその前に立っている。三十センチほどの距離だった。距離の種類が、先週とは変わっている。先週まで、その距離はリリアが測った距離だった。今日は測った距離ではない。どちらかがそこにいて、もう一方がそこへ来た。その合計が三十センチだった。
「如月」と蓮司が気づいて言った。
笑った。邪気のない笑い方だ。今日もその笑い方だった。ただし、笑い始めが、一瞬だけ遅い。一瞬だけ。気づかなければわからない種類の遅さだった。
「ああ」と湊は言った。
「台帳の用事か」と蓮司が聞く。
「そうだ」
「そっか」
会話がそこで終わった。終わらせたのは蓮司でも湊でもなかった。続く言葉が、どちらにもない。リリアが「お邪魔しました」と言って、廊下を歩き始めた。
歩き始める前に、一度だけ、蓮司の方を見た。見た速度が、廊下を歩き始めたとき、まだリリアの体に残っている。体が先に確認していた。意識より先に、振り返っていた。
足音が遠ざかる。
蓮司が「まあそういうことで」と言った。
「なんだ」と湊は聞く。
「なんとなく」
なんとなく、という言葉を、蓮司は本来使わない。この男の語彙に「なんとなく」は存在しない。何でも理由がある。理由があって動く。理由がなければ動かない。動かないか、笑ってごまかす。笑わなかった。ごまかさなかった。「なんとなく」という言葉だけが、廊下に取り残された。
蓮司が歩き出す。重心が前にあった。いつもの足音だ。ただ向かっている方向が、今日はリリアの足音の消えた方向と、同じだった。
湊は渡り廊下を歩いた。
資材の確認がある。用事がある。台帳が待っている。
それだけのことだった。
それだけのことが、今日はそれだけには見えない。
夕方、湊は中庭を通った。
噴水の音がある。石畳が夕方の光を受けていた。ベンチには誰もいない。誰もいないベンチを、湊はしばらく見つめた。見てから、歩き出す。
リリアが「頼んでいいんですか」と言った。蓮司が「いいよ」と言った。その一往復が、夕方の中庭で、また湊の中を通り過ぎる。
頼む、ということと、頼まれる、ということの間に、何かが生まれる。生まれたものに、湊は名前をつけなかった。つけなかったのは、つけられなかったからではない。つけた後に何をするかが、今の湊にはなかったからだ。
北棟の廊下を戻りながら、湊はオルフェンの言葉を思い出した。思い出そうとしたわけではない。廊下を歩いていたら、降りてきたのだ。
「人が君に集まるとき、それは偶然ではない」。
今は少し違う話だ、と湊は思う。
人が湊に集まるのではなく、人が別の人に集まっている。それを湊が見ている。見ていて、何もしなかった。
何もしなかった、というのが正確だ。
何もできなかった、とは言わない。
何もしなかった。その二つはまったく別のことだ。
夜、部屋に戻った。
蝋燭を灯すと、石の天井が揺れた。今夜も風はない。なのに揺れる。
蓮司が「いい子だよな」と言ったのは、昨日のことだった。湊は「仕事の範囲だ」と遮った。遮った言葉が正確でなかった、と確認する。正確でなかった言葉の代わりに、何を言えばよかったのか。今夜もまだ、それを見つけられなかった。
見つけられなかったのではなく、見つけようとしなかった、という方が近いかもしれない。近いかもしれない、ということは、確認が済んでいない、ということだ。
どうせろくなことにならない、と思った。
思いながら、その言葉が今夜向いている先に、今日の渡り廊下があった。三十センチの距離があった。リリアが蓮司の方を振り返った速度があった。
その速度が、今夜の蝋燭の光と同じくらいには、まだ揺れている。




