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モブだった俺が異世界で主人公になれたのに、なんで誰も幸せにならないんだ?  作者: 深海周二


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第13話 設計者がわからない設計図

 翌朝、湊は厨房に向かう廊下で、リリアとすれ違った。リリアは布袋を抱えている。今朝のリリアの足音は昨日より少し早かった。

 「おはようございます」とリリアが言い、笑った。

 いつも通りの笑い方だ。

 湊はそれを確認する。確認してから、昨日の書庫の空気が少しだけ戻ってきた。香りとない交ぜになった体温。それと、力の種類が変わったページをめくる指。リリアはそのどちらも知らない。知らないまま、今朝も笑っている。

 「早いな」と湊は言った。

 「今日、少し違う仕事を頼まれて」

 「誰に?」

 「マルティナ様に」

 湊は一度、廊下の先を見た。特に何もない。石壁が光を遮っているだけだ。

 「どんな仕事だ」

 「西の応接間の準備です。午後にお客様がいらっしゃるとかで」

 「お前が担当するのか」

 「マルティナ様が急に人が足りないとおっしゃって」とリリアが言った。嬉しそうな顔で、「初めての仕事なので、ちゃんとできるか少し不安ですけど」と続けた。

 湊は何も言わなかった。

 言わなかったのは、言葉が見つからなかったからではない。言いたいことがあった。あったが、それを言うための根拠が、今の湊にはまだ薄い。薄い根拠で何かを言うと、リリアを不安にさせるだけで終わる。湊はただ、一言だけつぶやくように口にした。

 「気をつけろ」

 「はい、気をつけます」とリリアが言った。気をつけます、の意味がわかっていない顔だ。何に気をつけるかを、リリアは知らない。知らないまま、笑って、廊下を歩いていった。

 足音が遠ざかる。

 湊はしばらく、足音の消えた方向を見つめていた。

 「マルティナが、動いたか」

 誰にも聞こえないよう、湊はそう囁いた。


 西の応接間は、湊の仕事の動線からは外れた場所にある。

 北棟から渡り廊下を経由して西棟に入り、さらに階段を上がった先だ。今日の湊の仕事は厨房の在庫確認で、午前中は東棟を往復するだけの予定だった。予定通りに動く。動きながら、リリアのことは考えないようにしていた。というより、ただ、確認できることが何もなかったという状態に近かった。

 確認できないことを考え続けるのは、湊の習慣ではない。


 午後、昼食を終えてから、湊は西棟の方向へ歩いた。

 理由は作れた。台帳の補充が必要で、西棟の備品室に行く用事がある。それは本当だ。今日でなくてもいい用事だったが、今日でもいい用事でもある。

 渡り廊下に出たとき、遠くで声がした。

 女の声だ。一人ではない。廊下の反響で、どこから来ているかすぐにはわからなかった。階段の上だ、と湊は判断する。判断してから、足を速めた。


 階段の踊り場に、二つの人影がある。

 マルティナだった。そして向かい合うように、リリアがいる。

 リリアの手に、割れた陶器のかけらが一枚あった。白い磁器で、縁に金の模様が入っている。来賓用の器だ、と湊は一目で判断した。

 「説明しなさい」とマルティナが言った。声は低い。ミーナの怒声とは種類が違う。これは職業的な静けさだ。この静けさの中で叱られることの方が、怒鳴られることより、じわじわと深く刺さる。

 「運んでいる途中で、棚から落ちてしまって」とリリアが言った。

 「棚から落ちた?」

 「はい、一番上の棚の器が少し出ていて、袋を持ち上げたときに袖が当たったんだと思います」

 「あなたに頼んだのは器の準備だけです。棚の整理は頼んでいない」

 「はい」

 「なぜ棚に触れるような動きをしたのですか」

 リリアが少し黙った。黙り方が、ミーナに叱られるときのそれとは違った。ミーナに叱られるときは、リリアはすぐに謝る。今は謝れていない。謝れないのは、自分でも何が起きたか整理できていないからだ、と湊は判断した。

 「器の場所を確認しようとして」とリリアが言った。

 「確認を頼みましたか」

 「いいえ」

 「では確認する必要はなかった」

 「でも、準備の前に確認した方がいいかと思って」

 「頼まれていないことをするから、こういうことになる」

 リリアの手の中で、陶器のかけらが少し傾いた。落とさないように、両手で持ち直す。その動作が、今この瞬間のリリアのすべてだった、と湊には見えた。

 マルティナが陶器のかけらを受け取った。一度だけ、それを確認する。それから視線をリリアに戻した。

 「この器の弁償について、追って話します。今日の仕事はここまででけっこうです」

 「はい…」

 マルティナが階段を上がっていった。足音が消える。


 リリアは踊り場に立ったまま、しばらく動かなかった。

 湊が階段を上がった。

 「怪我はないか」

 リリアが顔を上げた。湊を見る。今日初めて、リリアの顔から笑いが消えていた。消えている、というより、笑う場所がわからなくなっている顔だ。

 「ないです」と言った。

 「そうか」

 「如月様、いつからいましたか」

 「今来た」

 「全部聞こえましたか」

 「だいたい」

 リリアが視線を下げた。石段を見ていた。石段には何もない。

 「確認した方がいいと思ったんです」とリリアが言った。

 「知っている」

 「でもそれが余計なことだったんですよね」

 「余計かどうかは場合による」

 「でもマルティナ様は余計だと言った」

 「そうだ」

 リリアがまた少し黙った。黙り方の中に、整理しようとして整理できていないものが、まだ残っている。

 「頼まれた仕事をそのままやればよかっただけで」とリリアが言った。

 「そうだな」

 「でも頼まれた仕事をそのままやるのが、私には難しくて」

 「知っている」

 「知ってるんですか」

 「目が行くから」

 リリアが少し顔を上げた。今朝の笑いとは違う顔だ。笑っていない、という意味ではない。笑いが別の場所から来ている顔だ。

 「そういう言い方をするんですね、如月様は」

 「事実だ」

 「慰めてくれてるわけじゃないんですよね」

 「そうだ」

 「でもなんか」とリリアが言って、止まった。

 止まった場所に、何かがある。湊は続きを促さなかった。促さなくても出てくるものは出てくる。出てこないものは、今日出てこなくていい。

 リリアは続きを言わなかった。

 代わりに、階段の手すりに手をついた。少しだけ、体重を預ける。疲れている、というより、立っているのに少し力が要っている、という立ち方だ。


 「弁償の話が出たな」と湊は言った。

 「はい」

 「金額はまだわからないか」

 「わかりません。あとで話すって言われたので」

 「来賓用の器だ。女給の俸給で払える金額ではないかもしれない」

 リリアが手すりから手を離した。

 「そうですよね」

 「ただ、払えない金額を払えと言われることは、通常はない」

 「通常は?」

 「そうだ、通常はな」

 リリアが少し間を置く。

 「通常じゃないこともありますか?」

 湊は少し考えた。通常じゃないことは、ある。ある、と知っている。知っていて、それをリリアに今言うべきかどうかを、湊は確認した。確認してみると、今は言わない方がいい、という判断が出る。

 言わない、というのは嘘をつくことではない。言わないことと、感じたことを言わないことは、まったく別のことだ。

 「まずマルティナの話を聞け」と湊は言った。

 「はい」

 「それから考える」

 「如月様も、一緒に考えてもらえますか」

 湊は少し間を置いた。

 「頼まれたなら」

 リリアがまた笑った。今日ようやくの、いつも通りの笑い方だ。ただし今日のそれは、ようやく、という重さを少しだけ含んでいた。含んでいることに、リリアは気づいていないかもしれない。


 夕方、湊は西棟の廊下を戻った。

 渡り廊下に差し掛かったとき、中庭の向こうに白い衣が見える。

 エリシアだった。

 中庭を歩いている。いつもの歩き方だ。靴底の薄い、静かな歩き方。重心のある歩き方。どこかへ向かっているのではなく、ただそこに存在しているという歩き方だ。

 湊は立ち止まらなかった。

 歩きながら、一度だけ、エリシアの方を見た。見たのは一秒に満たない。そのわずかな時間で、確認できたことがあった。

 エリシアの顔に、何もなかった。

 何もない、というのは無表情ではない。表情を使っていないのだ。使う必要がない場所にいる、という顔だ。今日の午後に何があったかを、マルティナとリリアの間に何があったか、この女は確実に知っている。知っている上で、今この顔をしている。

 湊はそれを、一瞬で確認した。

 渡り廊下を歩く。石畳の音が続いた。

 マルティナが動いた。エリシアが動かせた。リリアが失敗した。そのどこにもエリシアの名前はない。設計図は、設計した者の名前を残さないものだ。

 それだけのことを、今日、湊は見た。

 どうせろくなことにならない、と思った。

 思いながら、その言葉が今日は最初から、正しい方向を向いていた。向いた先に、あの踊り場のリリアがいる。手すりに少しだけ体重を預けて、立っていた。笑っていなかった。

 笑っていなかったリリアの顔が、今夜の湊の中に、まだ残っている。

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