第14話 「蓮司様って、優しいんですね」
翌朝、蓮司と食堂で向かい合った。
いつもの朝だ。麦を煮たものと、固いパンと、薄いスープ。蓮司が来るのは早い。騎士団の朝練が始まる前に食べる習慣ができているらしく、この時間帯の食堂には蓮司と湊以外にほとんど人がいない。
蓮司がパンをかじった。
「なあ、如月」
「なんだ」
「リリアっているだろ、女給の」
「ああ」
「昨日、器割ったって聞いたんだけど」
湊はスープを置いた。置いてから、蓮司の顔を確認する。心配しているのか、興味があるのか。どちらかを確認しようとして、どちらでもないことに気づく。もっと別の何かだ。
「どこで聞いた」
「レオンが言ってた。西棟の踊り場で、マルティナに叱られてたって」
「そうか」
「弁償になるんだろ」
「かもしれない」
「かもしれない、って」と蓮司が言った。パンを持ったまま、少し間がある。
「女給の給料で払えるのか」
「来賓用の器だ。おそらく難しいだろうな」
「なんで昨日言わなかったんだよ」
湊は少し考えた。なぜ言わなかったかを確認してみると、言う理由がなかった、という答えが出る。言う理由がなかった、というのは本当だ。ただ正確には、と湊は思い直す。言えなかったのではない。言わない、と判断したのだ。昨夜下したその判断の理由は、今も変わっていない。
「お前に言って、どうなる」
「どうにかできる」
「どうやって」
「勇者候補だぞ、俺は」と蓮司が言った。声に、いつもの明るさがある。ただしその明るさの下に、何か別のものが潜んでいる。明るさが先に来て、別のものが後から来た、という順番だった。
湊はスープを一口飲んだ。
蓮司がリリアのことを知っていた。レオンから聞いた。その情報をレオンが持っていた、ということは、王宮の使用人の間では昨夜のうちに広まっていた、ということになる。広まる速度が、少し早い。その理由は、一つではないかもしれない。
「蓮司」と湊は言った。
「なんだ」
「なぜリリアのことが気になる」
蓮司が三秒黙った。答えを選んでいる沈黙だ。選ぶ、ということは選択肢がある、ということだ。
「かわいそうじゃないか」と蓮司が言った。
「そうか」
「一人で抱えてたんだろ」
「俺が一緒に考えると言った」
「お前が?」
「昨日、頼まれた」
蓮司がまた少し間を置く。今度は短かった。
「俺の方が早く動ける」と言った。
午前中、湊は東棟の在庫確認をした。仕事は単純だ。棚の数を数えて、台帳に書く。数と記録が合っているかを確認する。合っていなければ差異の原因を探る。今日は合っていた。合っている日の仕事は速い。速いと、余った時間に考える余地ができる。
昼前に、廊下でリリアとすれ違った。
リリアの足音は今朝より遅い。遅い、というより、重い。重さが足音にまで出ている。顔を上げると、いつも通りの笑い方をしようとしていた。しようとしていた、というのが正確だ。
「如月様」
「ああ」
「今日の昼、少し時間もらえますか。マルティナ様に呼ばれていて」
「それが終わってからでいい」
「はい」とリリアが言い、笑った。いつもより少し、薄かった。
昼食の後、湊が中庭のベンチに向かうより先に、蓮司の姿を捉えた。
西棟の渡り廊下の入口で、蓮司がリリアと話している。
立ち止まって確認した。二人は廊下に立っていた。蓮司が何か言い、リリアが首を振る。蓮司が一歩、詰めた。廊下に二人が立っているとき、人間は詰めるか詰めないかのどちらかを選んでいる。選んでいないように見えて、選んでいる。蓮司は詰めることを選んだ。半歩、リリアの方へ重心を動かす。それだけだった。それだけなのに、その半歩を、湊は遠くから見つめていた。
リリアが顔を上げた。
顔を上げたリリアを、蓮司は見た。見る角度が変わる。さっきまでは廊下の二人として見ていた。今は違う。もっと近い種類の見方だ。距離は半歩しか変わっていない。変わったのは距離ではなく、距離の意味だ。
蓮司の視線が一瞬、こちらへ向く。
確認していた。湊がそこにいるかどうかを。確認してから、また視線を戻した。戻り方が、早かった。確認したことを、確認されたくなかった男の戻り方だった。
湊はそこから動かなかった。
蓮司が笑った。邪気のない笑い方だ。いつもの、あの笑い。リリアが少し笑い返した。さっきより少し、厚みのある笑い方だった。
湊は中庭の方へ歩いた。
ベンチには誰もいない。噴水の音がある。石畳が光を返していた。湊はベンチに座る。
蓮司がリリアに何を言ったかは聞いていない。ただ、蓮司が動いた、という事実は確認した。動き方が早い。朝食の席から昼食の後まで、わずか半日だ。この男が半日でやることを、湊は今朝、何もしていない。何もしていない理由は、昨夜判断した通りだ。正確には、その判断は正しかった。ただ、正しかった判断の結果がこれだ、という事実が、今ベンチの上で、静かに湊の足元に横たわっている。
昼過ぎ、リリアが中庭に現れた。
走ってはいない。ただ、歩き方が朝と変わっていた。重さが減っている。
「如月様」
「どうだった」
リリアがベンチの端に座った。湊との距離は三十センチもなかった。
「マルティナ様のところへ行ったら、弁償の話はなくなっていました」
「そうか」
「蓮司様が、話をつけてくださったみたいで」
湊は噴水を眺めていた。
「感謝したか」
「はい、廊下でお会いして。如月様が言ってくださったんですか」
「俺は何も言っていない」
「じゃあなぜ」
「さあな」
リリアが少し間を置く。間の置き方に、思考の気配があった。考えてから、
「蓮司様って、優しいんですね」と言った。
体が、少し前に出ていた。
リリアは気づいていない。言葉を口にしながら、体が先に動いた。「優しい」という言葉が出る前に、胸のあたりから何かが先に出た。その何かが体を一センチ、前に押す。一センチだけ、噴水の方向ではなく、廊下の方向へ。蓮司がいた方向へと。
湊は噴水を見ていた。見ながら、その一センチを感知する。
感知した、ということを、今夜も整理しなかった。整理できなかったのではなく、整理するための言葉が、今の湊にはまだなかった。
「優しいかどうかはわからない」と湊は言った。
「でも助けてくれました」
「そうだな」
「如月様も、いつも助けてくれますよね」
湊は答えなかった。
リリアが噴水を見る。二人の影が石畳に落ちていた。
「なんか」とリリアが言い、少し止まった。言葉を選んでいる止まり方だ。
「なんか、この王宮、思ってたより、いろいろあるんだな、って」
「そうか」
「はい」
それきり、しばらく黙った。不快ではない沈黙だ。ただ今日は、その中にいつもとは違う温度が、一枚、混じっている。
夕方、湊は蓮司と廊下ですれ違った。
「話をつけたそうだな」と湊は言った。
「まあな」と蓮司が答え、邪気のない笑い方をした。
「お礼は言ったか」
「リリアが?言ったよ」
「俺が言う話じゃない」
「如月が俺に言うかと思って」
「なんで俺が」
「心配してただろ、お前も」
湊は少し考えた。心配していたかどうかを確認してみると、していた。していたが、それをこの男に告げる理由を、湊は今も見つけられない。
「そうだな」と湊は言った。
蓮司が少し笑った。今日一番、邪気のない笑い方だった。
「じゃあな」
「ああ」
足音が遠ざかる。重心が前にある。いつもの、何かに向かって歩いている足音だ。ただ今日は、向かっている場所が、いつもとは少し違う方向を向いていた。どこを向いているかを、湊は確認しようとして、やめた。
夜、部屋に戻る。
蝋燭を灯すと、石の天井が揺れた。
蓮司がリリアを助けた。リリアは感謝した。感謝の声の温度が、昼に少し変わっていた。変わったことを、湊は確認した。
確認したことをどうするか、今の湊には答えがない。
どうせろくなことにならない、と思った。
思いながら、その言葉が今日は、二つの方向を同時に向いている。一つはいつも向いている方向だ。もう一つは、今日初めて向いた方向。向いた先に、昼間の廊下があった。蓮司とリリアが並んで立っている。
並んでいた、という事実が、今夜も残った。残り方が、昨夜とは違う。昨夜は純然たる事実として残っていたが、今夜は、まだ体温を持っていた。廊下に立っていた蓮司の半歩と、リリアの体が一センチ前に出た瞬間が、今夜の湊の中で、まだ冷めていなかった。
冷めないものは、いつか腐る。
どうせろくなことにならない、とまた思った。今夜その言葉は、二つの方向を向いている。一つはいつも向いている方向。もう一つは今日初めて向いた方向で、向いた先に、今もまだ体温が残っていた。




