表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
モブだった俺が異世界で主人公になれたのに、なんで誰も幸せにならないんだ?  作者: 深海周二


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/22

第12話 湿り気と冷気

 香りが先に来た。

 台帳に数字を書いていた手が、一瞬だけ止まる。止まった理由を頭が確認するより先に、皮膚が知っていた。冷たい種類の匂いだ、と湊はすでに知っている。

 ただ今日は違った。

 同じ匂いの下に、生ぬるく湿ったものが混ざっていた。体温だ。香りとない交ぜになった体の温もり。そのことに、おそらくこの女は気づいていない。気づいていれば、もう一枚、何かで覆っているはずだ。


 湊はペンを置いた。顔を上げる前に、一秒ある。

 その一秒で、自分の皮膚の状態を確認した。確認してみると、少し、変わっていた。変わっていることを自覚してから、湊は顔を上げた。

 エリシアだった。

 やはり、エリシアであった。

 扉の前に立っている。いつもの白い衣だ。いつもの金の髪だ。いつもの、部屋の主のような立ち方である。ただ、最初の一歩が、まだそこにあった。踏み出す前の重心が、この女の身体にまだ残っている。来ようとした力が、来た後もまだ消えていない。

 「邪魔でしたか」とエリシアが言った。

 「いいえ」

 湊は立ち上がった。立ち上がる間に、この女との距離を確認する。扉から三歩。前回より、入り口に近い。前回は棚の前まで来た。今日はまだ動いていない。動いていないのに、匂いが届いている。届く距離まで、すでに来ている。

 エリシアが歩き始めた。

 いつもの歩き方だ。靴底の薄い、静かな歩き方。ただ今日は、歩くたびに衣が石床に触れる音の間隔が、少し短い。少し速い。速い、ということは来ようとする力がいつもより強い、ということだ。

 机の前まで来た。

 一歩半だった。前回より半歩、近い。半歩の差を、エリシアは知っているか。たぶん知らない。知っていれば、もう半歩、下がっているだろう。この女はそういう計算をする。計算が及んでいない場所に、今日の半歩があった。

 湊は机の端に手を置いた。

 「一つ、聞いていいですか」とエリシアが言った。

 「どうぞ」

 エリシアが湊を見た。今日は最初から、正面だった。測るための目ではない。測ることをもう諦めた目だ、と湊は判断した。諦めた目は、測る目より近い。

 「女給のリリアが」

 言いかけた瞬間に、エリシアの指が動いた。

 衣の裾だった。指が裾に触れて、布を少し、握る。握ったことに気づいて、離した。離す速度が遅い。この女の動作にしては、明らかに遅かった。

 湊はその指を見ていた。

 見ていて、頭より先に、何かを理解する。理解した内容を、言葉にしなかった。言葉にすると、その後どうするかを決めなければならなくなるからだ。

 「女給のリリアが、あなたのところへよく来ていたようですね」

 言い終わった。

 一秒、あった。

 その一秒に、エリシアの全部が集まっている。答えを待っている。答えを待つ人間の身体には、待っている、という緊張がある。その緊張が、衣の上から見えた。見えた、というより湊の皮膚が感知した。

 この女の呼吸が、一段浅くなっている。浅くなった呼吸で、胸が小さく、規則的に動いている。その動きを、湊は一秒だけ、見た。一秒で、目線を外した。

 「仕事の範囲で、来てもらっていました」と湊は言った。

 「台帳の作業が続いていたので、昼の差し入れを」

 エリシアが息を吸った。

 声に出なかった。表情にも出なかった。ただ、胸が一度だけ、深く動く。

 「リリアは」とエリシアが、棚の方へ歩きながら言った。本を一冊引き抜いた。ページをめくる指に、今日は少し力が入っている。本を読んでいない人間のめくり方だ。

 「よく笑いますか」

 湊は答えた。

 「笑います」

 エリシアはページをめくる手を、止めなかった。ただめくる速度が、変わった。

 遅くなったのではない。速くなったのでもない。力の種類が変わった。さっきまでは「来ようとする力」だった。今は「押さえる力」だ。押さえている、ということは、押さえなければならないものが、今この瞬間に生まれた、ということに他ならない。

 湊はそれを見ていた。

 見ていて、さっきまでとは違う種類のものを、皮膚で感知する。さっきまでは温度だった。体温が香の下から漏れていた。今感知しているものは、冷たかった。

 欲望は温度を持つ。

 今エリシアの中で生まれたものは、温度を持っていなかった。

 「そうですか」とエリシアが言った。

 声が、一段、低くなっている。低くなったことに、この女は気づいていないかもしれない。ただ湊には聞こえた。低くなった声の中に、さっきまでなかったものがあった。さっきまでの声は、欲しがっている声だった。今の声は、欲しがりながら、同時に、別の方向を向いている声だった。

 別の方向とは、リリアの方向だ。

 湊には、それがはっきりわかった。


 エリシアが本を棚に戻した。戻す手が、今度は迷わない。さっきまで迷っていた手が、今は迷わない。迷わなくなった、ということは、何かが決まった、ということだ。何が決まったかを、湊は今日、半分しか確認できなかった。

 残りの半分が、少し、怖かった。

 エリシアが扉の方へ歩く。来たときより重心が低い。何かを持って、出ていこうとしている。

 扉の前で、止まった。振り返らなかった。

 「また来てもいいですか」とエリシアが言った。

 今度は問いかけではなかった。宣言だった。湊はその違いを、声の質で判断する。答えを求めていない声だ。

 「どうぞ」と湊は言った。

 扉が閉まった。


 湊はしばらく、扉を見ていた。

 自分の皮膚の状態を確認する。確認してみると二種類のものが、同じ場所に残っていた。

 一つは温度だった。来たときのエリシアが、香りとともに連れて来た湿り気だ。

 一つは冷たさだった。「笑います」と答えた後で、この女の中で生まれたものだ。

 二つは別のものだ。しかし同じ女から来た。同じ女の中で、今日、欲望が別のものに変質した。変質の瞬間を、湊は見ていた。


 湊が目撃したのは、他ならぬ、嫉妬が生まれる瞬間である。


 リリアに会ったのは、それから一時間後だった。

 東棟の廊下で、リリアが布袋を抱えて歩いてきた。今日もそれなりに重そうな袋だ。

 「如月様」とリリアが言った。笑った。いつも通りの、悪気のない笑い方だった。

 その笑い方が、今日の湊に、今まで届いていなかった解像度で届く。

 エリシアが「よく笑いますか」と聞いた。湊は「笑います」と答えた。その答えの後でエリシアの中に生まれた冷たさを、湊は皮膚で感知した。感知した後で、今、リリアが笑っている。

 何も知らないまま、笑っている。

 この笑い方が、一時間前に、エリシアの中で欲望を変質させた。リリアはそれを知らない。知らないまま、いつも通りに笑っている。知らないということが、今日の湊には、今まで感じたことのない種類の、重さとして届いた。

 「袋、持つか」と湊は言った。

 「あ、いいんですか?」

 「重そうだから」

 「重いです、正直」とリリアが笑う。

 袋を受け取った。確かに重かった。リリアが隣を歩き始めた。話しながら歩く。リリアはいつもそうだ。今日あったことを話す。料理長に怒られたこと。ミーナと仲直りしたこと。南棟の窓が一枚、割れかけていること。

 声が温かかった。

 温かい声が、一語一語届く。届くたびに、一時間前の書庫の空気が、少しずつ、別の場所へ移動した。移動しながらも、消えなかった。

 リリアは何も知らない。

 何も知らないまま、湊の隣を歩いている。歩きながら笑っている。その笑い方が、一時間前に、エリシアの何かを変質させた。変質させたことを、リリアは永遠に知らないかもしれない。

 並んで歩きながら、湊はリリアの横顔を見た。

 笑っている。

 この笑い方に、エリシアは嫉妬した。湊には今日、それがわかった。わかった上で、リリアの横顔を見ている。見ながら、この笑い方を、失いたくないと思った。


 初めてそう思った。


 リリアはまだ話していた。南棟の窓の話が終わって、今度は厨房の新しい料理の話になっている。湊は黙って聞いていた。袋が重かった。重い袋を持ちながら、リリアの声を聞いていた。

 どうせろくなことにならない、と思った。

 思いながら、その言葉が向いている方向が、今日は、今まで向いていなかった場所を指していた。

 向いた先に、エリシアの冷たさがある。

 その冷たさが、リリアに向かっていることを、湊は今夜、初めて、正確に理解した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ