第12話 湿り気と冷気
香りが先に来た。
台帳に数字を書いていた手が、一瞬だけ止まる。止まった理由を頭が確認するより先に、皮膚が知っていた。冷たい種類の匂いだ、と湊はすでに知っている。
ただ今日は違った。
同じ匂いの下に、生ぬるく湿ったものが混ざっていた。体温だ。香りとない交ぜになった体の温もり。そのことに、おそらくこの女は気づいていない。気づいていれば、もう一枚、何かで覆っているはずだ。
湊はペンを置いた。顔を上げる前に、一秒ある。
その一秒で、自分の皮膚の状態を確認した。確認してみると、少し、変わっていた。変わっていることを自覚してから、湊は顔を上げた。
エリシアだった。
やはり、エリシアであった。
扉の前に立っている。いつもの白い衣だ。いつもの金の髪だ。いつもの、部屋の主のような立ち方である。ただ、最初の一歩が、まだそこにあった。踏み出す前の重心が、この女の身体にまだ残っている。来ようとした力が、来た後もまだ消えていない。
「邪魔でしたか」とエリシアが言った。
「いいえ」
湊は立ち上がった。立ち上がる間に、この女との距離を確認する。扉から三歩。前回より、入り口に近い。前回は棚の前まで来た。今日はまだ動いていない。動いていないのに、匂いが届いている。届く距離まで、すでに来ている。
エリシアが歩き始めた。
いつもの歩き方だ。靴底の薄い、静かな歩き方。ただ今日は、歩くたびに衣が石床に触れる音の間隔が、少し短い。少し速い。速い、ということは来ようとする力がいつもより強い、ということだ。
机の前まで来た。
一歩半だった。前回より半歩、近い。半歩の差を、エリシアは知っているか。たぶん知らない。知っていれば、もう半歩、下がっているだろう。この女はそういう計算をする。計算が及んでいない場所に、今日の半歩があった。
湊は机の端に手を置いた。
「一つ、聞いていいですか」とエリシアが言った。
「どうぞ」
エリシアが湊を見た。今日は最初から、正面だった。測るための目ではない。測ることをもう諦めた目だ、と湊は判断した。諦めた目は、測る目より近い。
「女給のリリアが」
言いかけた瞬間に、エリシアの指が動いた。
衣の裾だった。指が裾に触れて、布を少し、握る。握ったことに気づいて、離した。離す速度が遅い。この女の動作にしては、明らかに遅かった。
湊はその指を見ていた。
見ていて、頭より先に、何かを理解する。理解した内容を、言葉にしなかった。言葉にすると、その後どうするかを決めなければならなくなるからだ。
「女給のリリアが、あなたのところへよく来ていたようですね」
言い終わった。
一秒、あった。
その一秒に、エリシアの全部が集まっている。答えを待っている。答えを待つ人間の身体には、待っている、という緊張がある。その緊張が、衣の上から見えた。見えた、というより湊の皮膚が感知した。
この女の呼吸が、一段浅くなっている。浅くなった呼吸で、胸が小さく、規則的に動いている。その動きを、湊は一秒だけ、見た。一秒で、目線を外した。
「仕事の範囲で、来てもらっていました」と湊は言った。
「台帳の作業が続いていたので、昼の差し入れを」
エリシアが息を吸った。
声に出なかった。表情にも出なかった。ただ、胸が一度だけ、深く動く。
「リリアは」とエリシアが、棚の方へ歩きながら言った。本を一冊引き抜いた。ページをめくる指に、今日は少し力が入っている。本を読んでいない人間のめくり方だ。
「よく笑いますか」
湊は答えた。
「笑います」
エリシアはページをめくる手を、止めなかった。ただめくる速度が、変わった。
遅くなったのではない。速くなったのでもない。力の種類が変わった。さっきまでは「来ようとする力」だった。今は「押さえる力」だ。押さえている、ということは、押さえなければならないものが、今この瞬間に生まれた、ということに他ならない。
湊はそれを見ていた。
見ていて、さっきまでとは違う種類のものを、皮膚で感知する。さっきまでは温度だった。体温が香の下から漏れていた。今感知しているものは、冷たかった。
欲望は温度を持つ。
今エリシアの中で生まれたものは、温度を持っていなかった。
「そうですか」とエリシアが言った。
声が、一段、低くなっている。低くなったことに、この女は気づいていないかもしれない。ただ湊には聞こえた。低くなった声の中に、さっきまでなかったものがあった。さっきまでの声は、欲しがっている声だった。今の声は、欲しがりながら、同時に、別の方向を向いている声だった。
別の方向とは、リリアの方向だ。
湊には、それがはっきりわかった。
エリシアが本を棚に戻した。戻す手が、今度は迷わない。さっきまで迷っていた手が、今は迷わない。迷わなくなった、ということは、何かが決まった、ということだ。何が決まったかを、湊は今日、半分しか確認できなかった。
残りの半分が、少し、怖かった。
エリシアが扉の方へ歩く。来たときより重心が低い。何かを持って、出ていこうとしている。
扉の前で、止まった。振り返らなかった。
「また来てもいいですか」とエリシアが言った。
今度は問いかけではなかった。宣言だった。湊はその違いを、声の質で判断する。答えを求めていない声だ。
「どうぞ」と湊は言った。
扉が閉まった。
湊はしばらく、扉を見ていた。
自分の皮膚の状態を確認する。確認してみると二種類のものが、同じ場所に残っていた。
一つは温度だった。来たときのエリシアが、香りとともに連れて来た湿り気だ。
一つは冷たさだった。「笑います」と答えた後で、この女の中で生まれたものだ。
二つは別のものだ。しかし同じ女から来た。同じ女の中で、今日、欲望が別のものに変質した。変質の瞬間を、湊は見ていた。
湊が目撃したのは、他ならぬ、嫉妬が生まれる瞬間である。
リリアに会ったのは、それから一時間後だった。
東棟の廊下で、リリアが布袋を抱えて歩いてきた。今日もそれなりに重そうな袋だ。
「如月様」とリリアが言った。笑った。いつも通りの、悪気のない笑い方だった。
その笑い方が、今日の湊に、今まで届いていなかった解像度で届く。
エリシアが「よく笑いますか」と聞いた。湊は「笑います」と答えた。その答えの後でエリシアの中に生まれた冷たさを、湊は皮膚で感知した。感知した後で、今、リリアが笑っている。
何も知らないまま、笑っている。
この笑い方が、一時間前に、エリシアの中で欲望を変質させた。リリアはそれを知らない。知らないまま、いつも通りに笑っている。知らないということが、今日の湊には、今まで感じたことのない種類の、重さとして届いた。
「袋、持つか」と湊は言った。
「あ、いいんですか?」
「重そうだから」
「重いです、正直」とリリアが笑う。
袋を受け取った。確かに重かった。リリアが隣を歩き始めた。話しながら歩く。リリアはいつもそうだ。今日あったことを話す。料理長に怒られたこと。ミーナと仲直りしたこと。南棟の窓が一枚、割れかけていること。
声が温かかった。
温かい声が、一語一語届く。届くたびに、一時間前の書庫の空気が、少しずつ、別の場所へ移動した。移動しながらも、消えなかった。
リリアは何も知らない。
何も知らないまま、湊の隣を歩いている。歩きながら笑っている。その笑い方が、一時間前に、エリシアの何かを変質させた。変質させたことを、リリアは永遠に知らないかもしれない。
並んで歩きながら、湊はリリアの横顔を見た。
笑っている。
この笑い方に、エリシアは嫉妬した。湊には今日、それがわかった。わかった上で、リリアの横顔を見ている。見ながら、この笑い方を、失いたくないと思った。
初めてそう思った。
リリアはまだ話していた。南棟の窓の話が終わって、今度は厨房の新しい料理の話になっている。湊は黙って聞いていた。袋が重かった。重い袋を持ちながら、リリアの声を聞いていた。
どうせろくなことにならない、と思った。
思いながら、その言葉が向いている方向が、今日は、今まで向いていなかった場所を指していた。
向いた先に、エリシアの冷たさがある。
その冷たさが、リリアに向かっていることを、湊は今夜、初めて、正確に理解した。




