瀬川明里、未読・・・
エレベーターの前に立っていた。
ボタンを押した。ランプが点いた。扉が開くのを待っているうちに、廊下になっていた。
蛍光灯が白く光っている。壁はコンクリートで、床はリノリウムだった。靴を履いていない。冷たかった。冷たいことが、おかしいとは思わなかった。
廊下の突き当たりに、影があった。
壁に貼り付いた、人の形をした影だった。髪が肩のあたりで切れていた。こちらを向いていた。見ていた。目は見えなかったが、見られているという感触だけが、確かにあった。
湊は歩いた。歩いても、距離が縮まらない。縮まらないまま歩き続けた。廊下が長いことは、不思議ではなかった。
影の輪郭が、わずかに動いた。
口のあるあたりだった。何かを言おうとしていた。言おうとしているのが伝わったのに、音が来なかった。
「聞こえない」と湊は言った。
影がもう一度、口のあるあたりを動かした。名前を呼んでいる形だった。湊、という形だった。音はなかった。
影の頬を、何かが伝った。
一筋だった。光を持っていた。影のくせに、そこだけが光を持っていた。伝って、顎の先で止まった。止まったまま、落ちなかった。
湊は一歩、踏み出した。
影が消えた。
壁があった。コンクリートの壁が、最初からそこにあった顔をして、そこにあった。
ポケットに手を入れると、スマートフォンがあった。画面が光っていた。未読が一件。差出人の名前が見えた。瀬川明里、と書いてあった。
読もうとした瞬間、画面が暗くなった。
暗い画面に、湊の顔が映っていた。三十二歳の顔だった。さっき影の中から見られていた顔が、ここにあった。見られていたとき、この顔はどう見えていたのか。暗い画面は、それを教えなかった。
エレベーターのドアが開く音がした。
光が来た。それきり、廊下はなくなった。




