第11話 王女の目
中庭の朝は静かだった。
石畳がまだ夜の冷たさを残していて、噴水の水音だけが一定のリズムで続いている。湊とリリアは並んで窓枠の外側を拭いていた。昨日の続きの仕事だ。昨日は南棟で、今日は中庭に面した渡り廊下の窓を、端から順番に。
リリアが腕を伸ばした。
届かなかった。
「木箱を持ってくる」
「あ、大丈夫です、もう少しで」
「届いていない」
「届いてます、ほぼ」
「ほぼ、は届いていない」
リリアが振り返って、少し唇を尖らせた。怒っているのではない。この顔は、正しいことを言われたときにする顔だ、と湊は三週間で覚えた。
木箱を厨房から持ってきた。リリアが乗った。今度は届いた。
「ありがとうございます」
「ああ」
リリアが窓の外側に布を当てた。腕を伸ばすたびに、衣の裾が揺れる。その揺れが湊の視界の端に入った。入ったまま、出ていかなかった。
出ていかない、ということに、湊は今日初めて気づいた。
気づいた、というのは、今日だけの話ではないかもしれない。ただ、確認したのが今日だった、という意味だ。確認して、どうするかは、今のところない。
「如月様」
「なんだ」
「昨日の夜、ベンチに座ってたとき」
「ああ」
「あのまま寝てしまいそうでした」
「そうか」
「如月様は寝そうになりましたか」
湊は少し考えた。寝そうになったかどうかを確認してみると、なっていなかった。ただ、眠れなかった、という意味でもない。寝ようとしていなかった、という方が正確だ。
「なっていない」
「なんでですか」
「さあ」
リリアが窓の外を向いたまま、「難しいですね」と言った。昨日と同じ言葉だった。湊は次の窓に布を当てた。
リリアの声の距離が、今朝はいつもより近かった。近い、という感触が、音より先に届いた。
昼を少し過ぎた頃、雲が切れた。
光が中庭に落ちてきて、噴水の水面が白く光った。リリアが「きれいですね」と言って、手を止めた。湊も手を止めた。止める必要はなかったが、止まっていた。
「如月様も、きれいだと思いますか」
「思う」
「よかった。私だけだと困るので」
「なんで困る」
「一人だけきれいだと思ってても、寂しいから」
湊は噴水を見た。リリアが並んで噴水を見た。二人の影が石畳に落ちていた。影の間隔が、三十センチを切っていた。
その間隔を、湊は測っていなかった。
測っていなかったのに、わかった。
足音が止まったのは、湊がリリアの横顔を見た、その瞬間だった。
横顔を見たのは偶然だ。リリアが何か言いかけて、止まったからだ。止まった理由を確認しようとして、湊は顔を向けた。向けた先で、リリアの体が固くなっていた。
固くなっていた。
それが最初だった。
湊はリリアの視線の先を、反射的に追った。
渡り廊下の、石柱の向こう。白い衣があった。
エリシアだった。
中庭を横切ろうとして、止まっていた。足が先に止まっていた。体の重心が、まだ前に向いたまま、足だけが地面に縫い付けられていた。
その一瞬を、湊は見た。
体が止まった人間の顔がある。止まったことに気づいている顔と、気づいていない顔は、違う。エリシアは気づいていなかった。この女が気づいていないとき、制御の外にいる。制御の外にいるエリシアを、湊は今まで見たことがなかった。
一度だけあった。台帳の端で、指が一センチ動いて、引いた。あのときも速度が変わった。しかし今日は違う。あのときは制御が一瞬だけ揺れた。今日は制御の前に何かが来た。来て、足を止めた。その順番が逆だった。
計算が間に合わなかった顔だった。
湊はその顔を、三秒、見た。
三秒で、エリシアの制御が戻った。戻り方が、今まで見てきたどの瞬間より、遅かった。遅い、ということは、戻すのに力が要った、ということだ。要った力の量が、引っかかった何かの大きさと等しい。
エリシアの視線が、リリアから湊へ動いた。
動いた瞬間、目が合った。
この女の目に、今まで見たことのないものがあった。何かを測ろうとして、測れていない目だ。測るための道具を持っているはずなのに、道具の使い方が今この瞬間だけわからなくなっている、という目だ。
湊は目線を外さなかった。
外す理由がなかった。外したら、何かを認めることになる気がした。何を認めるのかは、今は言葉にできない。
エリシアが先に目線を外した。
渡り廊下を歩き始めた。歩き方は、いつも通りだった。靴底の薄い、静かな歩き方。重心のある歩き方。ただ、最初の一歩だけが、わずかに重かった。
白い衣が石柱の向こうに消えた。
リリアの体から、固さが溶けた。溶けてから、小さく息を吐いた。吐いたことに、リリアは気づいていないかもしれない。
「如月様」と小声で言った。
「ああ」
「今の」
「王女殿下だ」
リリアが少し黙った。黙り方が、普段のリリアではなかった。普段のリリアは黙らない。何かを考えるときでも、考えながら声が出る。今は声が出なかった。
「そうですね」とリリアがやっと言った。
それだけだった。
湊はリリアの横顔を見た。さっきと同じ横顔だ。ただ、さっきとは何かが違った。違いが何かを、湊は確認しようとして、確認できなかった。
リリアが布を持ち直した。次の窓へ移り始めた。湊も布を持って、隣の窓へ動いた。
噴水の音が続いていた。中庭の光は変わっていなかった。
ただ、さっきまでと同じではなかった。
夜、部屋に戻った。
石のベッドに腰を下ろして、湊はしばらく天井を見ていた。蝋燭が一本、揺れていた。風はないのに揺れていた。揺れる理由を探す気にはなれなかった。
今日、エリシアの制御が崩れる瞬間を見た。
怖くなかった。
それだけなら、いい。この三週間で、湊はこの王宮の人間がどういうものかを少しずつ把握してきた。把握した結果として、怖くない、という結論が出た。それは合理的だ。
ただ。
怖くなかった、という事実を確認したとき、湊の中に何かが残った。残ったものが何かを、言葉にしようとして、できなかった。できなかった、ということ自体が、引っかかった。
怖くなかった、という発見が、怖い。
この怖さは何に対する怖さか。エリシアに対してではない。湊自身はそれを確認できる。ではリリアに対してか。それも違う。
違う、と言い切れるかどうかを確認しようとして、湊は止まった。
止まった場所に、今日の昼間があった。石畳に落ちた影。三十センチを切った間隔。測っていないのにわかった、あの感触。
それと、エリシアの目が。
何かを測ろうとして、測れていない目が。
測れていなかったのは湊も同じだった。あの目が何を測ろうとしていたのかが、今夜になってもわからなかった。わからないのに、目を外さなかった。外さなかった理由が、今もわからなかった。
蝋燭が揺れた。
湊は天井を見ていた。
この王宮の石壁は厚い。厚い壁の向こうで、今夜も何かが動いている。動いているものに名前をつけることを、湊は今夜、初めて、避けた。
避けた、とわかった。
それが今夜の、唯一の正直な発見だった。




