その七十四
三千二十七
面白いと謂うか難しいもので、自分が書く小説だというのに中々本当に自分が言いたい書きたい事を書く事が出来ないのです。茶を喫する時、隠しても隠し切れないその人間の人物心胆が外から見えるという話を聞いた事がありますが、小説を書くのも同じ様なものに思えてなりません。心の定まらない時、私と雖も書けないのです。何か自分を構成している幾つかの分身が勝手にそれぞれの方向に飛び回っている様で。
動かせない自分の想い。それは何度も何度も振り返り、抱き直し、弄りながらまた手を繋ぎ、そして時間が経って真実に自分と一つになるのです。私はまだまだ、本当に納得出来る自分になる事が出来ていません。
三千二十八
損得勘定、言葉からしてあまり褒めた響きではないですね。けれど日々の暮らしに於いて、私はかなりそれをしている人間だと思います。それもかなり厳密に。ですが私の場合、それを適用してはいけない領域というのがあります。そういう目で視てはいけない次元の話が、生活の中に実に多いのです。
あなたはこれを不便だと思いますか。それともそれ以外の何かを気持ちを感じますか。出来れば後者の方であってほしいと思いますが、私自身はこれを最早私の魂と不可分な感覚だと思っています。ですから不便も不利も苦しいもへったくれも無く、私はその価値観と共に生きなければなりません。そしてそう覚悟すると、その覚悟の後で漸く『不便』とは思わなくなるのです。何かを感じませんか。私はそれが導きだと思うのです。
三千二十九
「散る桜、残る桜も散る桜」
これを、見える、見えている、と謂うのです。斯んな事は、最大限に心を鎮め穏やかにしたとしてもそれだけでは見えません。自分の中に相当の経験が積まれ、その事の故に苦しみ悲しみして来た人間でないと見えないのです。そして斯ういうものが見えないと、その人の歩む人生は信じられない程に貧しくなるのです。自分自身がそれに一切頼る事が出来ない程に貧相で力無いものに。かなりな年齢になってから、『私は、何の為に生まれて生きて来たのだろう』と誰にも言えず密かに心の中で思わなければならない程に。
人は心豊かに生きるべきです。別に豊かでなくとも可いですか? 『普通』なら可いですか? この場合、その『豊かでない普通』というのは凄惨ですよ。到底直視に堪えられないものです。
三千三十
小さな子の無心に度々(たびたび)助けられます。それに接する事で、如何に私の心は軽くなるでしょう。正に一時、憂いを忘れます。私は忘れる事が苦手、と謂うよりも殆ど忘れる事の出来ない人間であるのに。間違い無くそうである筈なのに。
与えられているものを大切に抱きながら、まだ先に進みましょう。先が何うなるか判ったものではないと承知の上で進みましょう。屹度私個人にとっても、今よりも厳しい未来になるでしょう。しかし必ず慰めが私の隣に在ると思います。今までの私の人生が、ずっとずっとそうであった様に。
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