その五十五
二千三百四十八
一番の休暇とは、人に会う事ではないでしょうか。知っている人でも知らない人でも、人と出逢って話をする事ではないでしょうか。知らない人からは勿論、知っている人からでも新しい何かを聴く事が出来ます。また何ら新しい話が無くても、人と話す事に拠って自分の側で新しい事に気付くかも知れません。そういう事は多いのです。
人と出逢う機会をもちましょう。多くなくても可いし、嫌いな人は避ければ良いだけです。話してみて『こらあかん』と思ったら逃げ去れば良いのです。自分が真実に他人を必要としない時が来るなら別ですが、そうでない限りこの道には希望を置くべきだと思います。
二千三百五十
私は望みの無い人間を正常な人間とは認めません。断っておきますが、正常な人間ではないから殺害しても別に根本的な罪には当たらないとか、そんな人間の値打を量る話をしているのではありません。寧ろ医学的な話に近く、それが人間として生きるに当たって正常な状態ではないという事を言いたいのです。
慥かに、社会に生きる時人は望みを捨てさせられる事ばかりの様に思うかも知れません。それ位に利己主義と謂うか自分の事しか考えない人間は多いと思います。望みをもっても、それが叶えられる希望は皆無に等しい。しかしだからといって自分の裡の望みを自分で捨てて仕舞ったら、それは何処を目指して生きるのかの目当てを捨てるのと同じですから、その後漂流するしかなくなるのです。漂流は頼りないです。文字通り根無し草です。これは殆ど、『生きている』という表現に相応しくありません。つらいけれども、捨てると自分の行き先が無くなる。厳粛な法則です。
『それが叶えられる可能性は皆無に等しい』、その自分の望み、点検してみる必要はありませんか。真実に自分の一生の目標として相応しいですか。その実現の為に、自分の多くを犠牲に差し出しても構わない大切な望みですか。これは微妙なニュアンスであって謂うのが本当に難しいのですが、私は自分の望みが本当に価値あるものであるのか点検する為に、それを純一無垢な尊いものに鍛造し直す為に、この世が生半可で手前勝手な望みを捨てさせようとするのだと思うのです。言い換えれば、本当の望み、願いならば、自分が蒙るそういう世の荒波を突き破って、そのまま天地と自分の人生とを貫くと思うのです。
二千三百五十一
私が子供の頃、父が日本中の民宿一覧みたいな小さな版の冊子を買ってくれました。いつも鉄道旅行を父にせがんでいた私だったので、屹度父が少しでも宿代を安く済ませる為に民宿というものを利用しようと思ったのだと想像します。結局殆ど泊りがけの旅行などさせてもらえなかったので、その本は本来の用途にそんなに活用出来ませんでしたが、意外な形で私の記憶に残っています。
或る北国の民宿が載っていました。辺り一面大雪ですが、こぢんまりしたコンクリートの瀟洒な建物の写真が掲載されています。勿論民宿なのですがこれがまた如何にも洒落ていて小綺麗で、恰好が良いのです。スキー客を対象にした民宿だった様ですが、私には都会風のセンスの良い建物に見えました。そしてその写真では、周囲の堆い積雪に太陽が反射して迚も眩しく、明るさいっぱいのイメージでした。古い古い家に住んでいた私には、それはまるで天国の様な場所に見えました。自分の住む世界と違って見えました。何かしら根本的な次元において自分の暮らす空間とは異質で、前提の異なったものである様な気がしたのです。私が憧れを積み重ねていたのですね。
今ではその民宿が何処の民宿だったのかも忘れて仕舞いました。その眩しい光の写真だけを記憶しているのです。仮に今それが何処なのかが分かっても、私は今から行きたいとは思わないでしょう。今私が懐かしいと思うのは、行った事の無いその民宿そのものでもなく、四十年以上記憶しているその写真でもなく、そういうものに憧れていた小さな頃の自分であり、その民宿の本を期待をいっぱい込めて読んでいた私を恐らくは微笑ましく眺めていたであろう今は亡き父だからです。
私は父に感謝します。私にその想い出をくれて、また私がそんな家に生まれ、私を育ててくれた事に心から感謝しています。
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