その五十六
二千三百五十二
春の暖かさに、夏白茶けた土道の照り返しが暑かったその感覚を思い出しました。まだ夏でもないのに。桜が咲いているというのに。
予感。良いものではありませんか。幻と謂えば幻、錯覚と謂えば錯覚です。しかし人はそういう理の無いものに支えられているというのが、それでこそ健康な人間性を保つ事が出来るというのが、私の意見です。
二千三百五十三
仮に自分の周囲が吐き気のする様な人間ばかりだと思う様な事があるなら、いっそじっくり視てやろうという気持ちになってみるのはどうでしょう。勿論それは見ていると吐き気がするのですからつらいのですが、それでも『堪えられない』とて顔を背けているのではなく、『そういう人間が結局どうなるのか』という事を確かめる為に、吐き気に堪えてじっくり観察するのです。其処からは屹度得るものがあります。それはそういう汚い人間が、決して平和や幸福の中に生きているのではないという事実です。それはそういう汚い人間だから平和や幸福が無い訳ではなく、善良な人間にも平和や幸福は無い事が多いです。しかし善良な人間には支えがあるのです。汚い人間にはそれがありません。それを自分から捨てる事に拠って、汚い事が出来るからです。それが両者の決定的な違いです。
私は汚い人間を観察する事で、そういう理解を得たつもりです。そして善良な人間の純朴、素直、温かさ、それらが如何に尊いものであるのかも改めて徹底的に知ったと思っています。私は自分の辿ったそういう過程を省みる時に、導きという事を深く想います。導きというものは、実に長い、実に遥かな道程に於いて在るのですね。
二千三百五十四
私が生まれてから五十年以上、そして今に至る迄もずっと変わらずに私を見守っていてくれるもの。そんなものが他にあるでしょうか。あるとして、それを想像しろというのは無理ではありませんか。人間には絶対に不可能な事ではないでしょうか。また、想像すべきでも、信じるべきでもないのではありませんか。
私の最大の幸福は、その墓守ではありませんか。
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