その百一
三千八百三十一
真実に価値のあるものは見付けにくいのです。自分から遠く果ての果てに在るからではありません。却ってそれは必ず自分の身近に在るのです。ところが、徹底的に目立たないのです。変な譬えですが昆虫の擬態の様にと謂いますか、実に地味で、それが宝である事を実感しにくいのです。ところが一度失われると、人は一切の生きる希望を無くして仕舞うのです。しかし私はこの法則、秩序に諸手を上げて賛成します。それを賞賛します。どうしてかというと、その秩序は必然的に人間に自分の目が見える様になる事を求めるからです。そうでないと人が幸福になれないからです。
世の中が如何に汚いとはいえ、斯ういう事は時代に拠っても状況に拠っても変わる事がありません。摂理とは斯ういうものを謂うのではありませんか。だとすると、摂理は今も地上に重く働いています。
三千八百三十二
私の拒絶は激しいです。それは感覚で判断しているのと理性で判断しているものの合計だからです。私は生理的な嫌悪も強い方だと思いますが、それに理性の判断も加わるのです。
「腹が立つのも腹が立つが、これではどうせこの先何も善いものには到達しないだろう」
そう思うからです。
拒絶も自分を表現する大きな機会です。それを何れだけ激しくするかで、自分という人間を周囲に表明する事が出来ます。自分を表明しないでは、何も生まれて来ません。自分で自分の事を如何なる人間か実感をもって断定する事が出来ません。自分自身にも教えるのです。私はそういう魂なのであると。
三千八百三十三
家族で旅行、良いですね。小さな子供がいると文字通り楽しいですね。自分が今外に見る風景が子供の記憶に刻まれているのだと思うと、思わず厳粛な気持ちになります。そして自分が、静かな落ち着いた微笑になるのが分かります。
子供の頃の記憶は、その意義を隠したまま子供の中に積まれます。子供は青年、成人、そして軈て壮年になる自分の一生をかけて、その意義を解いて行くのです。その記憶が自分の心の何かに符合して行く事を繰り返し経験しながら、自分の宿命、自分が何故この世に生まれ、生きているのかを把握して行くのです。その永い営みの最初を一緒に創る、これが親の喜びでなくて何でしょうか。またその時、親があたたかく優しく子を見詰めて居らずして何としましょうか。共に生きる、その最も具体的な形、実践ではありませんか。
ブログは毎日更新しています。
https://gaho.hatenadiary.com/




