冥府の役人 小野篁(三)
篁は人目を避け、ある井戸から冥府へと続く道を下っていた。
地上から遠ざかるにつれ、辺りから光が消えていく。
やがて見慣れた常闇の世界が姿を現すと、篁はどこか懐かしそうに辺りを見渡した。
「やはり、こちらの方が落ち着くな」
地上へ戻ってからまだ数日しか経っていないというのに、不思議なものだった。
考えてみれば当然かもしれない。
篁にとって地上は百年ぶりの世界。
対して冥府は、その百年を過ごした場所である。
こちらの方が馴染み深いのも無理はなかった。
冥府を行き交う鬼たちも、篁の姿に気づくと次々に頭を下げる。
「篁様、お戻りになられたのですか」
「少し用があってな」
「地上はいかがでございますか?」
「相変わらず、人の世は面倒なことばかりだ」
篁はそう答えながら、そのまま歩みを進めた。
向かった先は、死者たちが裁きを待つ場所だった。
「少し前に、平安京で殺された巫女が、こちらへ来たはずだ。呼んでくれ」
篁が尋ねると、冥府の役人は記録を確かめた。
「はい。しかしその巫女は……少々、厄介なことになっておりまして」
「厄介?」
「はい。その者は、本来定められていた寿命を迎える前に命を絶たれております。そのため記録と実際の死期が合わず、裁きの手続きが進んでおりません」
「やはり、そうか」
前の巫女と同じだった。
本来ならば、まだ地上で生きているはずだった者。
何者かによって、その寿命を無理やり断ち切られている。
「まぁ。良い。今すぐに、その巫女に会わせてくれ」
「承知いたしました」
しばらくして、一人の女が篁の前へ連れてこられた。
地上で見た、あの巫女だった。
鬼達に囲まれ女は不安そうに辺りを見回している。
自分がなぜ死んだのか。
これからどうなるのか。
何も分からぬまま冥府に留め置かれているのだろう。
篁は冷静に話しかけた。
「そなたに聞きたいことがある」
巫女は恐る恐る篁を見た。
「あなた様は…人で、ございますか…?」
篁を見て女は明らかにホッとした表情を浮かべた。
「私は冥府の役人だ」
だが篁の一言で女の顔色は再び強張った。
そんな様子の女に篁は構わず話を続ける。
「そなたが殺された件を地上で調べている。死ぬ前に何があったのか、覚えていることを全て話せ」
巫女はしばらく黙っていた。
やがて観念したように、ぽつりと口を開いた。
「……ある貴族様のお屋敷へ参りました」
「何のために?」
「口寄せを頼まれたのでございます」
「口寄せ?」
「亡くなった者の魂を呼び出し、言葉を聞きたいと……」
篁は黙って続きを促した。
ところが巫女は俯いたまま、なかなか次の言葉を口にしない。
「どうした」
「…………」
「隠し事をしても無駄だ。ここは冥府だ。裁判になれば、そなたの生前の所業は全て明らかになる」
その言葉に、巫女の肩が小さく震えた。
「申し訳ございません……」
「何がだ?」
「私は……本当は、口寄せなどできません」
篁の眉がわずかに動いた。
「できない?」
「はい」
「では、霊力は?」
巫女は小さく首を横に振った。
「ございません」
「……何?」
「私には、霊を見る力も、魂を呼び寄せる力もございません」
篁はしばらく無言で女を見つめた。
「では、そなたは何をしていた」
「口寄せができるふりをして……亡くなった方の言葉を聞いたように装っておりました」
「つまり、偽りか」
「……はい」
女はますます小さくなる。
「依頼された方から、亡くなった方のことをあらかじめ聞き、それらしい言葉をお伝えしておりました。そうすれば皆、信じてくださったのです」
「それで金品を受け取っていたのか」
「……はい」
篁は思わず額に手を当てた。
殺された巫女から事件の手掛かりを聞くために、わざわざ地上から冥府まで戻ってきた。
その結果、判明したのは――。
巫女を名乗る女による偽りの口寄せだった。
「人の世は、百年前より面倒になってはいないか……?」
「申し訳ございません……」
「それで、なぜ殺された」
篁が尋ねると、巫女の表情が強張った。
「偽りだと……知られてしまったのでございます」
「依頼した者にか?」
「はい」
口寄せをしている最中、女が語った死者の言葉に、決定的な間違いがあったのだという。
依頼した者は、それを聞いて巫女を問い詰めた。
最初こそ誤魔化そうとしたものの、やがて偽りであることを見抜かれた。
「大層お怒りになられて……私は逃げようといたしました。でも……」
そこから先は言葉にならなかった。
篁にも、それで十分だった。
「その者に殺されたのだな」
巫女は静かに頷いた。
これで殺された理由は分かった。
しかし――。
篁は懐から、地上で拾った紙を取り出した。
呪詛の言葉。
そして、『南』の一文字。
「では、これは何だ?」
巫女は紙を見つめる。
やがて困惑したように首を横に振った。
「分かりません……」
「見たこともないのか?」
「はい。私は、そのようなものは知りません」
篁は紙へ視線を落とした。
巫女が殺された理由は分かった。
犯人にも。
一見すれば事件は解決したように思える。
だが、それでは説明できないものが残っている。
前の巫女の亡骸にも残されていた呪詛。
そして――方角を示す文字。
最初は『北』。
今度は『南』。
「……妙だな」
篁は呟いた。
二人の巫女が殺された理由は、同じではないのかもしれない。
それなのに、なぜ同じような呪詛が残されている?
篁は紙を懐へ戻した。
どうやら地上で起きていることは、単なる巫女殺しでは済みそうになかった。




