冥府の役人 小野篁(二)
篁が地上に戻ってから直ぐに一人の女の亡骸が見つかったとの知らせが、検非違使庁へ届けられた。
場所は都の外れ。
篁は、なに食わぬ顔で検非違使尉になりすまし、数人の下役を伴い現場へ向かった。
すでに周囲には人だかりができていた。
野次馬を下役たちが追い払い、その間を篁は無言で進んでいく。
やがて、一人の女の亡骸が目に入った。
白い小袖。
乱れた長い髪。
そして、身体に残された無数の傷。
間違いない。
昨夜、冥府の裁きの間で見た女だった。
「……あの者か」
篁は呟くと、その傍らに膝をついた。
冥府では死者として対面した。
今は検非違使尉として、その亡骸を調べている。
妙なものだと篁は思った。
だが、感慨に浸っている暇はない。
女の身体には、いくつもの傷が残されている。
抵抗したのだろう。
腕や手にも傷があった。
衣服の乱れ。
傷の深さ。
血の跡。
篁は一つ一つ確かめていく。
「身元は分かっているのか」
「はい。この近くで暮らしていた巫女にございます」
下役が答えた。
「名は?」
下役が巫女の名を告げる。
冥府で見た帳面に記されていた名と同じだった。
やはり間違いない。
この女は――本来ならば、今日も生きていたはずなのだ。
「小野殿」
別の下役が声を掛ける。
「何だ」
「物盗りでしょうか」
「……いや」
篁は亡骸を見つめた。
「それにしては妙だ」
これほど執拗に傷を負わせる必要がない。
金品が目的ならば、殺した後まで何度も刃を振るう理由はないだろう。
怨恨か。
篁がそう考えながら、女の胸元へ目を向けた時だった。
僅かに、白いものが見えた。
篁は手を伸ばす。
着物の胸元に、何かが挟まっている。
慎重に引き抜いてみると、それは細長く折り畳まれた一枚の紙だった。
「これは……」
篁は紙を開いた。
そこには墨で、いくつもの文字が書き連ねられていた。
篁の目が細くなる。
人を呪い、災いを願う言葉。
どう見ても、祝い事や祈願に使うものではない。
「呪詛か……」
下役が篁の手元を覗き込む。
「この巫女が誰かを呪っていたのでしょうか」
「分からぬ」
篁は紙を裏返した。
その時、一つの文字が目に入った。
他の文字から離れ、まるで何かを示すように記されている。
――北。
「北……?」
篁は呟いた。
「北が、どうかされたのですか?」
「いや」
篁は紙を見つめる。
方角を示しているのか。
それとも別の意味があるのか。
何故、このようなものが殺された巫女の懐に入っていたのか。
そして、この呪詛は誰が書いたものなのか。
篁は紙を丁寧に折り畳んだ。
「この紙は預かる」
「はっ」
篁は立ち上がると、改めて女の亡骸を見下ろした。
本来、死ぬはずではなかった女。
その胸元に残された、呪詛の言葉。
そして――。
『北』の一文字。
偶然とは思えなかった。
「まず、この巫女について調べるぞ」
篁は下役たちへ命じた。
「どのような暮らしをしていたのか。誰と会い、誰から恨みを買っていたのか。どんな些細なことでも構わぬ。すべて洗い出せ」
「はっ」
下役たちが動き出す。
篁はもう一度、懐に収めた紙へ手を当てた。
――北。
その一文字が何を意味するのか。
この時の篁には、まだ知る由もなかった。
◇
あれから数日が過ぎた。
殺された巫女について検非違使たちが調べを進めていたが、これといった手掛かりは見つからなかった。
巫女が誰かと争っていたという話もなければ、恨みを買っていたという話もない。
遺体の傍らに残されていた呪詛の書かれた紙についても、それが何を意味するのか分からぬままだった。
篁も検非違使尉として調べを続けていたが、何の進展もないまま時だけが過ぎていった。
そんなある日のことだった。
「小野殿!」
一人の検非違使が、慌ただしく篁のもとへ駆け込んできた。
「どうした?」
「また、女の亡骸が見つかりました」
その言葉を聞いた瞬間、篁の表情が変わった。
「女?」
「はい。それも……巫女です」
篁はすぐに立ち上がった。
◇
巫女の亡骸が見つかったのは、またも都の人通りの少ない場所だった。
すでに何人かの検非違使が周囲を調べている。
篁は人垣を抜け、地面に横たわる女の傍らに膝をついた。
若い巫女だった。
その姿を見た篁の脳裏に、数日前に見た巫女の亡骸が蘇る。
「……またか」
篁は巫女の亡骸を静かに調べていく。
すると、その傍らに一枚の紙が落ちていることに気がついた。
拾い上げて開く。
そこには、見覚えのある呪詛の言葉が書き連ねられていた。
「これは……」
数日前に殺された巫女の傍らに残されていたものと、よく似ている。
さらに紙の裏には、一文字だけ大きく書かれていた。
『南』
「南……」
篁は低く呟いた。
最初の巫女。
そして、今度の巫女。
どちらも神に仕える者。
どちらの亡骸にも呪詛の書かれた紙が残されている。
そして今度は、『南』という方角を示す文字。
「二人の死には、何か繋がりがある……」
篁は立ち上がり、辺りを見渡した。
しかし、当然ながら犯人らしき者の姿などない。
目撃した者もいなかった。
このまま生きている者だけを相手に調べを続けても、手掛かりを得るまでには時間がかかるだろう。
篁は再び、足元に横たわる巫女へ視線を落とした。
死者は何も語らない。
――普通ならば。
篁の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「これは本人に聞くのが、一番早いか」
傍らにいた検非違使が、怪訝そうな顔をする。
「小野殿? 何か仰いましたか?」
「いや。何でもない」
篁は何事もなかったかのように答え、呪詛の紙を懐へ収めた。
この女が殺された時、何を見たのか。
誰かの顔を見てはいないか。
何か声を聞いてはいないか。
生きている者に尋ねても分からぬのなら、死者に直接尋ねればよい。
篁にとって、それは決して不可能なことではなかった。
「今宵は、久しぶりに冥府へ戻るとするか」
日が沈み、都が闇に包まれる頃。
小野篁は再び、生者の世界から死者の世界へと足を踏み入れた。




