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野狂  作者: アイ氏


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1/5

冥府の役人 小野篁(一)

『小野篁(おののたかむら)』


彼は平安初期に活躍した公卿である。


若い頃は武芸に夢中になり、それを知った嵯峨天皇は、篁の将来を惜しんで学問に励むよう諭したという。


その後、篁は心を入れ替れて学問に励み、優れた文人として名を馳せ、朝廷に仕える官人として頭角を現していった。


しかし、篁という人物を語る上で欠かせないのは、その才覚だけではない。


彼には、数多くの奇妙な逸話が残されている。


昼は朝廷に仕える公卿でありながら、夜になると井戸を通って冥府へ赴き、閻魔大王のもとで裁判を手伝っていたという話。


そして、死者となった人間を冥府から救ったという話まである。


どこまでが事実で、どこからが後世に作られた伝説なのか。


今となっては、それを確かめる術はない。


生前、冥府の役人だったという逸話は、彼の特異性をよく表している。


だが――。


篁が死後も冥府の役人を務めていることを、現世に生きる者は誰も知らない。


◇


――冥府――


一人の男が、山のように積まれた書類を前に仕事をしていた。


男の名は、小野篁。


かつて朝廷に仕え、参議にまで昇った男である。


篁は一枚の書状に目を通すと、筆を走らせる。


そして、それを脇へ置くと、すぐさま次の書状を手に取った。


その時だった。


「篁様。閻魔大王様がお呼びです」


部屋に入ってきた一人の子鬼が、篁に頭を下げる。


それを聞いた篁は、渋い顔をした。


ここ暫く、目が回るほど忙しい。


人の生死とは、神が定めた理だ。


いつ、どこで生まれ、どれほどの時を生き、そして死ぬのか。


そして、その運命(さだめ)に従って命を終えた者は冥府へ下り、生前の行いによって裁きを受ける。


本来ならば、それだけのことだ。


だが、ごく稀にその運命から外れる者がいる。


そして今、冥府はまさに、その稀なる異常事態の多発に見舞われていた。


「……今度は何だ」


篁は小さく息を吐いた。


「詳しいことは、私には……。ただ、裁きの間へ来るようにと」


「裁きの間?」


篁の眉が僅かに動く。


閻魔大王が直接の呼び出しただけなら、まだ分かる。


しかし、場所が裁きの間となれば話は違う。


また何かあったのだろう。


篁は筆を置くと立ち上がった。


「分かった。すぐに参る」


◇


重い扉が開く。


その先には、広大な裁きの間が広がっていた。


正面の一段高い場所には、巨大な机を前に閻魔大王が座っている。


そして、その前に一人の女がいた。


白い装束を纏った、まだ若い女だった。


「巫女か……」


篁が呟く。


だが、その姿を見て、すぐに異様なものを感じた。


白い装束は所々が赤黒く染まり、長い髪は乱れている。


身体には刃物で斬られたような傷がいくつも残されていた。


事故でも病でもない。


明らかに、何者かによって殺された姿だった。


女は黙って俯いたまま、その場に座っている。


篁は閻魔大王へ視線を向けた。


「大王。この者は?」


閻魔大王は答えず、机の上に置かれていた一冊の帳面を篁へ差し出した。


篁はそれを受け取り、頁を開く。


そして――。


「……おかしい」


思わず、そう口にした。


そこに記された女の寿命と、実際に命を落とした日が一致していない。


それどころか。


「この者は、まだ死ぬ運命ではないではありませんか」


「そうだ」


閻魔大王の低い声が、裁きの間に響く。


「この女がここへ来るのは、まだ先のことであった」


篁は再び帳面へ目を落とした。


間違いではない。


目の前にいる巫女は、本来ならば今も地上で生きてい

るはずの人間だった。


篁の表情が険しくなる。


「また……ですか」


閻魔大王はゆっくりと頷いた。


それだけで十分だった。


近頃、冥府を騒がせている異常。


定められた寿命を迎える前に、命を落とす者たち。


一人や二人ならば、何らかの手違いも疑えた。


だが、もはや偶然として片付けられる数ではない。


「篁よ」


「はっ」


「地上へ赴け」


篁は顔を上げた。


「この女の死を調べよ。何者が、何のためにこの女を殺したのか。そして何故、定められた生死の理が乱れているのか」


篁は帳面を閉じた。


冥府の帳面に狂いはない。


ならば、狂っているのは――。


地上の方だ。


「承知いたしました」


篁は深く頭を下げる。


こうして小野篁は、再び生者の世界へと足を踏み入れることになった。


◇


篁が冥府を出たのは、それから間もなくのことだった。


暗闇を抜けた先で、篁は思わず目を細めた。


空から降り注ぐ日の光。


吹き抜ける風。


木々の葉が揺れ、その隙間から柔らかな光が地面へ落ちている。


篁はしばらく黙ったまま、その光景を眺めていた。


「……久しぶりの地上か」


手をかざし、空を見上げる。


「ずっと常闇の冥府にいたからな。光が眩しいことだ」


篁が死してから、すでに百年近い歳月が流れている。


冥府にいれば、地上の時の流れなどほとんど意識することはない。


死者には朝も夜もない。


春の暖かさも、夏の日差しも、秋の風も、冬の寒さもない。


それらはすべて、生きている者だけに与えられたものだった。


篁は懐かしむように風を受けながら、平安京へと足を向けた。


やがて見えてきた都を前にして、篁は僅かに目を細める。


大路には牛車が行き交い、道端では商いをする者の声が響いている。


貴族の屋敷が並ぶ一方、その合間を庶民や僧侶が忙しなく行き交っていた。


百年前にも見た光景だった。


「今も昔も、平安京の街並みはさほど変わらぬものだな」


人は入れ替わった。


帝も代わり、かつて篁が見知った者たちは、

すでにこの世にはいない。


それでも都はここにある。


まるで、自分が生きていた頃から時が止まっているかのようだった。


もっとも――。


篁自身は、かつての『参議小野篁』として地上へ戻ってきたわけではない。


懐から一枚の書状を取り出す。


そこには、冥府が用意した今の身分が記されていた。


「検非違使尉(けびいしのじょう)か……」


篁は何とも言えぬ顔で、その文字を眺めた。


冥府が用意したのは、少し前に亡くなった一人の男の身分と屋敷だった。


その男の素性を借り、篁は検非違使(けびいし)として今回の一件を調べることになっている。


それだけなら、特に思うところはなかった。


奇妙なのは、その男の出自だった。


「よりにもよって、小野氏とはな」


篁の口元に微かな笑みが浮かぶ。


自分が生きた時代から百年。


その間に枝分かれした一族の末裔なのか。


それとも、遠く血の繋がった者なのか。


「最近亡くなった男の素性を使ったとはいえ、同族の身となって再び都へ戻るとは……実に奇妙な縁だ」


書状を懐へ戻す。


小野篁はとうの昔に死んだ。


今の自分は、冥府より遣わされた役人に過ぎない。


それでも再び小野の名を持ち、かつて自分が生きた都を歩いている。


「さて――」


篁は表情を改めた。


懐かしさに浸るために、ここへ来たわけではない。


本来ならば、まだ冥府へ来るはずではなかった巫女。


何者かが、生死の理から外れて彼女の命を奪った。


その理由を突き止めることこそ、篁が地上へ戻された目的だった。


その時、前方から一人の役人が慌ただしく駆けてくる。


「小野殿!ここに居られましたか!?」


篁が振り返った。


「女の亡骸が見つかったとの知らせが!」


「場所は?」


「都の外れにございます」


篁の目から、先ほどまでの懐かしげな色が消えた。

 

「分かった。案内せよ」


「はっ」


百年ぶりの平安京。


その懐かしい都で篁が最初に向かうことになった場所は――。


皮肉にも、死者のもとであった。

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