冥府の役人 小野篁(一)
『小野篁』
彼は平安初期に活躍した公卿である。
若い頃は武芸に夢中になり、それを知った嵯峨天皇は、篁の将来を惜しんで学問に励むよう諭したという。
その後、篁は心を入れ替れて学問に励み、優れた文人として名を馳せ、朝廷に仕える官人として頭角を現していった。
しかし、篁という人物を語る上で欠かせないのは、その才覚だけではない。
彼には、数多くの奇妙な逸話が残されている。
昼は朝廷に仕える公卿でありながら、夜になると井戸を通って冥府へ赴き、閻魔大王のもとで裁判を手伝っていたという話。
そして、死者となった人間を冥府から救ったという話まである。
どこまでが事実で、どこからが後世に作られた伝説なのか。
今となっては、それを確かめる術はない。
生前、冥府の役人だったという逸話は、彼の特異性をよく表している。
だが――。
篁が死後も冥府の役人を務めていることを、現世に生きる者は誰も知らない。
◇
――冥府――
一人の男が、山のように積まれた書類を前に仕事をしていた。
男の名は、小野篁。
かつて朝廷に仕え、参議にまで昇った男である。
篁は一枚の書状に目を通すと、筆を走らせる。
そして、それを脇へ置くと、すぐさま次の書状を手に取った。
その時だった。
「篁様。閻魔大王様がお呼びです」
部屋に入ってきた一人の子鬼が、篁に頭を下げる。
それを聞いた篁は、渋い顔をした。
ここ暫く、目が回るほど忙しい。
人の生死とは、神が定めた理だ。
いつ、どこで生まれ、どれほどの時を生き、そして死ぬのか。
そして、その運命に従って命を終えた者は冥府へ下り、生前の行いによって裁きを受ける。
本来ならば、それだけのことだ。
だが、ごく稀にその運命から外れる者がいる。
そして今、冥府はまさに、その稀なる異常事態の多発に見舞われていた。
「……今度は何だ」
篁は小さく息を吐いた。
「詳しいことは、私には……。ただ、裁きの間へ来るようにと」
「裁きの間?」
篁の眉が僅かに動く。
閻魔大王が直接の呼び出しただけなら、まだ分かる。
しかし、場所が裁きの間となれば話は違う。
また何かあったのだろう。
篁は筆を置くと立ち上がった。
「分かった。すぐに参る」
◇
重い扉が開く。
その先には、広大な裁きの間が広がっていた。
正面の一段高い場所には、巨大な机を前に閻魔大王が座っている。
そして、その前に一人の女がいた。
白い装束を纏った、まだ若い女だった。
「巫女か……」
篁が呟く。
だが、その姿を見て、すぐに異様なものを感じた。
白い装束は所々が赤黒く染まり、長い髪は乱れている。
身体には刃物で斬られたような傷がいくつも残されていた。
事故でも病でもない。
明らかに、何者かによって殺された姿だった。
女は黙って俯いたまま、その場に座っている。
篁は閻魔大王へ視線を向けた。
「大王。この者は?」
閻魔大王は答えず、机の上に置かれていた一冊の帳面を篁へ差し出した。
篁はそれを受け取り、頁を開く。
そして――。
「……おかしい」
思わず、そう口にした。
そこに記された女の寿命と、実際に命を落とした日が一致していない。
それどころか。
「この者は、まだ死ぬ運命ではないではありませんか」
「そうだ」
閻魔大王の低い声が、裁きの間に響く。
「この女がここへ来るのは、まだ先のことであった」
篁は再び帳面へ目を落とした。
間違いではない。
目の前にいる巫女は、本来ならば今も地上で生きてい
るはずの人間だった。
篁の表情が険しくなる。
「また……ですか」
閻魔大王はゆっくりと頷いた。
それだけで十分だった。
近頃、冥府を騒がせている異常。
定められた寿命を迎える前に、命を落とす者たち。
一人や二人ならば、何らかの手違いも疑えた。
だが、もはや偶然として片付けられる数ではない。
「篁よ」
「はっ」
「地上へ赴け」
篁は顔を上げた。
「この女の死を調べよ。何者が、何のためにこの女を殺したのか。そして何故、定められた生死の理が乱れているのか」
篁は帳面を閉じた。
冥府の帳面に狂いはない。
ならば、狂っているのは――。
地上の方だ。
「承知いたしました」
篁は深く頭を下げる。
こうして小野篁は、再び生者の世界へと足を踏み入れることになった。
◇
篁が冥府を出たのは、それから間もなくのことだった。
暗闇を抜けた先で、篁は思わず目を細めた。
空から降り注ぐ日の光。
吹き抜ける風。
木々の葉が揺れ、その隙間から柔らかな光が地面へ落ちている。
篁はしばらく黙ったまま、その光景を眺めていた。
「……久しぶりの地上か」
手をかざし、空を見上げる。
「ずっと常闇の冥府にいたからな。光が眩しいことだ」
篁が死してから、すでに百年近い歳月が流れている。
冥府にいれば、地上の時の流れなどほとんど意識することはない。
死者には朝も夜もない。
春の暖かさも、夏の日差しも、秋の風も、冬の寒さもない。
それらはすべて、生きている者だけに与えられたものだった。
篁は懐かしむように風を受けながら、平安京へと足を向けた。
やがて見えてきた都を前にして、篁は僅かに目を細める。
大路には牛車が行き交い、道端では商いをする者の声が響いている。
貴族の屋敷が並ぶ一方、その合間を庶民や僧侶が忙しなく行き交っていた。
百年前にも見た光景だった。
「今も昔も、平安京の街並みはさほど変わらぬものだな」
人は入れ替わった。
帝も代わり、かつて篁が見知った者たちは、
すでにこの世にはいない。
それでも都はここにある。
まるで、自分が生きていた頃から時が止まっているかのようだった。
もっとも――。
篁自身は、かつての『参議小野篁』として地上へ戻ってきたわけではない。
懐から一枚の書状を取り出す。
そこには、冥府が用意した今の身分が記されていた。
「検非違使尉か……」
篁は何とも言えぬ顔で、その文字を眺めた。
冥府が用意したのは、少し前に亡くなった一人の男の身分と屋敷だった。
その男の素性を借り、篁は検非違使として今回の一件を調べることになっている。
それだけなら、特に思うところはなかった。
奇妙なのは、その男の出自だった。
「よりにもよって、小野氏とはな」
篁の口元に微かな笑みが浮かぶ。
自分が生きた時代から百年。
その間に枝分かれした一族の末裔なのか。
それとも、遠く血の繋がった者なのか。
「最近亡くなった男の素性を使ったとはいえ、同族の身となって再び都へ戻るとは……実に奇妙な縁だ」
書状を懐へ戻す。
小野篁はとうの昔に死んだ。
今の自分は、冥府より遣わされた役人に過ぎない。
それでも再び小野の名を持ち、かつて自分が生きた都を歩いている。
「さて――」
篁は表情を改めた。
懐かしさに浸るために、ここへ来たわけではない。
本来ならば、まだ冥府へ来るはずではなかった巫女。
何者かが、生死の理から外れて彼女の命を奪った。
その理由を突き止めることこそ、篁が地上へ戻された目的だった。
その時、前方から一人の役人が慌ただしく駆けてくる。
「小野殿!ここに居られましたか!?」
篁が振り返った。
「女の亡骸が見つかったとの知らせが!」
「場所は?」
「都の外れにございます」
篁の目から、先ほどまでの懐かしげな色が消えた。
「分かった。案内せよ」
「はっ」
百年ぶりの平安京。
その懐かしい都で篁が最初に向かうことになった場所は――。
皮肉にも、死者のもとであった。




