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我に返ると、自分の部屋にいた。断片的に、咲菜と話した記憶はあるけれども、彼女の脳裏を占めるのは七尾の陰険な眼差しばかりだった。
何か怒らせたことをしたのか。した! 七尾の邪魔をしていた。咲菜と笹森の恋を応援するあまり、七尾の恋路を邪魔をしていたのだ。
星子は七尾とのテキストメッセージの履歴を眺めた。
謝ろう。しかし何を謝るのか。彼は本当に怒っているのか。だが未だに鮮明な険しい目付きは怒り以外に何があるというのか。見間違いか。彼は元々、目付きが鋭いではないか。だが咲菜には手を振っていた。
想いを寄せている相手なのだ。当然だ。彼の満面の笑みを思い出せ……
七尾が綴ったテキストを読み返す。端末の液晶が見せた光の加減に過ぎない。
彼は本当に怒っているのだろうか。
高校入学当時、星子は新しい生活、新しい環境、新しいクラスに馴染めなかった。七尾が、戯けながらも気を回してくれていた。玉子焼きを食いたがり、星子は菓子パンを一欠片もらう。
七尾を契機に他の女子と話すようになった。彼なりの気遣いだったのかもしれない。
七尾と笹森の姿が交互に点滅する。
咲菜は笹森が好きだと言っている。
七尾は咲菜の気持ちを知っているのだろうか。知っていて、焦り、妨害に憤激しているのか。
星子は今日のことを振り返る。何が七尾を怒らせたのか。朝起きたときから、時系列をなぞる。そして思い当たる。弁当だ。玉子焼きを作らず、夏野菜の焼き浸しを作った。玉子焼きを食べに来ることを半ば知っていながら焼き浸しを作っていた。七尾は野菜が泣くほど嫌いなのだ。彼からすれば嫌がらせに見えるだろう。敢えて食べられないものを作ったと、意地悪をされたと思ったに違いない。
[七尾くん、学校お疲れ様。今日はごめんね]
返信を待つ時間は、水も喉を通らなかった。
雨が降りはじめたことにも気付かず、慌てて洗濯物を取り込んでいるうちに返信があった。
[急に何?]
星子の胸に稲妻が走る。一呼吸分、脈が飛んだ。
指が惑う。
[怒ってるのかと思ったから。何ともないのならこっちの勘違い!気にしないで!]
"ちょいワルぺんぎん"の絵文字が送られてこない。彼が気に入っているキャラだ。今日はない。怒っている。
速まる鼓動が秒針を狂わせる。手の中の振動を待っていながら、恐れてもいた。
手の慄えか、電子信号の震えか、ただの錯覚なのか分からない。
[頭ごなしに謝ってきたワケ?]
「ご、ごめ……なさ………」
掌の機械板に詫びていた。指が動かない。発光していた画面が黒ずみ、やがて消える。
七尾は怒っている。だがどう謝れば赦しを得られるのかが分からない。
[七尾くんが野菜苦手なのは知ってたんだけど、他に作れるものなくて、七尾くんのこと考えてなくてごめんなさい。明日はちゃんと玉子焼き作ります]
そしてまだ卵を買ってきていないことに気付く。
外は雨が降っている。雨足が強まり、軒先でざわめいている。
卵を買いに行けば、明日玉子焼きを作れば、七尾は赦すかも知れない。
星子は飛び出した。
[は?お前何言ってんの?]
咲菜と顔を合わせたとき、彼女はコーヒーゼリーのような瞳を見開いた。驚く顔もまた万華鏡のように色がある。
「星子ちゃん、どうしたの? 何かあったの?」
陶器じみた指が星子の目元に触れた。
「ああ……うん、ちょっと怖い夢みちゃったの。子供みたいで恥ずかしいね」
低い体温が気触れた皮膚に心地良い。
「うわ、白川さん、どうしたの?」
雨天でも嫌味なく染み渡る艶を帯びた声がかかる。咲菜は伸び切り、星子に隠れてしまった。
「あ、おはよう、笹森くん」
笹森が脇を通りかかったところだった。アーモンド色の目は星子の顔を覗き込む。
「おはよう、白川さん、琴峯さん」
「お、お、お、おは、おは…………おは、ょ……」
星子は親友と笹森に微苦笑を向ける。
「白川さん、泣いちゃったの?」
「そんなんじゃないけれど……」
「えー、可哀想。悩みごと?」
「違うよ」
話すべき相手は咲菜だ。嫋やかなことこの上ない華奢な美少女を笹森のほうへ押し出そうとするが、咲菜は星子の胸に顔を埋め、頻りに首を振っている。
「七尾~」
笹森は振り返る。星子は肝を潰した。登校したばかりの七尾が顔中に皺を寄せてそこにいる。
「白川さんが泣いてるよ」
「あ、泣いて、ない……よ……」
星子は口にしながら七尾を目で追ってしまう。彼は追い払うような仕草をして通り過ぎていく。
気触れた皮膚がひりついた。。干しブドウになったような目からはまだ水気が滲む。
「七尾、どうしたんだろ」
笹森が呟く。
「あ、あ、あ、き、昨日から、ちょっと……ちょっと星子ちゃんに、ひ、ひど、ひど、酷いの………七尾くん………」
丸いコーヒーゼリーを右へ左へ転がし、咲菜は小振りな唇を縺れさせる。
星子は手の中に収まりそうな肩を摩する
「へー。女子には優しいのにね、七尾。良くないよな、そういうの」
笹森は七尾と仲が良い。しかし人当たりの好い笹森は、七尾に当惑している女子の前ではそう言うしかないのだろう。
「ごめんね、笹森くん。こんな話。聞いてくれてありがとうね」
「そんな。話したほうが楽になるってこともあるしさ。でもそれは琴峯さんの仕事か」
「あ、あ、えっと………」
「笹森くんにも聞いてもらえて嬉しかったよ。もちろん、咲菜ちゃんにも。咲菜ちゃん、笹森くん、ありがとう」
「またなんかあったら相談してよ」
爽やかな匂いを残して笹森は去っていく。そして他の女子と話しはじめた。
予報では夜まで雨が振り続けるそうだ。屋上に続く階段が、雨の日の昼食場所だった。
「今日はね、玉子焼き失敗しちゃったの」
星子は交換用のフードコンテナを開いた。小さな玉子焼きが1切れと、冷凍食品がいくつか入っていた。そして彼女の弁当箱には、歪み、破れ、焦げめのついた玉子焼きが敷き詰められている。一見するとどちらが弁当箱で、どちらが交換用のフードコンテナか判じられない。
「珍しいね、星子ちゃん。星子ちゃんもお料理失敗するのね」
「するよ、全然する。いつもは失敗したのは朝ごはんにするんだけれど、今日はなんだか朝、食べられなくて」
星子は失敗した玉子焼きを齧った。卵殻が噛み潰される感触があった。味は濃い。舌触りは粗い。考えごとばかりで集中していなかった。
「……大丈夫? 七尾くん、変よ。酷いわ」
咲菜が眉を落とした。七尾が軽蔑されてしまう。七尾の評判を落としている。七尾は咲菜が好きだというのに、裏で印象を悪くしている。
「最近蒸し蒸しするし、イライラしてるんだと思う。わたしは腐れ縁みたいなものだからさ、八つ当たりしやすいんだと思うな。それに男子にはもっと酷いこと言ってるみたいだし」
咲菜はアセロラゼリーのような唇を引き結ぶ。
「でもありがとう、咲菜ちゃん」
緊張しがちで恥ずかしがり屋の咲菜が笹森と話すのはそうとうな勇気を要したことだろう。
『あー、雨か。イライラするな』
七尾の声が廊下に響く。
『んー、トランプする?』
笹森と共にいるようだ。
『トランプなんか余計イライラするだろ』
『カルシウムが足りてないな~』
2人が屋上に通じる階段の前を通る。七尾が星子を一瞥し、すぐさま外方を向いた。
「今日は玉子焼きもらわないの」
笹森が七尾の袖を引っ張った。
「うるせーな。行くぞ」
「じゃあぼくが欲しい。琴峯さん、白川さん、なんかちょうだいっ!」
笹森は星子たちの前へやって来るとスラックスのポケットに手を突っ込む。
「飴あげる。溶けちゃったかも」
飴2つを差し出す。
「あ、わたし、今日玉子焼き失敗しちゃってね……」
笹森は星子の弁当箱を見遣る。
「失敗したやつ、食べてみたい」
色素の薄い目は真っ直ぐに星子の弁当箱に詰まった玉子焼きを差している。
「行くぞ、五百鈴」
七尾もまた階段までやって来ると笹森の肩を掴んだ。
「だって逆にレアでしょ?」
笹森は七尾を無視し、両膝に手をついて屈む。
「ん」
「え?」
「ん、あーんして」
星子は思わず咲菜を見た。彼女は顔を真っ赤に染め、俯き、前髪を撫で続けている。
「え! いや、その、……咲菜ちゃんのハンバーグ美味しいよ、ほら……!」
フードコンテナを見せる。
「琴峯さんのも後からもらう」
咲菜は顔を両手で覆った。
「五百鈴。琴峯さんが困ってる!」
七尾が叫んだ。廊下に反響する。
「困ってないよね?」
笹森の視線と視線が搗ち合い、星子は負けた。いつの間にか頷いている。だが実際、咲菜は困ってはいないはずだ。咲菜は想いを寄せる人を前に恥ずかしがっているだけだ。
「ほ、本当に、失敗作だから、美味しくないよ……?」
「大丈夫、大丈夫」
星子の手はまだ躊躇っていたが、箸とセットのフォークを取り出した。咲菜はどう思うだろう。咲菜に悪い。だがどうやって咲菜と代わればいいのか。
「貸せ」
七尾が割り込んだ。彼女からフォークを捥ぎ取ると弁当箱から玉子焼きを差し、笹森の口に入れた。
「フツーに美味しいけどね。いつもの知らないからさ」
笹森は口元に手を添え、咀嚼する。節榑だった長い指を、星子は所在なく見ていた。
「行くぞ」
「琴峯さんのまだもらってない」
咲菜はバターが作れるほど首を横に振る。
「いいから行くぞ」
「えー、琴峯さんのハンバーグ、七尾だって食べたいだろ~」
「だからって琴峯さん困らせんなよ」
「なんだよ、琴峯さん、琴峯さんって。面食いめ」
七尾は星子を見た。星子も咄嗟に七尾を見てしまった。目が合う。弾かれる。逸らす。
「いいだろ、別に。男なんて全員、面食いだ」
咲菜は桃色の顔を扇いでいる。
外貌だけではない。この親友は性格も仕草も可愛いのだ。七尾が惚れてもおかしくはない。星子もまた自身が男ならば、咲菜へ憧れていたのだろう。
「ごめんね、琴峯さん。また今度食べさせてっ!」
笹森は七尾に連れて行かれた。
星子は深く息を吐き出した。食欲まで連れて行かれてしまったようだ。
「咲菜ちゃん、これ、笹森くんの飴」
星子は2つとも咲菜に渡す。
「星子ちゃんは……?」
「わたしはいいの。咲菜ちゃんが持ってたほうがいいと思うから」
星型の飴が入っているという。外側がグレープ味の紫色で、舐めているうちに色が変わることを謳い文句にしているようだ。
「で、でも……」
「笹森くんからだよ? 咲菜ちゃんが持ってて」
咲菜に笑いかけると、彼女は飴2つを胸に抱き、頷いた。
「ありがとう、星子ちゃん」
だが飴の包装に描かれた星の絵を見たとき、ひとつの不安が星子の胸に押し寄せる。"たなばた祭り"だ。自身と七尾と2人だけの問題ではない。咲菜と笹森に気を遣わせることになるのだろう。そして、七尾文貴というやつは間が悪い。運が悪い。何故、己の恋敵まで誘ってしまったのか。
七尾と笹森の姿が交互に点滅する。咲菜は笹森を好いている。そして笹森もおそらくは咲菜を好いているはずだ。好かないはずはない。たとえ今好いていなくても、意識さえすればすぐさま好きになる。七尾は分が悪い。
2つの問題が、星子の心臓を左右から押し潰す。
「星子ちゃん。たなばた祭り、浴衣着ていくの?」
咲菜も星の絵を見たためか、"たなばた祭り"を思い出したようだ。
「わたしは……どうしようかな。咲菜ちゃんは? きっと可愛いんだろうな。浴衣で着てよ」
笹森も喜ぶだろう。普段見ることのない美少女の浴衣だ。
「一人じゃ嫌よ。星子ちゃんも浴衣で着て。七尾くんたちはどうするんだろう……あたしたち2人だけ浴衣だと、浮いちゃう、かしら?」
「じゃあ、訊いておくよ。分かったらまた連絡するね」
しかし七尾に話しかけることはできそうにない。
星子は笹森を観察していた。笹森は男子とも女子ともよく話す。しかし最も仲が良いのが七尾のようだ。話しかける機会が掴めず、放課後を告げるチャイムが鳴る。七尾を囲む女子たちと話が終わったらしきところで話しかける。
「あ、あ、笹森くん……」
咲菜の気持ちが分かった。笹森に声をかけると、女子たちから一斉に視線を浴びた。中心にいた七尾は頬杖をつき、星子から顔を背けた。
「ちょっと話があって……いい、かな?」
笹森は明るい茶色の目を細めた。
「うん、いいよ。七尾も?」
笹森が七尾へ視線を送る。星子は身を竦ませた。思い切り首を振った。七尾が怖い。
「ん、笹森くんだけで大丈夫……」
「なんで」
濁混じりの声が星子の微苦笑を鑢よろしく削り取っていく。七尾は外方を向いたままだった。
「そんな、大した話じゃないから……」
女子たちの好奇の眼差しが毛穴のひとつひとつを刺すようだった。遠慮がない。黒目を大きく見せるコンタクトレンズ群に星子が映っている。
「廊下でいいかな」
1人の女子が、棘を帯びた声音で笹森に下校の約束を取り付ける。笹森は快諾した。咲菜にも度胸があれば、笹森は共に帰ってくれるのかもしれなかった。しかし咲菜のその孅さもまた魅力なのだった。
笹森と廊下に出る。窓の近くで彼は立ち止まる。雨天のためにこの季節の時間帯にしては夜のような雰囲気があった。
「それで話って? 一緒に帰りたいって話だった? 先約入っちゃったけど……」
「ううん。違うの。本当に大した話じゃなくて。"たなばた祭り"、何着ていくのかなって。咲菜ちゃんと浴衣着ていこうって話し合ったのだけれど、笹森くんたちの意見も聞いたほうがいいかなって思ったから……」
「ん~、迷うね。女の子2人が浴衣なら、ぼくたちも浴衣じゃないと失礼だよな~」
「そんなことない、よ! 好きな服装でいいと思う。女の子は浴衣持ってるけど、男の子は浴衣持ってないこともあるでしょう。ただ、一応、相談しておこうと思って」
「ま、七尾が浴衣持ってないなら兄貴のあるからそれ貸してもいいし。そうだよな、せっかくWデートなんだし……」
「デ、デート? デートじゃないよ……」
「でも可愛い子2人浴衣でぼくたちがダサい服装なのはね……」
艶福家は歯の浮くような台詞も平然として口にできるようだ。星子は面喰らう。
「七尾にも訊いてみるか。白川さんは七尾と喧嘩中なんだっけ?」
笹森の目に見詰められ、星子は俯いた。
「いや、あの、喧嘩っていうか、わたしが悪いだけで……」
友人が怒っているのだ。笹森も腹立たしいだろう。咲菜を怒らせている者がいれば、星子もまた腹を立てるかもしれない。
「そうなの? 七尾いじめちゃダメだよ。ああ見えてデリケートなんだから。知らないけど……」
「そうね。笹森くんにも心配をかけてごめんなさい」
笹森は辺りを見回した。そして手招きをして階段のホールへ誘う。
「何があったの?」
「野菜嫌いなのに野菜のおかず作っちゃったの。だからだと思う」
平生から微笑を湛えている口元が爆ぜる。
「そんな………、そんな子供みたいな理由で? 無いよ、無い無い。さすがにガキすぎ。白川さん面白いな……そんなだったら器小さッ。甘えすぎ。白川さんは甘やかしすぎ」
けれども星子はそうは思わなかった。他に思い当たる理由がない。咲菜と笹森の仲を応援していることは、七尾が知る由はないのだ。
「考えすぎだよ、白川さん。大丈夫。思い詰めちゃダメ」
「そうだと良いんだけれど……」
五百鈴早くー、と女子が叫んだ。下校を約束していた女子だ。
「じゃ、七尾にも相談してから連絡するから! バイバイ! 元気出して」
笹森は手を振った。花火のように綺羅びやかだ。
[浴衣で来い]
星子はテキストメッセージを何度も読み返した。送信者は間違いなく七尾だった。
クラス全体のチャットルームから笹森を探す。
[笹森くんのアカウントで合ってるかな?白川です。七尾くんに相談してくれてありがとう。今メッセージ来たところです]
咲菜にも浴衣に決定したことを連絡する。課題をこなしているうちに返信があった。
"お疲れ様"の文字の入った"青シャツあひる"のスタンプがまず貼り付けられている。
[七尾から返事あったんだ]
[七尾が白川さんのアカウント教えてくれなくてさ。勝手に送ったら悪いかと思ってたから良かった]
続けざまに2つのメッセージが送られてくる。
[たなばた祭り楽しみにしてます。また学校でね]
咲菜の想人だ。咲菜に隠れてメッセージのやり取りをすることに無頓着ではいられない。
[もう課題やった?]
送信直後、新たなメッセージが飛んでくる。そしてその下に画像が表示される。ノートを直接撮影したもので、英文が並んでいる。
[合ってる?]
疑問の入った"青シャツあひる"が投下される。
星子は画像の英文と、今まさに翻訳している文を比べた。
英語の教科担任が意地の悪い問題を出すと言っていた。
【I think that the student that the teacher that you said that you met yesterday praised said that the answer that he gave was correct.】を翻訳せよ。
同じ単語が星子を惑わす。例題とその回答に倣い、頻出する"that the"の前に斜線引く。一文ずつ大方訳してみたが、文章として組み立られない。
[これ難しいね]
汗の絵文字を添える。
端末が光る。がんばれ、の文字の下で"青シャツあひる"が逆立ちをしている。
[私は〜と思うで括るのは絶対だと思うんだよね。文頭だし]
そして笹森から手引きにならない返事が来た。
単語はすでに英語の教師が添え書きしている。
[主語考えろって]
[主語は、Iじゃないの?]
[ぼくもそれやった!私は思うはとりあえず横に置けって]
まるで誰かから聞いたかのような書き方だった。将又笹森はすでに答えを知っているのだろうか。そのうえで恍けているのか。
星子は言われたとおり、黒鉛で"I think"に横一本線を引いた。"あなた"と"教師"と"生徒"の3つが残る。"彼"はおそらくこの3人の誰かを指すのだろう。難問を出すと言っていた。解けそうにない。
[↑って七尾が言ってたよ~]
新たなメッセージがぶら下がる。星子は英文に戻る。
[あなたが昨日会ったと言ったあの先生は彼が出した答えは正しいと言ったと私は思う]
[↑になるんだけど、違うかな]
2つに分けて送信する。
すぐさまテキストメッセージが増える。
[生徒消えてない?って]
[↑七尾が言ってる]
星子は画面を凝らして固まった。
端末が震える。震え続ける。テキストメッセージではない。七尾文貴の名前が表示されている。一瞬、目の前が白ずんだ。見間違えか。しかし電子板は七尾文貴の文字を表していた。
着信音ボタンを押した。振動が怖くなった。
『"that"は後ろの奴がどんな奴だか説明してんの、授業聞いてりゃ分かるだろ!』
星子は首を竦めた。耳が正常に動く頃には通話は切れている。3秒足らずのことだった。
ピロン……
端末が鳴る。星子は身を震わせた。とても難しい英文と向き合う気にはなれない。だが短い母国語テキストとも向き合う気にもなれない。
光っている画面をおそるおそる見遣ると、笹森からだ。飛びついて中身を開く。
[怒られちゃったね]
[一緒にいたの?]
[浴衣貸すから来てもらった]
"青シャツあひる"のスタンプが押される。
[で、さっきの分かった?」
星子はもはや返信もできず、絵文字を送信した。
[お節介なのに分かりづらいよねー]
小型スタンプを押す。そして咲菜のアカウントを開いた。
[咲菜ちゃん、こんばんは。笹森くんたちは浴衣だって。可愛いくしてこうね!]
スタンプを探す。"小麦粉うさちゃん"を送る。
[星子ちゃん、こんばんは。連絡ありがとう。笹森くんの浴衣楽しみ]
[今日の課題、終わった?ちょっと難しくて……]
[書くと長いから、電話できる?]
星子は了承すると、電話が掛かってくる。
『that の後ろの単語があるでしょう? 一文目だとthe student。この生徒がどういう生徒なのかを説明しているのよ。だから一旦、この生徒のことは置いておいて、次の先生のところを訳してみて』
星子は課題に黒鉛を走らせる。
「昨日あなたが会ったと言った先生?」
『そう、そう。その先生に褒められた、で、一旦置いた生徒を戻すの。だから、』
英文は黒鉛で光りはじめる。
「なんとなく分かってきた。ありがとう、咲菜ちゃん。すごい!」
『うふふ。偉ぶってみたけど、家庭教師の先生に教えてもらったのよ』
英語の授業で、課題の正解者が読み上げられた。何人かいたようだ。七尾、笹森、咲菜も入っていた。
星子は赤ペンの入った答案を見下ろす。




