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『白川さんはいないの? 好きな人』
星子は咲菜にメッセージを打とうとしていたが、意識は宙に霧散していた。
『他に好きな子いるっぽいし』
小学校、中学校、そして高校と同じ時間を過ごしたはずの七尾文貴は、すでに恋を知っているらしい。黒く生まれた緋鮒の話を苦労して読んでいた時分から共にいたというのに、時の流れは平等ではないようだ。
七尾の手の熱さが、ふと星子の指先に甦る。
保健室で目の当たりにした、第二次性徴を遂げ、二度と上回ることのない身長と筋肉量も脳裏を駆けていく。
七尾は、すでに星子の知る七尾文貴ではないのだ。イモムシはアゲハチョウではない。もやしは大豆ではない。
まだ脳天が見えていた頃の七尾と今の七尾は地続きのはずなのだ。
画面を叩く指が止まっていた。
七尾もまた好きな相手を暴露すれば、星子は協力するつもりでいた。おそらく女子だろう。同性が相手ならば笹森を探るより容易い。しかしふと、今日の放課後に笹森と話していた輝かしい風体の女子を思い出していた。男子に話しかけるよりも或いは難しい。けれども七尾文貴のような男子は往々にしてあのような女子と仲が良い。
星子はゆっくりと息を吸った。
七尾文貴のことを考えても仕方がない。同じクラスの他のどの男子よりも近しいはずなのだ。けれども誰よりも差異を知っている。そしてその差異が埋めがたいことも、保健室でまざまざと知ったのだ。
星子は咲菜に向けてメッセージを打つ。
[咲菜ちゃん、体調大丈夫?]
返信は課題をやっているうちに届いた。
[星子ちゃん、ありがとう。今日は休んじゃってごめんね。もうほとんど頭痛いのも治ったよ]
[頭痛治ったのなら良かった。一応 今日のノートと課題の範囲送っておくけど、無理しないでね]
星子は課題を再開する。プリントに単語を書き連ねているうちにまたメッセージが来た。おそらく咲菜だろう。頭痛が治まったとはいえ、休んだ身体をメッセージの応酬に付き合わせるわけにはいかない。
星子はメッセージ画面を開いた。だが咲菜からではなかった。
[ちゃんと帰れた?]
七尾からだ。焼けた肌が閃いて消えた。七尾文貴は七尾文貴だ。間違いなかった。ところが星子の知る七尾文貴はもういないのだ。いつの間にか知らない男子になっている。変声期を疾うに終え、安定している濁混じりの声に、今や違和感を覚えない。気付けば上方にある三白眼も、今や当然のものだった。
[帰れたよ。今日はありがとうね。あの後笹森くんと話したんだけど、カノジョさんじゃなかったんだね。勘違いしちゃった。ごめんね]
星子は送信すると端末を置いて、課題に向かう。
ピロン…
端末が鳴った。しかし星子は手に取らず、小難しい数学の問を前に教科書を睨む。
ピロン…
応用問題の数字を変え、計算し直せば解けるようだ。
ピロンピロンピロン…… ピロンピロンピロン……
長鳴きのような着信音はテキストメッセージの通知ではない。星子は肩を跳ねさせ、筆記用具を放り投げてしまった。
縋りついた端末には七尾文貴の名前が表示されていた。
「何、何、何……」
『なんで返信寄越さないの』
不機嫌げな声が返ってくる。
「ああ、ごめんね。課題やってたの。数学の問題の問5ってさ――」
『なんで五百鈴と話したの』
「え、なんでって……帰り際に会ったから?」
『で?』
「で?」
『で?』
「"で?"って……?」
『一緒に帰ったのかって訊いてんだよ』
「ああ、うん、途中まで……わたしが体操着だったから、笹森くんに恥ずかしい思いさせちゃったかも。アハハ……でもね、」
道すがらバレー部の女子たちの集団と遭遇し、笹森五百鈴は彼女たちに吸収されていった。
『はぁ? 何、五百鈴はお前のこと放っぽって、そっち行っちまったのかよ』
訊きたいことは訊けたのだ。咲菜の背中を全力で押せることができる。
「うん。まぁ、仕方ないよ。わたし、体操着だったし、バレー部の子たち可愛かったもの。七尾くんだってそうするでしょ」
『バカじゃねーの』
「アハハ……」
『フツーはしないだろ』
「まぁ、笹森くんはモテるからね」
『俺だってモテますケド』
七尾文貴の勝気はまだ残っているようだ。サッカーにしろ、ドッヂボールにしろ、徒競走にしろ、彼は負けを認めなかった。
「はいはい。1年生の子に呼び出されたんだったね。笹森くんから聞いたよ。いいなぁ、青春。わたしも1回くらいはラブレターもらってさ、呼び出されて――」
『やめとけ、やめとけ。ラブレターで呼び出して告白するようなヤツはろくでもない。マトモなやつは面と向かってコクるもんだ』
――カノジョ要らないって言ってたけどなぁ。他に好きな子いるっぽいし――
「七尾くん、そういう子いるんだ?」
星子は筆記用具を握り、数式を解いていく。
『……いたら、どうすんの』
「4人で"たなばた祭り"行くの、その子は知らないよね……? もしその子が知ってたら、悪いじゃん? わたしとのことは説明つくけど、咲菜ちゃんも一緒だし……あ! でもそれだとわたしが笹森くんと交際関係あるみたいだから、やっぱなんでもない! 七尾くん、問5ってさぁ――」
『ンだよそれ……2 (a^2 - 1)^{3/2}な!』
星子は出た答えと比べる。
「あ、合ってる!」
だが喧しいはずの七尾の反応がない。端末を見ると、すでに通話は切れていた。
◇
咲菜の箸が、星子のフードコンテナに伸びた。焦げめのついたナスを摘み、小振りな唇に運ぶ。
「星子ちゃんのこれ、美味しい」
小さな口が弧を描く。長く反り返った睫毛がカラスアゲハの翅休めのようだった。次々に美味しいものを口に入れてみたくなる。だがこの親友は見かけどおり少食なのだった。
「よかった。卵切らしてるの忘れてて、慌てて作ったの。お弁当に入れるから、あんまりお出汁に浸けてないけれど……」
「あたしはこれくらいが好みだよ」
咲菜はもうひとつ、ピーマンを摘まんだ。
「うん、美味しい」
星子は、白百合のような頬の蠢きを眺めた。この姿さえ見れば、笹森も惚れてしまうに違いない。ところが世の中はそう上手くできていないのだ。笹森を前にすれば彼女は食がより細まる。
「星子ちゃん、今日は玉子焼きないんだね。あたしの、いっぱい食べて」
咲菜は交換用のフードコンテナを差し出した。
「ありがとう! やっぱりお弁当には玉子焼きがないと寂しいね。いただきます」
ふりかけのハート型チップを巻き込んだ玉子焼きを一欠片齧る。咲菜は美少女であるだけでなく、料理も上手い。
足音が聞こえ、咲菜が顔を上げた。
「あ、七尾くんだ」
彼女の呟きに、星子の動きが止まる。昔とは違う七尾文貴に、今になってどういう態度をとれば良いのか分からなくなっていた。昔の影を残しながら、確かに変容している。
姿を見ないうちに、目を合わせないうちに、どこかへ隠れられないものか。
「おーす」
濁を帯びた声が聞こえ、星子は昼飯のベンチから離れることができなくなった。
「………」
星子はしかし顔を上げられない。だが男子と話せない咲菜に騒々しい七尾の相手を任すわけにもいかなかった。
「七尾くん、こんにちは」
綿あめのような声が隣から発された。星子は咄嗟に咲菜を見遣る。
咲菜が七尾と話している。
「昨日、数学の問5の答え、教えてやったよな?」
星子はおそるおそる七尾を捉える。
「う、うん。ありがとうね。助かったよ」
眉間の皺によって三白眼がさらに厳めしく見える。
隣で咲菜が風に消えそうなほどの笑い声を堪えている。
「じゃ、誠意を見せろ、誠意を」
「え………っ? え………っ?」
「うふふ、七尾くん。今日は星子ちゃん、玉子焼き作ってないのよ。卵切らしちゃったんだって」
咲菜が手の甲を口元に添えて笑っている。粉雪も吹き飛ばすことのできない孅い声が、七尾の眉間を揉み解しているようだった。
「は~? なんだよそれ」
「今日は星子ちゃんの焼きお野菜。美味しいよ。あたしがもらった分、美味しいから食べてみる?」
ふと、星子の中に小学校時代の光景が捩じ込まれた。まるで刃物が頭に入るような鋭さを持ち、けれども頭に入った途端に消えていく。
給食用の長方形の仕切りがついたトレイに、野菜が乗っている。星子は隣の席から手を伸ばし、その野菜を食っていた。
「七尾くんは、野菜嫌いだから……」
しかし七尾は咲菜から渡されたピックをパプリカに刺していた。
「琴峯さんがくれると美味いな~?」
眉根の皺の消えた七尾が三白眼を星子にくれた。そして口角を釣り上げた。
美少女の咲菜からならば嫌いな野菜も不味さを忘れるのだ。
パプリカを刺していたピックに胸の奥を遊ばれている心地がした。
「玉子焼き、咲菜ちゃんのがあるよ……いいかな、咲菜ちゃん……」
咲菜を向くと、彼女は目を丸くした。そして頷いた。だが躊躇いがちだった。
「うん……星子ちゃんがいいなら……」
「ふーん。じゃあそれももらっておく」
七尾は咲菜から借りたピックで玉子焼きを刺した。
「やっぱ可愛い子の作る玉子焼きは美味いわ」
三白眼が星子を見下ろす。保健室で見た眼差しから目を逸らす。どこを見ても、目玉は七尾に吸い寄せられ、しかし逃げてしまう。ごまかしが利かず、周りを見渡した。
「今日は五百鈴いねーからな」
七尾は鼻を鳴らした。
咲菜の身体が跳ねる。彼女はただでさえ華奢な躯体をさらに縮め、俯いてしまった。七尾と平然と話していた咲菜はもういない。殻に籠もったカタツムリは、丸まったダンゴムシはしばらく出てこないものなのだ。
「別に笹森くん探してたわけじゃ、ないよ」
「ふーん、どうだか。どうせ俺しかいなくてガッカリしたクセによ」
七尾の態度はどこか投げやりだ。上から重さのあるもので星子を押し付け、そこに全体重を加えるかのような物言いなのだった。
「違うもん……」
「いいって、いいって。お前の言うとおり、五百鈴はモテんだから。俺だって琴峯さんがお前と一緒にいないとガッカリするしな」
『他に好きな子いるっぽいし』
この場にはいないはずの笹森の言葉が耳の奥から聞こえてきた。そして全身に染み渡っていく。
星子は七尾の険しい顔を見上げた。七尾に済まないことをしていたのだ。七尾から恋を奪おうとしていたのだ。
彼は仲の良い笹森五百鈴を警戒している。
星子は理解した。笹森と距離を詰めれば、笹森と咲菜の距離も詰まってしまう。七尾も見目は悪くないが、笹森は典型的な美男子で、咲菜は非の打ち所のない美少女なのだ。花は花と番い、蝶は蝶と番う。
しかし叶わない恋であっても足掻く権利はある。
「遠慮しないで、咲菜ちゃんに話しかけたらいいのに」
珍しく咲菜は平然と話していたのだ。或いは彼女も、想う恋より想われる恋に目が向くこともある。
「咲菜ちゃんだって、」
「お前さ、ふざけんなよ」
星子は遮られた。七尾の低い語気に気圧される。
「お前なんかもう知らん」
七尾は踵を返すと、足音を鳴らしてベンチを通り過ぎていく。嗅ぎ慣れた七尾の匂いが風に運ばれ、星子の鼻を擽った。
「星子ちゃん……大丈夫?」
咲菜が腕を掴む。
「う、うん。咲菜ちゃんに嫌な思いさせちゃったね。最近なんか、七尾くんのこと怒らせてばっかで。アハハ……ああ……」
笹森に想いを寄せる咲菜を困らせ、咲菜に片想いしている七尾を追い詰めてしまった。その事実が星子の胸に靄を作る。頭の中で芯を出したボールペンが暴れている。空腹は満たされていないというのに腹が塞がれてしまった。
「星子ちゃん……」
「七尾くんも悪い人じゃないよ。ちょっと勢いが強いけれど……優しい人だよ。本当はね。ちょっと顔が怕いだけで……」
咲菜と付き合えば、七尾の棘は抜け、角張りは丸くなるのだろうか。そのときな本当に、知らない七尾文貴になる。小中の七尾文貴は消える。ただ共にいた星子のなかにだけ薄れていく影を残すのだ。
星子は咲菜を見た。咲菜もまた星子の視線に応えたが、戸惑っていた。その所作や表情もまたいじらしい。完璧な女の子だ。他に狙っている男子もいるに違いない。けれども七尾は有利だ。星子のなかで、七尾と笹森の姿が交互に点滅する。
「七尾くん、あんな強く星子ちゃんに当たらなくたっていいのにね」
星子は焦った。咲菜は七尾を誤解している。
「あれはわたしが悪いんだよ。七尾くんの邪魔をしちゃったんだ。それは怒るよ。その……多分、笹森くんと張り合ってるんだと思うな、分かんないけれど……アハハ……」
「さ、さ、さ、笹森くんと、張り合う……? なんで……? 仲が良いんじゃ、ないの?」
笹森の名を口にしたときの親友は、ライチのような肌を淡く色付かせた。そして前髪を何度も撫でつけるのだった。
「男の子同士だからじゃないかな?」
七尾は苦しみの中にいるのだ! それを理解しなかった。理解してあげられなかった。彼は昔馴染みに頼っていたのだ。だが気付かなかった。星子は自身の鈍さが嫌になった。七尾に酷いことをしていた。
「男の子同士だから?」
「それに七尾くんは昔から負けず嫌いだからさ。マラソン大会は1位じゃないと気が済まなかったみたいだし、ドッヂボールで勝てないと悔しがって泣いてたな」
星子は言った直後、口を噤んだ。咲菜のなかの七尾の印象が悪いものに変わってしまっては困る。笹森を好いているということは、咲菜は落ち着きのある、穏和な気質を好むのだ。
「今のは違くて……嘘じゃないけれど、昔のことだし。今は優しいよ。転んだら保健室に連れて行ってくれるし、数学の課題も分からないところ教えてくれるもの」
「そうなんだ。星子ちゃんは七尾くんが好きなのね」
咲菜が笑いかける。視界が白く閃いた。星子の心臓が脈を飛ばす。鼓動が肩を揺らす。保健室で見た広い背中が目蓋の裏に現れる。
七尾文貴は昔馴染みだ。ただ、今は、その姿を捉えきれないだけだ。
「友達として……ね。だって小学校からずっと一緒なんだし。弟みたいなものだよ……それかお兄ちゃん」
息ができなかった。呼吸はできているはずだった。だが酸素を取り込めている感じがしない。
「でも七尾くんのほうは星子ちゃんと仲良くしたいって、思ってると思うな……」
咲菜は美少女で、料理が上手く、頭も良い。だが無邪気過ぎるきらいがある。純粋な独自の視点を持っているのだ。それがまた外貌だけの美少女ではない美少女足らしめる。ゆえに彼女は自身の魅力に気付けない業を背負っている。
「仲は良いよ。心配しないで。最近ちょっと怒らせ気味なのは、わたしの所為でもあって……」
咲菜の所属している料理部が終わるのを待っていた。玄関ホールの共有スペースでいちご牛乳を飲む。
中庭を覗いていると、壁の影から七尾が見えた。自転車を転がしている。そして徐々に視界を横切る七尾の隣に女子がいるのが見えた。同じクラスではない。
親しげだった。人は小学校や中学校を共に過ごさずとも親しくなれる。
七尾は笑っていた。三白眼は丸く、陽光を浴びた向日葵よろしく人懐こい表情を見せていた。星子は見たことがない。向けられたことがない。
『他に好きな子いるっぽいし』
咲菜を想っているのではないのだろうか。昼飯時に見た彼の眉は顰められてばかりいた。
呼吸を忘れているのか。胸が苦しい。具合が悪いようだ。星子は胸部を押さえ、ベンチに座った。
『他に好きな子いるっぽいし』
笹森の言葉ばかり反復する。だが思い浮かぶのは笹森ではない。
胸を摩する。
「星子ちゃん、お待たせ」
部活の会議を終えた咲菜がひよこのような足取りで廊下を駆ける。
「咲菜ちゃん。お疲れ様」
咲菜の冷たい手が星子の手を握る。
「待った……よね? ごめんね」
「ううん。待ってないよ。ジュース飲んで、ぼーっとしてた」
咲菜と下駄箱に向かい、靴を履き替えていると、笹森も帰るところらしく、垢じみてきた簀子を鳴らす。咲菜は身を震わせ、星子の背中にしがみつく。
笹森は星子と咲菜に気が付いた。
「白川さん、昨日はごめんね」
星子は何について謝られたのか分からなかった。
「七尾知ってる?」
昨日を振り返る間もなく、彼は訊ねた。七尾の名前が昼食時のピックとなって胸に突き刺さる。
「もう帰ったみたい。さっき……女の子と……」
「へー! 女の子と? なかなかやるじゃん。好きな子のこと、諦めたのかな。その子が本命の子だったりして」
笹森は靴を履き替える。
「じゃあね、白川さんと、琴峯さん。また今度、一緒に帰ろう!」
彼は走り去っていく。汗臭さのひとつも感じさせない。爽やかな香りを残して姿が消えた。
「星子ちゃん…………昨日、さ、さ、さ、笹森くんと何かあったの……?」
大きな瞳が潤んでいるように見えた。首を傾げる様は宛ら風に圧し折れてしまう百合の花だ。
「昨日、笹森くんと帰ったの」
「え!」
「途中までだよ」
「あ、あ、その………星子ちゃんもさ、さ、さ、さ、笹森くんのこと………す、好き、なの……?」
咲菜の白桃じみた頬が皮を剥く前のような色味に染まる。
「まさか! そんなんじゃないよ!」
まるで咲菜を嘲笑っているかのようだ。咲菜を足蹴にしているかのようだ。
「ほ………本当に……? 疑ってるんじゃなくて……」
「本当に! 笹森くんはただのクラスメイトだよ」
そして親友の想人だ。そのために一緒に帰ったのだ。
だが咲菜のよく濡れた目はまだ不安を訴えている。
「だってもしわたしが笹森くんのこと好きだったら、目を見て話せないよ、きっと。あんなふうに普通に話せないと思うな」
咲菜の揺らいだ目が凪いでいく。
「よ、良かった……星子ちゃんが相手だったら、あたし、勝てないわ」
咲菜は俯いた。それは謙遜ではないようだった。脱力しながら、消え入る語尾は緊迫していた。
「な、何言ってるの。勝てないのはわたしのほうだよ」
咲菜は自身を客観視できていない。しかしそれがまた彼女を美しくする。
咲菜を好きにならない男子はいない。クラス中の男子が咲菜に憧れ、期待している。その羨望を持ち続けられなかった連中が、咲菜ではない女子たちと付き合うのだ。
玄関前の階段を降り、駅に近い西門へ向かうとしたとき、咲菜に腕を取られる。
「ちょっと本屋に寄りたくて……」
高校の東側に本屋がある。しかし東門は封鎖され、北側の正門から回らなければならなかった。
自転車と徒歩者が入り乱れる。
星子は足を止めた。自転車を転がすな七尾と女生徒を見つけた。校門の脇で話し合っている。相変わらず柔らかな笑みを携え、女子は笑っている。しかしこの2人に男子生徒が駆け寄っていった。七尾と話していた女子生徒が振り返り、七尾から離れる。3人は男女2人と七尾に分かれ、この男女2人は彼に手を振った。一人残された七尾は、手を繋いだ2人の後姿を見送っている。首が追っていた。しかしその三白眼はどこか遠い。彼等を見ているようで見ていない。やがて三白眼が星子たちを捉えた。
「七尾くんだね」
咲菜が笑う。朗らかな響きは小鳥の囀りのようだ。
七尾は腕を大きく掲げる。そして荒々しいメトロノームよろしく左右に振った。
咲菜も手を振り返している。こちらはたんぽぽが風に戦ぐようなものだった。
「バイバイ、琴峯さん!」
七尾の大声が正門に谺する。
「え……?」
咲菜は目を丸くして星子を向いた。三白眼が消え、精悍ぶりが失せ、向日葵が咲いている。しかしその大輪の花はすぐさま萎んだ。三白眼が吊り上がり、星子へ一瞥をくれた。
星子は自転車を転がしながら正門を出ていく七尾の背中から目を逸らすことができなかった。




