第9話 オフサイド三本
副審の旗が、まだ上がっていた。
神田太陽は、相手ゴールへ走り抜けた先で立ち止まっていた。息だけが荒い。芝を蹴った足が、行き場をなくしている。
「戻れ、太陽!」
藤代誠二の声が飛んだ。
その直前、片桐は神田と藤代を同時に送り込んでいた。
背番号31、神田太陽。
背番号10、藤代誠二。
藤代は中盤の低い位置へ入り、神田は最前線へ置かれた。
狙いは一つ。
相手の背中。
だが、最初の一本は、完全にオフサイドだった。
「パスが出た瞬間だ!」
藤代が、自分の足元を指した。
「抜けた瞬間じゃねえ! 俺が蹴る瞬間に、お前の膝が半歩出てる!」
「はい!」
神田は大きく返事をした。
だが、その声は少し震えていた。
ゴール裏から、ざわめきが落ちてくる。
「惜しいぞ!」
「見えてんぞ!」
「半歩だ、半歩!」
罵声ではない。
けれど、優しくもない。
失敗を見ている声だった。
片桐はベンチ前で腕を組んだまま動かなかった。
成瀬隼人も、隣で黙っていた。
ここで慰めても意味はない。
神田自身が、次の一本で直すしかない。
相手CBは、ちらりと背後を見た。
初めてだった。
それまで前だけを見ていた男が、神田の走る空間を確認した。
失敗は、無駄ではない。
後半二十八分。
ヴァンテールは右サイドでスローインを得た。
藤代が受けに下がる。
相手のボランチが寄せる。
藤代は逃げない。
右足の裏でボールを止め、身体の向きをほんの少しだけ外へ向けた。
神田が反応する。
今度は、待った。
待ったつもりだった。
相手CBの肩を見て、半歩だけ残る。
藤代の軸足が外を向く。
神田が走る。
パスが出る。
また、笛が鳴った。
副審の旗が上がる。
「くそっ……!」
神田が芝を蹴った。
今度は、さっきよりも僅かだった。
右足のつま先。
パスが出た瞬間、その先だけが、相手CBより前に出ていた。
藤代が近づき、低い声で言う。
「走るなとは言ってねえ」
「はい」
「半歩、待て」
「待ったつもりでした」
「つもりでラインは許してくれねえよ」
神田は唇を噛んだ。
「もう一本、お願いします」
「頼む相手を間違えるな」
藤代は顎でピッチを示した。
「試合に頼め。次に来た時、身体で直せ」
片桐がベンチから声を飛ばす。
「神田、見る場所を変えろ!」
神田が振り返る。
「相手CBの足じゃない! 藤代さんの軸足と、副審の位置を見ろ!」
「はい!」
「全部見るな! 二つだけでいい!」
神田は大きく頷いた。
その横で、相手CBが笑った。
「また走るのかよ、31番。どうせ旗だぞ」
神田の肩が、一瞬だけ揺れる。
だが、藤代が先に笑った。
「怖いなら、下がっとけ」
相手CBの顔から笑みが消えた。
藤代は神田を見ないまま言った。
「太陽。煽りに反応するな。あいつは今、背中が怖くなってる」
「……はい」
「三本目、来るぞ」
後半三十二分。
ヴァンテールの左サイドでボールを奪った。
中盤を経由し、藤代へ戻る。
相手CBは、今度は先にラインを上げた。
罠だった。
神田が走り出しかけた瞬間、相手最終ラインが一斉に一歩前へ出る。
藤代は出すのをやめようとした。
だが、神田はもう動いていた。
藤代が小さく舌打ちして、それでもパスを送る。
神田は抜ける。
ゴールへ向かう。
また、旗。
三本目のオフサイド。
ゴール裏から、今度はため息が漏れた。
苛立ちも混じっている。
「またかよ……」
「我慢しろって!」
「でも、走れてる!」
声が割れる。
神田は、今度こそ肩を落としかけた。
顔が下を向く。
芝の上に、三本分の失敗が並んでいるように見えた。
その時、空席の隣にいた男が叫んだ。
「下向くな、太陽!」
神田が顔を上げる。
「まだ走れんだろ!」
昨日、元太鼓係と一緒にいた男だった。
神田は何かを言おうとして、やめた。
代わりに、胸の前で拳を握った。
片桐はベンチ前で、手帳を閉じた。
「藤代さん」
「何です」
「次、出せますか」
「出せます」
「神田は」
「折れてない」
「根拠は」
「下を向いたあと、もう一回ラインを見ました」
片桐は頷いた。
「なら、次です」
成瀬はピッチを見た。
【クラブビルドシステム】
■ 神田太陽:メンタル低下
■ 裏抜け成功率:上昇
■ 相手最終ライン:後退傾向
■ 相手CB警戒値:上昇
三本とも失敗。
だが、相手のラインは確実に下がっている。
神田はまだ、ほとんどボールに触れていない。
それでも、相手を動かしている。
後半三十六分。
ヴァンテールは自陣深くで相手の攻撃を跳ね返した。
こぼれ球が中盤へ落ちる。
藤代の近く。
藤代は走らない。
一歩も無駄にしない。
落ちる前から、身体の向きを作っていた。
右足で止める。
顔を上げない。
相手ボランチが寄せる。
神田は、走り出したい身体を抑えた。
藤代の軸足を見る。
副審の位置を見る。
相手CBの肩を見る。
半歩、待つ。
藤代の軸足が外を向いた。
神田が消えた。
今度は、旗が上がらない。
スタンドが、一瞬遅れて気づく。
相手CBの背中を、神田が完全に取っていた。
藤代のパスは、強くない。
速くもない。
だが、神田の走る先へ落ちた。
神田は追いつく。
トラップは、また少し大きい。
それでも、身体を投げ出すように右足を振った。
シュート。
相手GKが飛び出してくる。
ボールは、GKの左腕に弾かれた。
ゴールにはならない。
こぼれ球も、相手DFにクリアされた。
得点ではない。
勝利でもない。
だが、スタジアムの空気が変わった。
ゴール裏から、声が爆発した。
「今のだ!」
「それだ、太陽!」
「次だ、次!」
神田は、シュートを止められた場所で膝に手をついた。
悔しそうに、歯を食いしばっている。
藤代が遠くから叫んだ。
「今のは待てた!」
神田は顔を上げた。
「でも、決められませんでした!」
「次に決めろ!」
「はい!」
その返事は、さっきまでと違った。
震えていなかった。
相手CBは、ゆっくりと最終ラインを下げた。
もう、前半のようには高く立てない。
神田が一度、背中を取ったからだ。
片桐はその一歩を見て、拳を握った。
「下がった」
成瀬は短く言った。
「ええ」
片桐の声は冷静だった。
だが、その目は熱を帯びていた。
「神田はまだ点を取っていません。でも、相手を動かしました」
後半四十一分。
ヴァンテールは押し返した。
神田を警戒して、相手CBが半歩だけ低く構える。
その半歩で、中盤に小さな空間ができた。
藤代はそこを逃さなかった。
右足で短く刺す。
ボールは相手ボランチの脇を通り、右サイドへ流れる。
右サイドの選手が前を向いた。
相手SBは寄せに出る。
だが、その背後では、相手CBが神田を気にして中央へ絞り切れない。
クロスが上がる。
中央のFWがニアへ飛び込む。
相手CBが一歩遅れて身体を寄せた。
肩だけ先に入った。
ヘディング。
ボールは、枠の上へ抜けた。
「くそっ!」
中央のFWが叫ぶ。
決まらない。
それでも、ゴール裏は拍手した。
それまでの苛立った拍手ではない。
まだ行け、と押す拍手だった。
アディショナルタイムは三分。
ヴァンテールは最後まで攻めた。
神田はもう一度裏へ走る。
今度は相手CBが身体を寄せ、ボールには届かせない。
ファウルではない。
神田は芝に倒れかけ、すぐに立った。
「もう一本!」
その声が、ピッチに響いた。
しかし、次の笛が鳴った。
試合終了。
0-0。
勝てなかった。
負けもしなかった。
累計成績。
一勝五分十敗。
勝点八。
最下位のまま、数字はほんの一つだけ増えた。
だが、ゴール裏はすぐには帰らなかった。
空席の隣にいた男たちが、神田へ向かって手を叩いていた。
その真ん中の席は、最後まで空いたままだった。
若槻がメインスタンドで端末を見ている。
「観客数、二千三百二十六」
笹原が息を止めた。
前節を、十人だけ上回っていた。
「条件は」
成瀬が聞く。
若槻は、何度も数字を見直した。
「面談は、残りました」
勝ってはいない。
だが、首の皮はつながった。
片桐はピッチを見ていた。
神田が、藤代に頭を下げている。
藤代は何かを言い、神田の頭を軽く叩いた。
その奥で、相手CBがまだ神田を見ていた。
試合後のロッカー。
誰も騒がなかった。
勝っていないからだ。
神田はユニフォームを握ったまま、ベンチに座っていた。
「すみません。決められませんでした」
片桐は首を振った。
「違う」
「でも」
「お前は今日、相手のラインを下げた」
神田は顔を上げる。
「点は取っていません」
「それでも、試合を動かした」
藤代がロッカーに背を預けた。
「三本も旗を上げさせて、四本目でようやく覚えた。遅い」
「すみません」
「でも、覚えた」
藤代は古いスパイクの紐をほどきながら言った。
「次は、一本目から待て」
神田は、悔しさと嬉しさの混じった顔で頷いた。
「はい」
成瀬は、ロッカーの隅でその顔を見ていた。
勝てなかった。
だが、変わった。
その事実を、まだ誰も大声では言わなかった。




