第8話 後半二十分の兵器
元太鼓係の席は、空いたままだった。
試合開始三十分前。
ゴール裏の中段、通路から三列目。笹原美月が見せた年間パス一覧の座席番号と、目の前の空席が重なる。
その両隣には、色褪せた青緑のマフラーを巻いた男が二人いた。
昨日、スタジアム外周で元太鼓係と一緒にいた二人だ。
彼らは来た。
だが、真ん中の席は空いている。
成瀬隼人は、通路の端で足を止めた。
笹原が横で小さく言う。
「見ています。あの人たちも、こちらを」
「分かっています」
「言葉はいりません。今は、言葉より先に頭を下げてください」
成瀬は、ゴール裏へ向かって頭を下げた。
長く話さない。
言い訳しない。
昨日、笹原に言われた通りだった。
顔を上げた時、二人のうち一人が口だけ動かした。
――逃げんなよ。
声は聞こえなかった。
それでも、意味は分かった。
メインスタンドの一角では、若槻航がスマートフォンを握っていた。スポンサー候補からの返事を待っている顔だ。隣で笹原のスタッフが入場者数の速報を確認している。
「現時点で、前節比マイナス二百八十」
笹原が端末を見て、声を落とした。
「キックオフ直前の伸び次第ですが、厳しいです」
メインスポンサーとの面談条件は、前節観客数を下回らないこと。
勝つだけでは足りない。
客を戻さなければ、このクラブは次の会話の席にすら座れない。
ピッチでは、ヴァンテール海浜FCの選手たちが整列している。
背番号31、神田太陽はベンチにいた。
膝の上で、両手が何度も開いたり閉じたりしている。
「落ち着け」
隣に座る藤代誠二が言った。
「落ち着いてます」
「嘘つけ。さっきからスパイクの紐を三回結び直してる」
「ほどけたら困るので」
「心がほどけそうなんだろ」
神田は言い返せなかった。
藤代は前を見たまま、少しだけ声を低くした。
「出たら、最初の一本で全部取り返そうとするな」
「でも、俺は……」
「走るのが仕事だ。決めるのは、その次だ」
神田は唇を結んだ。
「俺、下手なのは分かってます」
「分かってるなら、足元でうまく見せようとするな」
藤代は、ピッチの向こうを顎で示した。
「相手の背中だけ見ろ。ボールは後から来る」
その言葉を聞いていた片桐巧が、ベンチ前に立った。
「神田」
「はい!」
「まだ出さない」
神田の肩が跳ねた。
「……はい」
「返事はいい。顔に全部出てる」
「すみません」
「謝るな。待つのも仕事だ」
キックオフの笛が鳴った。
相手は中位クラブらしく、慌てなかった。
無理に前から奪いに来ない。ヴァンテールのセンターバックにボールを持たせ、サイドへ誘導し、縦パスが入る瞬間だけ中盤が牙を剥く。
前半七分。
ヴァンテールの右サイドでボールが詰まった。
逃げ場を失ったサイドバックが縦へ蹴る。
相手CBが一歩前に出て、難なく跳ね返した。
そのこぼれ球を相手のボランチが拾う。
カウンター。
スタンドが息を呑む。
相手FWがペナルティエリア手前で右足を振った。
GKが横っ飛びで弾く。
ボールはゴールラインを割り、コーナーキックになった。
ゴール裏から、怒声が飛ぶ。
「簡単に蹴るな!」
「また同じじゃねえか!」
神田はベンチから身を乗り出しかけた。
片桐の手が、すぐ肩の前に出る。
「座れ」
「でも」
「まだだ」
片桐の声は短い。
短いが、迷ってはいなかった。
前半十二分。
相手のコーナー。
ニアで触られたボールがゴール前にこぼれる。
ヴァンテールのCBが身体を投げ出して防いだ。
弾かれたボールが、ペナルティエリアの外へ転がる。
相手の二列目が走り込む。
ミドルシュート。
クロスバーの上。
助かった。
だが、助かっただけだった。
藤代がベンチで膝に手を置き、口の中で何かを呟いた。
「今の、俺がいたら」
神田が聞く。
「どうしてました?」
「拾う前に向きを作る」
「向き?」
「ボールが落ちてから考えるな。落ちる前に、身体を逃がす場所を作る。そうしないと、全部後手になる」
「……難しいです」
「だからお前は走れ」
藤代は言った。
「俺が動けない分、お前が走る。お前が慌てる分、俺が待たせる。それでようやく一つの武器になる」
神田は黙った。
その言葉を、胸のどこかへ押し込むように。
前半二十八分。
ヴァンテールはようやく形を作った。
中盤で奪い、左サイドへ展開。
クロスが上がる。
しかし、中央に飛び込む選手の一歩が遅い。
相手CBが先に触り、簡単にクリアした。
神田なら届いたかもしれない。
そんな空気がベンチに流れた。
神田自身も、それを感じていた。
太ももに置いた拳が、ぎゅっと握られる。
「神田」
片桐が言った。
「その顔をするな」
「……はい」
「今の一本で出たくなるのは分かる。だが、相手のCBはまだ元気だ。お前が走っても潰される」
「はい」
「悔しいか」
「悔しいです」
「なら、その悔しさを足じゃなくて目に置け。相手の背中を見ておけ」
神田はピッチを見た。
相手CB。
背番号4。
身体が強く、空中戦も強い。前半の時点では、まだ余裕がある。ラインを高く保ち、こちらの前線を見下ろすように立っていた。
前半終了間際。
相手のミドルシュートがクロスバーを叩いた。
金属音がスタジアムに響く。
ボールが跳ね返る。
ゴール裏が沈黙する。
笛。
前半終了。
スコアは、0-0。
ロッカールームに戻る選手たちの顔は重かった。
だが、片桐は怒鳴らなかった。
ホワイトボードに相手の最終ラインを描く。
「焦るな」
最初にそれだけ言った。
「前半、押し込まれた。でも失点はしていない。相手はラインを高く保っている。理由は簡単だ。背後を怖がっていないからだ」
神田が顔を上げる。
片桐は、あえて見なかった。
見れば、今すぐ使いたくなる。
「後半も、すぐには動かない。相手のSBとCBの戻り足が落ちるまで待つ」
控えの一人が言った。
「でも、押し込まれたら」
「押し返す」
片桐の声が強くなった。
「神田を出すために耐えるんじゃない。勝点を取るために耐えるんだ。神田は魔法じゃない」
神田の膝の上の手が止まった。
成瀬はロッカーの隅で聞いていた。
システムの表示は、さっきから神田投入後の成功率を何度も出している。
【クラブビルドシステム】
■ 後半投入候補:神田太陽
■ 相手最終ライン疲労:軽度
■ 裏抜け成功見込み:上昇前
■ 推奨投入時間:後半20分以降
だが、片桐はまだ動かない。
それでいい。
見えているから急がせるのではない。
見えているからこそ、待つ。
後半。
相手はさらに前へ出てきた。
後半八分。
ヴァンテールのボランチが縦パスを狙うが、相手に読まれる。奪われ、すぐにショートカウンター。左サイドから低いクロスを入れられる。
CBが足を伸ばして触った。
危ない。
ゴール裏から、祈るような拍手が起きる。
後半十三分。
藤代がベンチで立ち上がりかけた。
片桐が見ずに言う。
「まだです」
「俺、何も言ってませんけど」
「顔が言っています」
「監督も真白さんみたいなことを言う」
「嫌なら顔に出さないでください」
藤代は苦笑して、ベンチへ座り直した。
神田はそれを見て、ほんの少しだけ笑った。
緊張が、わずかにほどける。
後半十八分。
ヴァンテールの中盤が奪い、前を向く。
神田が腰を浮かせた。
「まだ」
片桐が短く言う。
神田は座り直す。
悔しさで、頬が赤くなっていた。
「監督」
藤代が言った。
「相手の右SB、少し遅れ始めてます」
「見ています」
「なら」
「まだです」
藤代は口を閉じた。
片桐の手帳には、相手の走行メモが小さく書き込まれている。
後半二十三分。
相手の右SBが、初めて戻る途中で内側を見た。
自分の背後ではなく、中央のボールを見た。
その一瞬を、片桐は見逃さなかった。
「神田」
神田が立ち上がる。
「はい!」
「足元で受けるな。相手の背中を見ろ」
「はい!」
「一本目で決めようとするな」
神田の返事が、少し遅れた。
「……はい」
片桐は、その遅れを見た。
「怖いか」
「怖いです」
ベンチが静かになった。
神田は、正直に言った。
「外すのが怖いです。オフサイドになるのも怖いです。でも、走らない方がもっと怖いです」
片桐はうなずいた。
「なら、走れ。ただし、半歩待て」
藤代が立ち上がり、神田の肩を軽く叩いた。
「俺が出す前に走るな」
「はい」
「俺が出したら、迷うな」
「はい!」
後半二十五分。
交代ボードが上がる。
背番号31。
神田太陽。
スタンドがざわついた。
笹原が入場速報の端末を握る。
「二千百を超えました」
若槻が小さく息を吐いた。
「まだ足りない」
「はい。まだ、足りません」
ゴール裏の空席の隣で、マフラーの男たちが立ち上がる。
空いたままの席が、その間で妙に目立った。
神田はタッチライン際で深く息を吸った。
ピッチへ一歩踏み出す。
芝の匂い。
スタンドのざわめき。
相手CBの視線。
全部が、身体へ刺さった。
プレー再開。
藤代にボールが入る。
神田は一瞬、待った。
待ったつもりだった。
藤代の軸足が外を向く。
神田が背後へ走る。
パスが出た瞬間、神田の肩が、相手CBより半歩だけ前に出ていた。
それでも神田は抜けた。
完全に相手CBの背中を取った。
スタンドが息を吸う。
その直後、笛が鳴った。
副審の旗が、真っ直ぐ上がっている。
オフサイド。
神田は、走った先で立ち止まった。
肩が、わずかに落ちる。
ゴール裏から、低い声が飛んだ。
「半歩だろ、太陽!」
罵声ではなかった。
怒鳴り声だった。
でも、そこには名前があった。
神田は振り返った。
藤代が、遠くから手を上げる。
「今のは早い!」
神田は唇を噛んだ。
それから、大きく頷いた。
「はい!」
最初の一本は、完全に失敗だった。
だが、相手CBは一歩だけ後ろを見た。
その一歩を、片桐はベンチで見ていた。
成瀬も見ていた。
空席の隣に立つ二人のサポーターも、同じ場所を見ていた。




