第7話 炎上記事と空席のスタンド
『若きオーナー、サポーターに宣戦布告か』
朝の社長室で、その見出しだけが妙に大きく見えた。
犬飼毅の記事は、夜のうちに拡散していた。
俺が言っていない言葉は、ほとんどない。
ただ、順番が違う。
切り取る場所が違う。
こちらが「怒りを預かる」と言った部分は短くされ、「勝とうとしている姿勢を示す」という言葉だけが太字で抜かれていた。
コメント欄には、短い言葉が並んでいる。
『また口だけか』
『姿勢って何? 最下位の姿勢なら毎週見てる』
『サポーターの怒りを預かる? 返せるもの持ってるのか』
『若い金持ちのおもちゃにされるのだけは勘弁』
真白はタブレットを伏せた。
「三枝が一次対応文を出しています。反論ではなく、会見全文への誘導です」
「犬飼への抗議は」
「今出せば、記事の寿命が延びます」
正しい。
腹立たしいほどに。
若槻航はソファに浅く座り、スマートフォンを握っていた。いつもの軽い笑みがない。
「スポンサー候補から、面談撤回の連絡はまだありません」
「まだ、か」
「はい。まだ、です」
若槻は画面を見たまま、苦く笑った。
「向こうは次の試合後の数字を見ると言っています。勝敗、観客数、記事の反応。その全部です。前節より客が減れば、十五分の面談はさらに遠のきます」
数字。
順位表。
支払日。
スポンサー。
サポーターの怒り。
会見で言った言葉が、朝になって全部こちらへ戻ってきていた。
ドアがノックされた。
入ってきたのは、笹原美月だった。
腕には分厚いファイルを抱えている。表紙には、色褪せた青緑のテープが貼られていた。
「成瀬さん。スタジアムを見に行ってください」
「今ですか」
「今です」
笹原の声は柔らかい。
だが、その目は笑っていなかった。
「記事を読んで腹を立てる前に、空席を見てください。あそこに、怒る前に来なくなった人たちがいます」
スタジアムのゴール裏は、朝なのに暗かった。
青緑の座席は陽に焼け、ところどころ白くなっている。段差の隅には、古い紙吹雪の欠片が残っていた。応援ステッカーの端は、雨でめくれている。
笹原は無人のゴール裏を指した。
「ここが一番荒れています」
「昨日の記事で?」
「昨日だけなら、まだ楽でした」
彼女はファイルを開いた。
年間パス購入者一覧。
名前。
座席番号。
更新年数。
更新停止日。
小さなメモ。
『父の代から購入』
『ホーム皆勤十年』
『昨季途中で更新停止』
『クラブ対応に不満』
『試合後、怒鳴って帰る。翌年更新なし』
笹原の指が、一行で止まった。
「この人は、雨の日も来ていました。ゴール裏の太鼓係です。声が枯れても、最後まで叩いてくれた人でした」
「更新停止の理由は」
「聞けていません」
笹原の声が、わずかに揺れた。
「聞く前に、うちの担当が異動しました。引き継ぎも雑でした。怒っている人を、怒っているまま置いていったんです」
それだけで、十分だった。
怒っていた人間に、誰も最後まで話を聞かなかった。
俺は座席を見た。
無人のスタンドは、ただの空席に見える。
だが、ファイルには、そこにいたはずの人間の名前がある。
どの席にも、来なくなった理由がある。
「勝てば戻る人もいます」
笹原が言った。
「でも、勝つまでに離れる人もいます」
言葉が、乾いたスタンドに落ちた。
「クラブは今まで、勝てない理由を現場のせいにしてきました。フロントは『結果が出れば戻る』と言った。営業は『スポンサーが決まれば空気が変わる』と言った。広報は『明るい話題を出せば見てもらえる』と言った」
笹原は、年間パス一覧を閉じなかった。
「でも、その間に席は空きました。ここに座っていた人たちは、言い訳じゃなくて、次に来る理由が欲しかったんです」
ゴール裏の上段に、古い横断幕が畳まれていた。
端が破れ、文字の一部がかすれている。
『共に上へ』
今の順位表を見れば、笑われる言葉だ。
だが、その横断幕を書いた人間は、本気だったはずだ。
少なくとも、その時は。
「成瀬さん」
「何です」
「サポーターは客ではありません。でも、客でもあります」
笹原は、唇を噛んだ。
「お金を払って来てくれる。時間を使って来てくれる。負けたら傷つく。勝てば泣く。クラブが雑に扱えば、ちゃんと離れる」
「はい」
「だから、ゴール裏を敵にしないでください。味方にする前に、まず敵にしないでください」
それは、勝つより難しい注文だった。
犬飼の記事は、俺を挑発している。
反論すれば燃える。
黙れば認めたように見える。
だが、ここにいた人間たちが本当に見ているのは、記事への返事ではない。
次の試合で、俺たちが何を出すかだ。
「次のホームゲームの年間パス入場予測は」
笹原はすぐに別紙を出した。
「前節より下がります。記事の影響で、さらに減る可能性があります」
「具体的には」
「現在予測で、二千人を切ります」
前節は二千三百十六人。
スポンサー候補が見ると言った数字には、当然、観客数も含まれる。
このままなら、面談は遠のく。
【クラブビルドシステム】
■ サポーター熱量:5%
■ 地域信頼度:4%
■ 次節予測観客数:1,982人
■ メディア評価:炎上中
■ スポンサー面談リスク:上昇
■ 判断材料:次節観客数/炎上推移/試合内容
【警告】犬飼記事拡散により、観客動員低下リスク上昇。
予測は見える。
だが、空席に座る人間を画面から呼び戻すことはできない。
俺は表示を閉じた。
「笹原さん」
「はい」
「ゴール裏の代表格と話せますか」
「話せます。ただし、会いたいと言って会ってくれる相手ではありません」
「どうすればいい」
「試合の日、逃げずにこの通路を通ってください」
笹原は、ゴール裏からピッチへ降りる通路を指した。
古いコンクリートの壁に、靴跡と擦れた手すりが残っている。
「試合前、選手バスの動線とは別です。フロントが通る必要はありません。だからこそ、今まで誰も通っていませんでした」
「そこを通れ、と」
「はい。言葉はいりません。頭だけ下げてください。長く話すと燃えます」
「あなたも真白さんみたいなことを言う」
「燃えるものは燃えます」
その時、スタジアムの下から声が聞こえた。
警備員の制止する声。
低い怒鳴り声。
俺と笹原は、通路の下へ向かった。
外周の柵の向こうに、三人の男が立っていた。
首には、色褪せた青緑のマフラー。
そのうち一人は、初日の会見場にいた男だった。
「出てこいよ、新オーナー!」
警備員が前に出る。
俺は手で止めた。
笹原が低く言う。
「長く話さないでください。相手の怒りを論破しようとしないでください」
「分かっています」
「その言い方が一番不安です」
俺は柵の前に立った。
男は、こちらを睨んだ。
目は赤い。
だが、酔ってはいない。
「宣戦布告ってのは本当か」
「違います」
「じゃあ、犬飼の記事が嘘だって言うのか」
「切り取りです」
「便利な言葉だな」
男の声が、低く震えた。
「お前らはいつもそうだ。誤解です、切り取りです、次こそ変わります。聞き飽きたんだよ。何年も、何年もだ」
男は柵を掴んだ。
指の節が白くなっている。
「負けるのは見てきた。降格争いも見た。客が減るのも見た。けどな、俺が一番腹立ったのはそこじゃねえ」
笹原の指が、ファイルを握る。
「何に、ですか」
俺が聞くと、男は一瞬、言葉を詰まらせた。
怒鳴るよりも、苦しそうだった。
「誰も聞きに来なかったことだよ」
声が、かすれた。
「太鼓やめる時も、年間パスやめる時も、誰も来なかった。『長い間ありがとうございました』の紙一枚だ。俺は客か? 客なら、もう少しまともに扱えよ。仲間だって言うなら、逃げるなよ」
その言葉は、罵声ではなかった。
まだ傷ついている人間の声だった。
俺は頭を下げた。
「すみません」
「謝れって言ってんじゃねえ!」
怒鳴り声が、外周のコンクリートに跳ね返った。
男は、唇を噛んだ。
「謝るくらいなら、勝てよ。走れよ。最後までボール追えよ。負けても、次に来る理由くらい残せよ。俺たちは、優勝しろなんて言ってねえんだよ」
神田の背中が、頭をよぎった。
外しても走る。
笑われても走る。
味方が諦めたこぼれ球にも走る。
だが、その名前をここで出すのは違う。
神田を盾にしてはいけない。
「次の試合で見せます」
「何を」
「最後の笛まで、こぼれ球を追うところを。負けていても、背中を向けないところを。ベンチも、ピッチも、フロントも、逃げないところを」
「抽象的だな」
「はい」
男の眉が動いた。
「そこは否定しろよ」
「まだ具体的な結果を見せていないので」
男は一瞬黙り、それから舌打ちした。
「……ムカつくな、お前」
「否定はしません」
「ちったあ否定しろ」
「……安い返事なのは、分かっています」
俺は一度、言葉に詰まった。
「だから、次で少しでも高くします」
男は、柵を掴む手に力を込めた。
怒鳴ろうとして、やめた顔だった。
「そういうところだよ。口だけ上手い奴より、余計ムカつく」
「はい」
「返事だけはいいな」
「それも、今は安い返事です」
笹原が横で小さく息を吐いた。
笑ったのではない。
たぶん、胃が痛くなったのだ。
男はマフラーの端を握った。
「俺は行かねえ」
「……分かりました」
「分かるなよ」
男の声が、そこで少しだけ掠れた。
「分かりました、で終わらせんな。俺が行かないって言ったら、少しは困れよ。悔しそうな顔くらいしろよ。こっちは、行かないって決めるのにも時間かかってんだよ」
後ろの二人が黙った。
俺は、男のマフラーを見た。
洗いすぎて、端がほつれている。
それでも首から外していない。
「困っています」
俺は言った。
「来てほしいです」
男の目が、一瞬だけ揺れた。
「……なら、最初からそう言え」
「言っていい立場か迷いました」
「迷うなよ、そこで」
男は顔を背けた。
その横顔は、怒っているというより、何かをこらえていた。
「でも、あいつらは行くかもしれねえ」
男は後ろの二人を顎で示した。
「俺より馬鹿だからな。まだ信じたがってる」
後ろの一人が怒る。
「馬鹿は余計だろ」
「余計じゃねえよ。こんなクラブ、まだ気にしてる時点で馬鹿だ」
三人の間に、短い沈黙が落ちた。
まだ気にしている。
それが、今のヴァンテールに残されたわずかな財産だった。
男は俺をもう一度睨む。
「次も同じなら、本当に終わりだ」
「はい」
「俺が来なくても、あいつらの前で恥かくな」
「はい」
「……俺の席、まだ空いてんのか」
笹原が、ファイルを胸に抱き直した。
「空いています」
男は舌打ちした。
「そういうの、すぐ答えんなよ」
そう言って、男たちは去っていった。
外周の向こうへ、青緑のマフラーが揺れる。
笹原は、しばらくその背中を見ていた。
「今の人です」
「何がです」
「太鼓係だった人」
俺は、年間パス一覧の一行を思い出した。
父の代から購入。
ホーム皆勤十年。
昨季途中で更新停止。
クラブ対応に不満。
あの席は、まだ空いている。
だが、完全に消えたわけではない。
夕方。
練習場へ戻ると、片桐がメンバー表を持っていた。
次戦のベンチ入り候補。
その紙の端は、何度も書き直された跡で少し毛羽立っている。
俺は黙って待った。
片桐は、最後の欄にペンを置いた。
背番号31。
神田太陽。
「決めたんですか」
俺が聞くと、片桐は首を横に振った。
「まだです」
そう言いながら、片桐は背番号31の横に小さく丸をつけた。
「ただ、ベンチには入れます」
片桐はもう一度、丸を強くなぞった。
「逃げないところを見せるなら、走れる奴を置かない理由はありません」
練習場の奥で、神田がまたラインの手前に立っていた。
走り出したい身体を、半歩だけ我慢している。
その我慢が、今はまだ、次の試合へ向かう細い線だった。




