第6話 十五分の会見
「成瀬様、その一文は見出しになります。最悪の形で」
有栖川真白は、赤ペンの先で会見原稿を刺した。
社長室の机には、資金繰り表、スポンサー撤退通知、練習場の映像資料、そして俺の指紋がついた会見原稿が重なっている。
窓の外では、神田太陽がまたライン手前で泥にまみれて止まり、藤代誠二が遠くからその動きを凝視していた。
ピッチでは、勝ち筋が細い線になり始めている。
だが、机の上では別の線が引かれていた。
血のような赤い修正線だ。
「どこが問題だ」
俺が聞くと、真白は胃の奥から絞り出すような声で読み上げた。
「『勝ってから来いと言う企業には、勝った後に戻る席が残っているとは限らない』」
読み上げたあと、彼女は顔を上げなかった。
「スポンサー二社が消えます」
「名前は出していない」
「名前を出していなくても、後ろめたさのある相手は過剰に反応します。そして、逆上した相手から先に、違約金を盾に逃げ出します」
若槻航が、会議室の端で頭を抱えた。
「やめてください、成瀬さん。俺が明日、どの面下げて残りのスポンサーを回ればいいんですか」
「正面の顔で行け」
「その正面を殴られるんですって。今のうちは、這いつくばる側です」
真白は、次の行にも赤を入れる。
「こちらも駄目です」
「今度は何だ」
「『このクラブを笑った人間全員に、後悔させる』」
「本心だ」
「本心かどうかは、メディアには関係ありません。彼らが欲しいのは、燃える見出しになるかどうかです」
真白は、修正線を二重にした。
「成瀬様。勝てば黙る相手と、勝つ前に逃げる相手は違います。これは、今にも逃げかけている後者の背中を、自分で蹴り飛ばす発言です」
社長室に沈黙が落ちた。
真白は俺の言葉を飾っているのではない。
クラブを餌にされないために、余計な刃を削ぎ落としているのだ。
「では、何を言えばいい」
「まず、安い挑発を全部削ります」
「言葉が弱くなる」
「弱い言葉と、血の通った届く言葉は違います」
真白は別の紙を差し出した。
短いが、筆圧は強い。
『私たちは、勝つ前に信じてくださいとは言いません。
ただし、逃げません。
支払いからも、順位表からも、サポーターの怒りからも、スポンサーの失望からも逃げません。
次の試合で、変わろうとしている姿勢を示します。』
若槻が顔を上げた。
「これなら……ギリギリ、スポンサーの社長に頭を下げながら持っていけます」
氷室圭吾が、電卓から目を離さずに言った。
「『支払いから逃げない』は、私の胃に免じて死守してください」
「事実にする」
「その一文だけなら使えます」
白鳥千景が、契約書の束を閉じた。
「『姿勢を示します』なら安全です。勝利を保証したと取られる表現は避けてください」
「保証はしない」
「してください。勝利保証など、法務から見れば爆弾です」
原稿を読み返す。
弱い。
最初はそう思った。
だが、二度目に読むと、泥の底から這い上がる重みがあった。
逃げない。
今のヴァンテールには、勝つと言い切る資格はまだない。
だが、逃げないと言う責任はある。
三枝玲奈が、壁際から口を開いた。
広報・メディア担当。黒いタブレットを抱え、会見場の席順表を睨んでいる。
「会見は十五分で強制終了させます」
「短いな」
「長いほど、言葉の端を切り取られます。最前列に、犬飼毅が来ます」
若槻が露骨に嫌な顔をした。
「あの炎上屋か」
三枝はうなずいた。
「クラブが死にかけている時だけ、お通夜に群がるハイエナみたいに元気になる人です」
「事実を聞かれるなら答える」
「事実を悪意で切り取るのが、あの人たちの仕事です」
三枝はタブレットを机に置いた。
過去の記事見出しが並んでいる。
『最下位クラブ、まだ懲りずに夢を見る』
『泥舟に新オーナー、現場は冷ややか』
『補強失敗の責任は誰に』
嘘ではない。
だが、悪意はある。
「犬飼は、おそらくこう聞きます」
三枝は画面を叩いた。
「『サポーターは今の不甲斐ないクラブに強い怒りを抱いています。新オーナーとして、その怒りをどう受け止めますか』」
「正面から受ける」
「駄目です」
即答だった。
「『受けて立つ』に変換されます」
真白も赤ペンを止めた。
「ほぼ間違いなく、その形になります」
「なら、どう返す」
三枝は、俺の目を見た。
「怒りは、受け止めるのではなく、預かる、です」
「預かる?」
「怒りを消すとは言わない。理解したとも言わない。勝手に代弁もしない。ただ、重荷として預かって、次の試合と運営の姿勢で返す。そう言ってください」
真白が原稿の余白に書き込む。
『サポーターの怒りは、受け止めたと言えるほど軽いものではありません。預かります。次の試合と、これからの運営で返します。』
若槻が小さく息を吐いた。
「泥臭くて、いいですね」
「使う」
三枝が冷たい目で釘を刺した。
「原稿通りに、一言一句そのまま言ってください。絶対に足さないでください」
「足すとしたら?」
「秒で燃えます」
真白が即答した。
そして、原稿の一番上に大きく書いた。
『十五分。挑発しない。保証しない。逃げない。』
「この三つだけ、絶対に守ってください」
「命令か」
「お願いです」
「お願いの字ではないがな」
「命令に見える、必死のお願いです」
若槻が噴き出しかけ、氷室の視線で口を塞いだ。
会見室に移動すると、すでに熱気とインクの匂いがこもっていた。
安い蛍光灯の下で、黒いカメラのレンズが、銃口のようにこちらを向いている。会見台の布は端がほつれ、クラブの困窮を隠し切れていなかった。
最前列に、犬飼毅が座っている。
細い目。
軽い笑み。
手帳は開いていない。
録音機だけが回っていた。
会見が始まる。
真白が俺の斜め後ろに立つ。
三枝は壁際でストップウォッチを見る。
たった十五分。
それだけの防衛線だ。
ここで一言間違えれば、若槻のスポンサー営業が死ぬ。氷室の資金繰り表に赤が増える。片桐の戦術ボードも、藤代のスパイクも、神田の裏抜けも、全部泥に沈む。
犬飼が、獲物を見つけたように手を挙げた。
「成瀬オーナー。サポーターは今の不甲斐ないクラブに強い怒りを抱いています。その怒りを、どう受け止めていますか」
予想通りの毒針だった。
俺はマイクに手を添え、真白の文字を思い出す。
逃げない。
「受け止めた、と言えるほど軽いものではありません」
犬飼の細い目が、わずかに動いた。
「怒りは受け止めるのではなく、預かります。次の試合と、これからの運営で、結果としてお返しします」
シャッター音が鳴る。
俺は原稿から目を逸らさなかった。
「勝つ前に信じてくださいとは言いません。ただ、逃げません。支払いからも、順位表からも、サポーターの怒りからも、スポンサーの失望からも逃げない」
犬飼は笑った。
「つまり、勝てると?」
「勝とうとしている姿勢を、ピッチで示します」
「勝利の保証はしないと?」
「サッカーで勝利を保証する人間は、嘘つきか、現場の泥を知らない人間だけです」
会見場がざわついた。
犬飼の笑みが深くなる。
「では、成瀬さんは現場を知っていると?」
その問いは、腹の底に来た。
才能の壁。
選ばれなかった最後の一枚。
俺の右足の甲に、古い痛みが蘇る。
だが、背後で真白の書類が小さく鳴った。
俺は、深く息を吐いた。
「知っている、とは言いません」
そう答えた。
「だから、片桐監督に任せます。私は、クラブが泥の中から勝つために必要な材料を揃える。ピッチの中で決めるのは、監督と選手たちです」
壁際で、三枝が小さくうなずいた。
十五分の会見は、予定通りに終わった。
大きな失言はない。
勝利宣言もない。
だが、逃げないという言葉だけは、記者たちの録音機に刻まれた。
会見室を出た直後、若槻のスマートフォンが震えた。
「スポンサー候補からです」
若槻が画面を見て、目を丸くする。
「『泥舟のオーナーが逃げないと言い切った会見は見た。次の試合後、数字を見てから、十五分だけ社長が会う』。そう来ています」
真白は表情を変えなかった。
「言葉で、最初の十五分を取りましたね」
「ああ。首の皮一枚だ」
「次は、ピッチ側の十五分です」
その言葉で、練習場の荒い息遣いを思い出した。
藤代と神田で作る、後半の短い勝負時間。
言葉の削り合いで勝ち取った十五分を、今度はピッチの泥で証明しなければならない。
その夜。
地元ウェブ紙の記事が更新された。
書いたのは、やはり犬飼毅。
見出しは、こうだった。
『若き新オーナー、怒れるサポーターにまさかの宣戦布告か』
真白は画面を読み、無言でタブレットを伏せた。
十五分は取った。
だが、外の炎は、まだ何一つ消えていない。




