表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
二部最下位の泥舟サッカークラブを買い取った俺、クラブビルドシステムで世界一のメガクラブに育て上げる  作者: 園路 遥々


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/24

第5話 支払日は動かない

 古いスパイクの箱が、会議室の長机に置かれていた。


 持ってきたのは藤代誠二ではない。強化部長の海老名修だった。


「誠二が、ロッカーに置きっぱなしにしてた」


 海老名は、煤けた箱の蓋を指で重く叩いた。


「昨日、あいつが久しぶりに開けた。本人は隠したつもりだろうがな。革の匂いが漏れてやがる」


 窓の外では、朝練が始まっている。


 神田太陽がラインの手前で止まり、半歩下がり、また斜めへ爆発的に走る。藤代は別メニューのはずなのに、遠くから腕を組み、執念深くそれを見ていた。


 勝ち筋は見えた。


 神田を走らせる。


 藤代が出す。


 後半の限られた時間で、相手の背中を刺す。


 だが、その戦術論の前に、長机へ叩きつけられたのは戦術ボードではなかった。


 脂汗の染みついた、生々しい資金繰り表だった。


「理想は理解しました。胸が熱くなるような絵に描いた餅です」


 氷室圭吾が、銀縁眼鏡の奥から俺を睨みつけた。


 顔色はいつも通り悪い。スーツの袖口は擦り切れ、襟元だけが奇妙なほど整っている。右手には血のように赤いペン。左手には、ボタンの文字が消えかかった電卓。


「では、その美しい理想の請求書を、誰の肉を削って払うのか。今すぐ決めましょう」


 若槻航が、乾いた笑いを漏らした。


「朝イチから、反吐が出そうなほど景気のいい話ですね」


「景気がどん底だから、脳が一番動く朝に話しているんです」


 氷室は、表の一番上を赤ペンで強く叩いた。


「今月末の不足見込み。八千四百万円」


 硬い音が会議室に響く。


「遠征費、二千百万円。選手給与とスタッフ給与、三千九百万円。施設管理費、九百万円。スタジアム修繕の未払い分、六百万円。選手寮の食費と委託費、四百万円。その他、警備、清掃、備品発注分」


 数字は冷たい。


 だが、ただの記号ではない。


 遠征費を削れば、選手は狭いバスで何時間も揺られ、腰を固めてピッチに立つ。


 施設管理費を削れば、芝は剥げ、選手の足首を奪う罠になる。


 寮の食費を削れば、若手の身体から筋肉が削れる。


 スタジアム修繕を止めれば、客を戻す場所そのものが、サビと泥に沈んでいく。


「スポンサー撤退後の収入不足は?」


 俺が聞くと、氷室は胃薬の袋を脇へ退け、次の紙をめくった。


「年間で一億二千万円。短期では、来月入金予定だった分が完全に消えました。つまり、地獄の思いで今月を越えても、来月また同じ深さの穴が開きます」


「俺の個人資金で埋める」


「一時的には可能です」


 氷室は、すぐには反対しなかった。


 それが逆に重かった。


「ですが、毎月それを続ければ、このクラブは成瀬さんの財布から血を吸うだけの寄生虫になります。健全化ではありません。オーナーの延命治療で、ゾンビを生かしているだけです」


 白鳥千景が、分厚い契約書の束を開いた。


「クラブライセンス上も、継続的な資金繰り計画が必要です。オーナー単発の資金注入は説明材料にはなりますが、体質改善の証拠にはなりません。最悪、ライセンス剥奪です」


 若槻が、角の潰れた提案書を机に置く。爪が白くなるほど、強く握られていた。


「スポンサーに出す資料としても弱いです。『新オーナーが身銭を切ります』じゃ、向こうは『じゃあ、オーナーが倒れたら連鎖倒産か?』と警戒する。泥舟に金を出してくれる奇特な企業はありませんよ」


 氷室が小さくうなずいた。


「夢を語るのは結構です。ですが、支払日は動きません」


 会議室に、古い紙と焦燥の匂いが沈んだ。


 真白が、横で唇を噛み締めながら猛烈な勢いでメモを取っている。


 片桐は椅子の背に手をかけたまま、窓の外を見ていた。


 練習場では、神田がまた泥にまみれて走っている。藤代は、まだ見ている。


「藤代さんと神田を本気で使うなら、今の練習メニューじゃ足りません」


 片桐が、掠れた声で言った。


「映像分析の時間も、戦術の落とし込みも、今の倍は必要です。走り出しとパスのタイミングを合わせるのは、通常練習の片手間でできるほど甘くない」


「必要なものは何だ」


「映像を切り出す人手。練習用ポールの追加。ピッチの一部分だけでもいいから補修。それから、走力を測る簡易の計測機器が欲しい」


 バチン、と氷室の赤ペンが動いた。


「映像編集は既存スタッフで優先順位を組み替えて回してください。神田くんと藤代さんの連携場面だけを最優先で切り出す。練習用ポールは壊れたものをテープで補強して使い回す。ピッチ補修は、藤代さんが立つエリア周辺のみ限定。計測機器は却下です」


「それじゃ分析が足りない!」


 片桐が立ち上がりかける。


 氷室は、赤ペンを握ったまま一歩も引かなかった。


「足りないのは承知しています。ですが、人を寝かせずに回せば、次は分析担当が壊れます。選手を守るためにスタッフを潰すなら、それは再建ではなく別の破綻です」


 片桐の喉が詰まった。


 若槻が、その肩を押さえる。


「早く却下しないと、俺たちの首を吊る請求書がもっと早く来るんだよ、監督」


 片桐は、悔しそうに奥歯を噛んで黙った。


 勝つための戦術も、金という燃料がなければ、ただの鉄クズだ。


 俺はタブレットを開くふりをして、視界の奥に浮かぶ画面を見た。


【クラブビルドシステム】


■ 現金余力:危険

■ 今月末不足見込み:84,000,000円

■ メインスポンサー収入:消失確定

■ 施設維持リスク:致命的上昇

■ 選手コンディション維持リスク:上昇

■ クラブライセンス財務評価:警告


 画面は、氷室の資料と同じ現実を突きつけていた。


 赤。


 赤。


 どこを見ても赤。


 ピッチでどれだけ勝ち筋が見えても、会議室の紙の上では、ヴァンテールという泥舟は沈み続けている。


「削れるものは、全部出せ」


 俺が言うと、氷室は血の通わない指先で一枚の紙を差し出した。


「候補はあります。ロクなものではありませんが」


 その前置きだけで、全員の胃が痛んだ。


「一つ。次節の遠征時、宿泊ホテルのグレードを最低ランクまで下げる」


 片桐が机を叩いた。


「ふざけるな! 選手の移動疲労が増える! 試合前に身体が固まった状態でどう戦えって言うんだ!」


「承知しています」


「次戦は落とせないんだ!」


「それも、痛いほど承知しています」


 氷室は眉ひとつ動かさない。ただ、電卓を握る指先だけが白く震えていた。


「二つ。選手寮の食費を、一時的に四割圧縮する」


 海老名の声が、地を這った。


「おい。若手の飯から削る気か、お前は」


「候補として、机上に上げただけです」


「候補にすらするな!」


 海老名の拳が、長机を揺らした。


「神田みたいな金のない若手は、あそこの飯で生きてんだよ! 寮の飯の肉を減らしてみろ。真っ先に削れるのは、あいつらの走れる脚だぞ!」


 氷室は、逃げずに海老名の目を見返した。


「分かっています! だから候補にはしますが、私だって推奨はしない! 誰がそんな残酷なことをしたいですか!」


「なら、口に出すんじゃねえ!」


「言わなければ、成瀬さんが判断を下せない! 泥をかぶるのが私の仕事だ!」


 海老名が、拳を握りしめたまま黙った。


 氷室の言葉には、一片の甘さもない。


 だが、絶対に現実から逃げない覚悟があった。


「三つ。スタジアム修繕の一部延期。バックスタンドの老朽化した手すりの交換中止」


 笹原美月が、資料を握る指を震わせた。


「そこは、ダメです。雨の日、あそこの階段は滑るんです。子どもや年配のサポーターが転落したらどうするんですか」


「なら、却下です」


 氷室は、赤ペンでその項目にバツ線を引いた。


 笹原が息を呑む。


 氷室は淡々と続けた。


「私は削れる血肉のリストを出します。削ってはいけない致命的な理由があれば、その場で消す。そのための会議です」


 会議室が、死んだように静まり返った。


 氷室は冷徹だ。


 だが、クラブを殺したいわけじゃない。


 金が足りないという剥き出しの地獄から、誰も逃がさないために、自分の心を殺して立っている。


「では、どこを削る」


 俺が聞くと、氷室は一瞬だけ、苦しそうに目を伏せた。


「私の役員報酬は全額返上します。加えて、フロント管理部門の一部手当について、本人同意のうえで一時返上を求めます」


 真白のペンが止まった。


 若槻が顔を上げる。


「嘘だろ。フロント側から身を削るってことか? 手当が消えたら、あいつらの生活はどうなる」


「現場の士気は落ちます。すでに落ちています」


 氷室は、電卓の文字を見つめたまま言った。


「ですが、選手寮の食費を削ってチームを壊すよりはましです。遠征で選手を疲弊させるよりはましです。サポーターをケガさせるよりはましです。私たちは、そのためにここにいる」


 白鳥が、眼鏡の位置を直した。


「一方的な停止は不可です。合意書、説明記録、対象範囲、返上期間、後日の精算条件。そこまで揃えなければ、労務トラブルになります」


「分かっています。今日中にフロント全員の部屋を回り、頭を下げて説明します。合意できない職員には強制しません」


「書面は私が確認します。最速で作ります」


「お願いします」


 淡々とした会話の裏で、フロントの人間が血を流し、生活を削られる可能性だけが残った。


 若槻が、自分の胸元を自嘲気味に指さす。


「ってことは、俺のなけなしの営業インセンティブも消えるかもしれないってわけだ?」


「対象範囲に入れば、返上をお願いする可能性があります」


「鬼だな。スポンサーに這いつくばって頭下げに行く足代は?」


「交通費は支給します。一番安い路線を使ってください」


「おお、さすが氷室さん、優しいな」


「領収書が一円でもズレていたら、自腹にさせます」


「知ってたよ、チクショー」


 張り詰めた空気の底で、かすかに自虐的な笑いが起きた。


 けれど、胃の痛みが軽くなるわけではない。


 氷室は、すべての資料を机の真ん中に置いた。


「成瀬さん」


「何だ」


「神田くんを走らせ、藤代さんのパスを通し、勝点を取りに行く。その理想は素晴らしい」


「ああ」


「ですが、勝つための戦術と、クラブを明日まで生き延びさせるための策は別物です。今月末の支払いを越えられなければ、次戦の勝点も、藤代さんのパスも、神田くんの裏抜けも、全部ただの自己満足になります」


 俺は、氷室の言葉を正面から受け止めた。


「だから、誰を削って、誰を守るか。支払いの優先順位を、オーナーであるあなたが今、ここで決めてください」


 氷室は、手垢とインクで汚れた赤ペンを、俺の前に突きつけた。


「これが、あなたの仕事です」


 赤ペン。


 資金繰り表。


 窓の外の、泥だらけの練習場。


 神田の走る背中。


 藤代の古いスパイク。


 綺麗事では済まないすべてが、この机の上で血を流しているように見えた。


 俺は、ずっしりと重い赤ペンを掴んだ。


「選手寮の食費は、一円たりとも削らない」


 海老名の肩から、強張った力が抜けた。


「遠征のホテルも次戦までは死守する。スタジアムの手すりは予定通り直せ。役員報酬の返上とフロント手当の一時返上案は、白鳥の確認が取れ次第、合意を前提に進める。俺のオーナー報酬はゼロだ」


「最初から設定すらしていません」


 真白が、涙目をこらえながら即座に突っ込んだ。


「それから、足りない分は俺の個人資金から追加で補填する。ただし、無償の穴埋めはしない。クラブの帳簿に短期融資として刻め。ヴァンテールが俺に借金を返す形にする」


 氷室が初めて、銀縁眼鏡の奥の目をわずかに細めた。


「極めて厳しい返済計画を求めますが、よろしいですね」


「望むところだ。出してやる」


「利率も適正に取ります」


「一円単位で計算しろ」


「契約書を即座に巻きます」


 白鳥が、すでにノートを開いてペンを走らせていた。


「私の睡眠時間が消えました」


「すまない、白鳥」


「謝罪は結構です。勝って、利息をつけて全額回収させてください」


 氷室は、赤ペンを取り戻すと、表のいくつかの項目に紙が破れんばかりの勢いで丸をつけた。


「これで、今月末の地獄は越えられます」


 若槻が、大きく息を吐いて椅子の背に倒れ込んだ。


「越えられるんですね。本当によかった……」


「今月末は、です」


 氷室は冷酷に訂正した。


「来月は、また別の、さらに深い地獄が待っています」


 その瞬間、若槻のスマートフォンが、静まり返った会議室に鳴り響いた。


 全員の視線が、一斉に画面へ突き刺さる。


 若槻は表示を確認した瞬間、営業用の笑みを完全に消した。


「撤退予定の、メインスポンサーの担当からです」


「出ろ」


 俺が言うと、若槻は通話ボタンを押し、スピーカーに切り替えた。


「お世話になっております。ヴァンテール海浜FCの若槻です。はい。……ええ、はい。そこを何とか、一度だけでも……」


 若槻の顔から血の気が引いていく。


 短い相槌だけが、虚しく響いた。


 やがて、ぷつりと無機質な切断音が鳴り、若槻はゆっくりとスマートフォンを離した。


「何と言われた」


 氷室の問いに、若槻はすぐには答えなかった。


 ただ、提案書の角を、親指の爪が白くなるほど押し潰した。


「……『勝ってから、這いつくばって来てください』だそうです。話はそれからだと」


 誰も、すぐには息を吐けなかった。


 窓の外では、神田が呼吸を乱しながら、また泥を蹴って走り出している。


 藤代が、その走り出しを、網膜に焼き付けるように見ていた。


 氷室の資金繰り表の上で、赤い数字だけが、どこへも行けずに重く残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ