第4話 走れない司令塔
藤代誠二は、若手の背中を追わなかった。
いや、追えなかった。
翌朝の練習場には、湿った朝露と、削れた芝の匂いが立ち込めていた。片桐巧は次戦の後半を想定し、短い攻撃練習を組んでいる。
相手の足が止まった時間帯に、神田太陽を走らせる。
その確認だった。
青いビブスの中で、神田が何度も背後へ向かって走る。
一度目は早すぎた。
二度目は我慢した。
三度目は、相手役のDFが半歩だけ前へ重心を傾けた瞬間、斜めへ爆発的に消えた。
神田のスパイクが芝を抉る。
悪くない。
だが、ボールが出ない。
中盤でボールを持った若手が、相手のプレスに慌て、顔を上げて迷う。その間に、神田は無情にもオフサイドの位置まで流れていった。
「すみません!」
神田が、荒い呼吸のまま手を上げる。
片桐が容赦なく笛を吹いた。
「神田、戻れ。今のは走り出しが早い」
「はい!」
俺は、その神田ではなく、さらに後ろに立つ男を見ていた。
センターサークル付近に、背番号10が立っている。
藤代誠二。
かつては国内プロ一部リーグでも天才と呼ばれた司令塔。だが今は、走れないベテランとして、終盤に数分だけ使われる選手になっていた。
こぼれ球に、若手が猛烈な勢いで飛び込む。
藤代も反応した。
だが、一歩目が半歩遅い。
若手の蹴り上げた泥が、藤代のスパイクにかかった。
藤代は、腰に手を当てて軽く笑う。
「若いねえ。朝っぱらからそんなに走って、昼まで持つのかよ」
周囲の若手が、気を遣った曖昧な笑いを返した。
だが、誰も藤代にボールを預けようとはしない。
彼らの目が言っていた。
藤代さんのところで止まる、と。
俺の視界に、無機質な表示が浮かぶ。
【藤代 誠二】
走力:E
守備範囲:E
視野:A
ロングパス:A
テンポ管理:A
隠しスキル:静止司令塔
走れない。
守備範囲も狭い。
九十分戦える身体ではない。酷使された膝は、とっくに限界を迎えている。
だが、その目と右足だけは、まだ死んでいなかった。
俺は片桐の隣へ歩いた。
「藤代を中心に置きましょう」
片桐は、食い気味に首を振った。
「無理です」
「なぜです」
「今の藤代さんを中心に据えたら、守備の穴になります。走れない中盤が中央に立てば、相手は喜んでそこを突いてきます」
「走らせなければいい」
「オーナー、サッカーは走らない選手を置けるほど甘くありません」
「なら、ボールを走らせる」
片桐の眉が動いた。
「それを、誰がやるんですか」
「そこにいる、藤代です」
会話が聞こえていたのだろう。
藤代が、重そうな足取りでこちらへ歩いてきた。
膝をかばう歩き方なのに、背筋だけは崩れていない。
「新オーナー。朝からおじさんの悪口ですか」
「評価です」
「そっちの方が性質が悪い」
「あなた、もう全く走れませんね」
ピッチの空気が凍った。
藤代の笑みが薄くなる。
「見れば分かるでしょう。自分の身体の悲鳴は、自分が一番よく知ってる」
「誰も言わないから、ここまで落ちたんでしょう」
藤代の目が細くなった。
「若い社長さんは、ずいぶん容赦なく刺してくる」
「刺しているのは俺じゃない。現実です。俺はその場所を指さしているだけです」
「その現実で、満足に走れないベテランに、まだ値札をつける気か?」
藤代は自嘲気味に笑った。
だが、右手の親指が、左手の爪を白くなるほど押し込んでいた。
走れない悔しさを、誰よりも知っている男の手だった。
「値札ではありません」
「じゃあ、何だ」
「使い方です」
俺は、ピッチの奥で息を切らせている神田を指した。
神田がまた、背後へ走る。今度は我慢した。だが、中盤の出し手が迷い、パスは決定的に遅れた。
神田は泥まみれになりながら、また無駄走りで戻される。
「神田はどこまでも走れる。でも、ボールが出なければ、ただ脚を削るだけの無駄走りです」
「俺に、あの若いのを飼い慣らせと?」
「はい」
「無茶を言うな」
藤代の声から、軽さが消えた。
「あいつは速すぎる。速い選手ほど、パスの出し手は地獄を見る。見てから出したら遅い。勘で出したら合わない。一歩早ければオフサイド。一歩遅ければ、DFに身体ごと潰される」
「だから、あなたの目と右足が必要なんです」
藤代は黙った。
「走れないなら、走らなくていい」
俺は、その目を正面から見た。
「動かずに、そこからボールだけで試合を支配してください」
藤代の顔から表情が消えた。
「……俺を走らせるな。ボールを走らせるなら、まだやれる、か」
ほとんど独り言だった。
だが、その声には熱があった。
「簡単に言うな」
「簡単じゃない。だから、あなたが泥をすすってでもやる価値がある」
藤代は、朝露を含んだ芝をつま先で擦った。
「走れない司令塔なんて、現代サッカーじゃ骨董品だ」
「骨董品でも、正しい場所に置けば武器になる」
「やっぱり、値札をつけて売り捌く気じゃないか」
「失礼しました」
藤代は短く笑った。
冷え切った灰の奥で、まだ火が燻っているような笑みだった。
片桐がホイッスルを握り直す。
「藤代さん。一本だけでいいです。中に入ってください」
「監督まで乗るのかよ」
「プロとしての確認です」
「どいつもこいつも、戦うための言い訳だけは一級品だな」
藤代は、痛む膝を引きずるようにしてピッチ中央へ戻った。
若手たちがざわつく。
背番号10が、ギラついた目でボールを要求する姿を、彼らは初めて見たのだ。
「神田!」
藤代の声がピッチを切った。
「はい!」
「お前の脚を少しは我慢させろ。俺が顔を上げた瞬間に行くな。右の軸足が外を向いた瞬間だ。そこに突っ込め」
「軸足……!?」
「見ろ。考えるな。俺の足を見ろ!」
「はいっ!」
片桐の笛が鳴った。
ボールが藤代の足元へ入る。
藤代は動かない。本当に、一歩も動かない。
右足の裏でボールを踏み、顔を上げずに周囲の気配を読む。
相手役の若い中盤が、激しく寄せてくる。
藤代は逃げない。
膝が動かないのではない。
動かさないのだ。
プレッシャーに耐えかねた神田が走り出しかける。
「まだだ、バカ野郎!」
藤代の怒声が飛んだ。
神田が、太ももを震わせながら踏みとどまる。
次の瞬間、藤代の軸足が外を向いた。
「行け!」
神田が、弾かれたように斜めのスペースへ消える。
藤代の右足からパスが放たれた。
速すぎない。
強すぎない。
朝露の芝を滑るように、神田が次に置く一歩の先へ吸い込まれていく。
神田が全速力のまま追いついた。
トラップは少し大きい。
放ったシュートは、わずかにゴール左へ外れた。
それでも、練習場の空気はひっくり返っていた。
誰も笑わない。
若手たちは、その弾道に圧倒されて立ち尽くしている。
神田が、肩を上下させながら振り返った。
「今の……合ってましたか……!?」
藤代は両膝に手を置き、肺の奥から熱い息を吐いた。
「半歩早い。もう一つ我慢しろ」
「すみません!」
「でも、悪くない。甘いディフェンスを千切るには十分だ」
神田の顔が輝いた。
藤代は、その眩しさから逃げるように目を逸らす。
「若いな。眩しくて反吐が出る」
だが、その声は、さっきの嘲笑よりずっと熱かった。
片桐が、俺の横で小さく拳を握った。
「使える。いや、これなら戦えるかもしれません」
「ええ」
「ただし条件付きです。藤代さんを走らせない。守備のタスクを与えない。神田の脚も、壊れる手前で制御する」
「分かっています」
「分かっているなら、次は篠宮さんに怒られる覚悟をしてください。あの人はベテランの無理を絶対に許しません」
藤代が、こちらに戻りながら皮肉っぽく笑った。
「ついに医者にガミガミ怒られる年齢になったか」
「昔から怒られてただろ、お前は」
海老名が横から言った。
「ただ、若さにかまけて聞かなかっただけだ」
「余計な古いことまで覚えてるなあ」
藤代は、泥のついたユニフォームの裾で汗を拭い、ピッチの端へ歩き出した。
足取りは重い。
だが、もう腐りきった男の背中ではなかった。
練習後。
誰もいなくなったロッカールームには、湿った芝と汗の匂いがこもっていた。
神田はまだ居残りで、藤代の軸足を思い出すように、床に右足を何度も置いている。
藤代は、自分のロッカーの前でベンチに腰掛けていた。
棚の奥には、血の滲んだ古いテーピングの殻、ボロボロのインソール、色褪せた試合写真。
そのさらに奥に、埃をかぶった箱があった。
藤代は、しばらくそれを見つめた。
それから、節くれ立った指で、ゆっくりと箱を引き出す。
中には、一足の古いスパイクが入っていた。
黒地に、塗装の剥げた白いライン。
今の軽量モデルとは違う、ずっしりと重い革のスパイク。
藤代が、一番走り、一番輝いていた頃に履いていた型だった。
海老名が、入口で足を止める。
「誠二。お前、まだそれを持ってたのか」
「捨てるタイミングを、完全に逃しちまっただけですよ」
藤代は、乾いた紐に指をかけた。
ほどくわけでも、結び直すわけでもない。
ただ、その硬さを確かめている。
俺はロッカーの入口の影で立ち止まった。
声はかけなかった。
藤代は、古いスパイクを見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「走れないなら、走らなくていい、か……」
誰に向けた言葉でもなかった。
だが、その掠れた声には、完全な諦めだけではない、未練と執念が混じっていた。
藤代は、箱の蓋を閉めなかった。




