第3話 監督は首を縦に振らない
片桐巧は、背番号31の磁石を戦術ボードの上に置いたまま、五秒ほど動かなかった。
右サイド。
中央。
最前線。
どこに置いても、指先が止まる。
最後に、片桐は小さく息を吐いて、その磁石をボードの端へ戻した。
ベンチの位置だった。
「次戦、神田太陽を使う」
俺が言うと、片桐の肩がわずかに強張った。
映像室の隣にある小さな戦術室は、空調が古い。ホワイトボードの隅には、消し残したラインが薄く残っている。机の上には、前節の試合映像を止めたままのノートパソコンと、半分だけ冷めた紙コップのコーヒーがあった。
「使う、というのは」
「後半からでいい」
「先発じゃないだけで、十分乱暴です」
片桐は、背番号31の磁石から指を離さなかった。
「理屈は分かります。神田の裏抜けは武器になる。スタミナもある。相手の足が止まった時間なら、背後を取れる可能性はある」
「なら」
「でも、それをやるのは画面の駒じゃなくて、生身の選手です」
片桐の声は、会見場で聞いた時よりも硬かった。
「神田は、外したあとに落ちます。笑われると、次の一本で余計に力みます。練習で一回できた動きを、公式戦で同じように出せるほど器用な選手じゃありません」
「だから練習で型を絞る」
「型だけで済むなら、誰も苦労しません」
ドアが乱暴に開いた。
入ってきたのは、短髪の男だった。
くたびれたスーツ。胸元のクラブバッジだけは、妙に綺麗に磨かれている。
海老名修。
強化部長。
旧フロント側の生き残りで、選手の契約も生活も、長年このクラブで見てきた男だ。
「話は聞いた」
海老名は、俺を見るなり言った。
「神田を使うって?」
「候補です」
「便利な言い方だな」
海老名は、戦術ボードの端に置かれた背番号31を見た。
「あいつは便利な駒じゃねえ。自信を折ったら終わるぞ」
片桐は止めなかった。
むしろ、助かったような顔を一瞬だけした。
「海老名さん」
俺は椅子から立ち上がる。
「神田を潰すつもりはありません」
「潰すつもりで潰す馬鹿はいない」
海老名の声が低くなる。
「あいつはな、毎日一番最後まで走ってる。でも、試合に出られない。ベンチにも入れない。周りからは『走るだけ』って言われてる。本人も分かってるんだよ。足元が下手で、シュートが下手で、プロとして足りないって」
海老名は、ボードの磁石を指で弾きそうになって、やめた。
「そこへ新オーナーが来て、『お前の武器を見つけた』って言う。本人は嬉しいだろうな。死ぬほど嬉しい。だから余計に危ない。期待された分だけ、外した時に折れる」
部屋が静かになった。
古い空調の音だけが残る。
俺は神田の表示を思い出す。
【神田 太陽】 総合値:23 裏抜け:S スタミナ:S 隠しスキル:ラインブレイカー
数字だけなら簡単だ。
使えばいい。
走らせればいい。
だが、その数字の下にいるのは、笑われても走り続ける二十歳の選手だった。
「成瀬さん」
片桐が言った。
「勝つためでも、選手が壊れるラインは越えません」
「神田は怪我をしているわけではない」
「心も折れます」
海老名が続ける。
「それに、契約もある。神田は今年が勝負だ。ここで使い方を間違えたら、次の契約に響く。クラブは人件費を削りたい。分かってる。だが、選手には生活がある。契約書の前に、人生があるんだよ」
その言葉には、旧フロント側の人間としての負い目も混じっていた。
勝てないクラブで、選手に十分な環境を用意できなかった男の声だった。
俺は、ホワイトボードの前に立つ。
赤い磁石が相手DF。
青い磁石がヴァンテール。
背番号31は、まだベンチの位置にある。
「先発はしない」
俺が言うと、片桐と海老名が同時にこちらを見た。
「次戦、後半限定。相手の足が止まった時間帯。神田には、背負わせない。足元で受けさせない。ボールを触る回数を減らす。相手の最終ラインの背中だけを狙わせる」
片桐が目を細める。
「時間は」
「十五分」
「十五分でも長い」
「では、何分なら現場として許容できますか」
片桐は黙った。
海老名が腕を組む。
「十だ」
片桐が少しだけ眉を動かした。
海老名は続ける。
「十数分なら、まだいい。だが、流れが悪いからって前倒しするな。神田を救世主扱いするな。試合後の取材にも出すな。使うなら、あいつが失敗しても逃げ道を残せ」
俺は頷いた。
「分かった」
「軽いな」
「軽くはない」
俺は背番号31の磁石を、ベンチから少しだけピッチの脇へ動かした。
「十から十五分。起用条件は片桐監督が決める。海老名さんは神田本人への説明に同席してください。俺一人では言葉が強すぎる」
海老名が、初めて少しだけ表情を変えた。
「自覚はあるのか」
「あります」
「じゃあ、直せ」
「努力します」
「そこは即答しろ」
片桐が、小さく息を漏らした。
笑ったわけではない。
ただ、張っていた糸が少しだけ緩んだ。
「成瀬さん」
「はい」
「神田の起用は、私が最終判断します」
「構いません」
「試合展開によっては、使いません」
「構いません」
「それでも、後から『なぜ使わなかった』とは言わないでください」
「言いません」
片桐は、疑うように俺を見た。
俺はその視線を受け止める。
「俺は勝ち筋を見ます。でも、ピッチの中で選手の顔を見るのは監督です」
片桐の指が、戦術ボードの端で止まった。
「……そういう言い方を、最初からしてください」
「善処します」
「そこも即答してください」
海老名が低く言った。
今度は、片桐が少しだけ笑った。
だが、その笑いはすぐに消えた。
「練習メニューを変えます」
片桐は、青い磁石を二つ動かした。
「神田単体では使えません。出し手が必要です。彼が走るタイミングを見て、迷わず出せる選手がいないと、ただの空走りになります」
「候補は」
「藤代です」
片桐は、中盤の位置に古びた青い磁石を置いた。
背番号10。
藤代誠二。
「ただし、今の藤代は走れません。守備の戻りも遅い。九十分は無理です」
海老名が苦い顔をした。
「藤代まで掘り返すのか」
「掘り返す価値はあります」
俺の視界の端に、まだ開いていない選手一覧が浮かんだ。
藤代誠二。
かつてクラブの中心だった男。
今は、走れないベテランとして扱われている。
だが、片桐は名前を出した。
それだけで十分だった。
「まずは神田です」
片桐が釘を刺す。
「藤代の話は、その後にしてください」
「分かりました」
海老名が鼻を鳴らした。
「分かった、が多いな。新オーナー」
「今日は覚える日です」
「なら覚えろ。選手は、数字より面倒だ」
「はい」
その時、戦術室の外から小さな音が聞こえた。
ボールが転がる音。
片桐が振り返る。
窓の向こう、照明の落ちた練習場に、ひとりだけ人影が残っていた。
神田太陽だった。
誰もいないピッチで、彼はボールを蹴っていない。
練習用ポールを四本並べ、その手前に白いラインを引いている。
一本目のライン。
半歩下がる。
片桐が昼間に教えた位置。
そこから一度逆へ動き、ポールの背後へ回り込む。
だが、神田はシュートを打たなかった。
途中で止まり、地面を見た。
また戻る。
今度は半歩だけ位置を変える。
逆へ動く。
止まる。
戻る。
繰り返している。
片桐が、ほとんど息だけで言った。
「オフサイドラインを確認している」
海老名が黙った。
俺も何も言わなかった。
神田は誰に見せるためでもなく、ラインの手前で止まり、背後へ抜ける一歩を繰り返していた。
一歩目。
戻る。
二歩目。
戻る。
背中で勝て。
その言葉を、あの不器用な若手FWは、自分の足で測っていた。
片桐は戦術ボードに戻り、ベンチ脇に置いていた背番号31の磁石を見た。
しばらく迷った後、ピッチの端へ、ほんの少しだけ近づける。
「首を縦に振ったわけじゃありません」
片桐は言った。
「ただ、完全に横でもなくなりました」
その夜の練習場に、ボールの音はなかった。
ただ、ラインを踏まないように走るスパイクの擦れる音だけが、何度も、何度も、暗い芝の上に残っていた。




