第2話 総合値23のFW
「正式な撤退通知です」
真白の声が、旧社長室の湿った空気を切った。
窓の外では、背番号31がまだ走っている。神田太陽。シュートを外し、頭を下げ、また走る。
だが、机の上にあるのはボールではない。
メインスポンサー撤退通知。
白い画面に表示された件名は、クラブの喉元に差し込まれた刃だった。
五分後。
旧会議室の長机に、財務資料、契約書、スポンサー提案書が並んだ。
最初に口を開いたのは、財務責任者の氷室圭吾だった。黒いファイルを開き、赤ペンで囲んだ数字を指で叩く。
「八千四百万円です」
声は低く、冷たい。
「今月末の不足額です。選手給与、遠征費、練習場補修費。どれも支払いを飛ばせません。スポンサー撤退が確定した以上、追加で一億二千万の穴が開きます」
数字は嘘をつかない。
だが、助けてもくれない。
「成瀬さん」
氷室は俺を見た。
「今、練習場へ行くなら止めません。ただし、神田太陽がどれだけ走っても、この不足額は一円も埋まりません」
隣で、白鳥千景が契約書を閉じた。法務・ライセンス担当らしく、声に熱はない。
「先方の撤退は、契約上は止めにくいです。更新拒否に近い形ですから」
「違約金は?」
「取れても限定的です。こちらが感情的に押し返せば、先方は『クラブの信用毀損』を主張できます」
白鳥は、契約書の一文を指で押さえた。
「攻めるなら、言葉を選んでください。スポンサーに出すのは夢ではなく、数字と期限と露出効果です」
若槻航は、会議室の隅で汗を拭いていた。
営業用の笑顔は残っている。だが、目の下だけが疲れていた。手元の提案書の角は、指の力で白く折れている。
「先方には行きました。受付で止められましたけどね」
軽い口調だった。
けれど、笑ってはいなかった。
「資料だけ置いて帰ってください、って。夢は聞き飽きた、勝ってから来い、だそうです」
会議室が静かになる。
勝ってから来い。
最下位クラブにとって、一番残酷で、一番正しい言葉だった。
「なら、勝つための材料を持っていく」
氷室の眉が動いた。
「材料?」
「スポンサーは謝罪では戻らない。未来を見せる必要がある」
「未来で給与は払えません」
「分かっている」
俺は窓の外を見た。
背番号31が、またボールを追っている。
「だから、金の話と同時に、勝てる形を作る。若槻、先方にもう一度だけ時間を取れ。十分でいい」
「十分で、何を見せるんです?」
「このクラブが変わる証拠だ」
「証拠、ですか」
若槻は笑おうとして、失敗した。
「スポンサーが見てるのは勝ち点だけじゃありません。看板の前を何人が通るかです。広告効果、露出、地域評判、来場者数。向こうはそこを見ます」
「だから、夢は売らない。勝ち点と客入りにつながる変化を売る」
白鳥が短く言った。
「その表現なら、法務上はまだ戦えます」
氷室は赤ペンを置いた。
「私は支払い日を動かせません」
「動かさなくていい」
俺は立ち上がった。
「片桐監督を呼ぶ。練習場へ行く」
氷室がため息をついた。
「八千四百万円の穴を背負ったままです」
「背負ったまま行く」
若槻が提案書を持ち直した。
「じゃあ、俺も見ます。スポンサーに持っていく“証拠”ってやつを」
練習場の芝は、近くで見るほどひどかった。
ライン際は踏み荒らされ、ところどころ土が出ている。照明は古く、片側だけ暗い。
神田太陽は、まだボールを追っていた。
クロスに合わせようとして空振りする。
次はトラップが大きくなる。
その次はシュートをふかす。
先輩選手の一人が、疲れた声で笑った。
「太陽、もういいだろ。ネットの向こうに鳥でも落とす気か」
「す、すみません!」
神田は頭を下げ、ボールを拾いに走った。
足元にボールが入るたび、体が硬くなる。シュートの瞬間に上体が浮く。焦っているのが、遠くからでも分かった。
だが、ボールが足元から離れた瞬間だけ、別人になる。
一歩目が速い。
相手の視界から消える角度へ入る。
誰よりも先に、こぼれ球へ届く。
【神田 太陽】
年齢:20
ポジション:FW
総合値:23
技術:E
決定力:D
裏抜け:S
スタミナ:S
隠しスキル:ラインブレイカー
総合値二十三。
この数字だけなら、切られてもおかしくない。
だが、裏抜けとスタミナだけは、最下位クラブの中で異物のように光っている。
「神田」
俺が声をかけると、神田はびくりと肩を跳ねさせた。
「は、はい!」
片桐が低く言った。
「練習中です。選手をいきなり呼びつけないでください」
「一分で済ませる」
「その一分で折れる選手もいます」
静かな怒りだった。
俺は神田の前に立った。
泥のついた練習着。何度も結び直したスパイクの紐。膝の上に置いた手が、細かく震えている。
「神田太陽」
「はい」
「お前は下手だ」
空気が止まった。
神田の顔が白くなる。
片桐が一歩前へ出た。
「成瀬さん」
「足元で勝つな」
俺は続けた。
「トラップで魅せるな。背負って受けるな。相手の前でボールを触ろうとするな。お前がそこで勝とうとすると、全部負ける」
神田の唇が震えた。
「でも、お前は走ることをやめていない」
神田が、初めて俺を見た。
「外しても走る。笑われても走る。味方が諦めたこぼれ球にも走る。そこだけは、誰にも渡していない」
神田の喉が動いた。
「お前は下手だ。だから足元で勝つな。背中で勝て」
「……背中、ですか」
「相手DFの背中だ。目の前で受けるな。相手の視界から消えろ。お前が一番生きるのは、ボールを持った時じゃない。ボールが出る前だ」
片桐が口を挟む。
「理屈は分かります。でも、試合では相手もラインを動かします。神田はそれを見すぎる。見ている間に、ボールを見失う」
「だから、見るものを減らす」
「簡単に言わないでください」
「簡単じゃない。だから練習する」
俺はボールを拾い、片桐に渡した。
「監督、出し手をお願いします」
「……俺にやらせるんですか」
「あなたのボールで動けないなら、試合で動けるわけがない」
片桐はしばらく俺を睨んだあと、ボールを足元に置いた。
練習用ポールを最終ライン役にして、神田がその横に立つ。
「神田。ライン上に立つな。半歩下がれ」
「え、でも、裏を狙うなら」
「下がれ」
神田は慌てて半歩下がる。
「一度目で行くな。監督が顔を上げた瞬間に、逆へ動け。相手に『そっちへ行く』と思わせろ」
神田はぎこちなく頷いた。
「二度目で背中を取れ」
片桐がボールを見る。
顔を上げる。
神田が逆へ動く。
遅い。
だが、止まらない。
二歩目で角度を変え、ポールの背後へ抜けた。
片桐のパスが出る。
神田の足元から、少し遠い。
普通のFWなら、受けにくいボールだ。
神田は追いついた。
追いついて、シュートを大きく外した。
ボールは、防球ネットへ突き刺さる。
周囲から笑いが漏れかけた。
だが、神田はすぐに振り返っていた。
自分がどこから走り、どこでボールを受け、どこで体が開いたのか。息を切らしながら、芝の上の足跡を見ている。
「今の、もう一回やらせてください」
声は小さい。
だが、逃げていない。
「最初の動きが遅かったです。あと、蹴る時に体が開きました。もう一回だけ、お願いします」
二本目で、逆へ動く一歩が少し速くなった。
三本目で、片桐の顔から苛立ちが消えた。
四本目も、シュートは外れた。
それでも神田は立ち止まらない。受けた位置へ戻り、自分の足跡を見て、また半歩下がった。
五本目を求める前に、片桐が手を上げた。
「終わりだ」
「でも、監督」
「終わりだ。脚が流れ始めている。そこで続けても、覚えるのは悪い癖だけだ」
神田は唇を噛んだ。
悔しそうだった。
だが、従った。
「神田」
俺は声をかけた。
「お前は今、下手なままだ」
「……はい」
「でも、下手なままでも武器はある。足元で勝てないなら、走る場所で勝て。明日から、それだけを磨け」
神田は深く頭を下げた。
その背中は、さっきより少しだけ大きく見えた。
練習後。
映像室の隣にある小さな戦術室で、片桐はホワイトボードの前に立っていた。
古いマグネットが並んでいる。
赤が相手。
青がヴァンテール。
片桐は背番号31の小さな磁石を指先でつまんだ。
右サイドに置く。
首を横に振る。
中央に置く。
また、首を横に振る。
俺は黙って見ていた。
片桐は、神田を使えない理由を探しているのではない。
神田を壊さずに使える場所を探している。
「成瀬さん」
片桐は磁石を手にしたまま言った。
「今日の動きだけなら、確かに武器になる。ですが、公式戦は違います。相手DFはポールじゃない。削ってくる。罵ってくる。神田は一度外すと、肩が落ちる」
「分かっています」
「分かっているなら、今すぐ答えを出さないでください」
片桐は、背番号31の磁石をボードの端へ置いた。
ベンチの位置。
「次戦、先発は無理です」
「後半なら?」
「十五分。相手の足が止まった時間帯。リードされていても、同点でも、使う条件は限定します」
「十分です」
「十分じゃありません」
片桐は、今度こそ正面から俺を睨んだ。
「これは勝つためだけの十五分じゃない。神田の選手生命を折らないための十五分です」
俺は小さく頷いた。
「なら、その十五分を作りましょう」
片桐は返事をしなかった。
ただ、ボードの端に置いた背番号31の磁石を、もう一度だけ指で押さえた。
その時、戦術室の扉が開いた。
若槻が立っていた。
営業用の笑顔は消えている。手にしている提案書の角が、折れて白くなっていた。
「成瀬さん。先方から連絡が来ました」
「会えるか」
「会えます」
若槻は、笑おうとして失敗した。
「ただし条件付きです」
「条件?」
「次のホームゲームで、観客動員が前節を下回ったら、その場で完全終了。面談もなし。広告枠も返上。地域イベントの協賛も切るそうです」
若槻は提案書を握り直した。
「向こうが見ているのは、勝ち点だけじゃありません。看板の前を、何人が通るかです」
戦術ボードの上で、背番号31の磁石が小さく揺れた。
「勝つだけじゃ足りません」
若槻の声は、さっきよりずっと低かった。
「客を戻さないと、このクラブは本当に終わります」




