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二部最下位の泥舟サッカークラブを買い取った俺、クラブビルドシステムで世界一のメガクラブに育て上げる  作者: 園路 遥々


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第1話 泥舟を買った男

 パチン、と乾いた音が会見場に響いた。


 机に叩きつけられたのは、刷り上がったばかりの号外だった。薄い更紙の端が、古びた空調の風で震えている。


『若き投資家、二部最下位クラブを買収』


『サッカーを金で弄ぶのか』


 成瀬隼人。二十九歳。


 データ分析会社を売却し、投資で資産を築いた実業家。今日から、国内プロ二部リーグ最下位を這うヴァンテール海浜FCの新オーナーになる男だ。


 記者席の一列目で、地元紙のベテラン記者がボールペンを回していた。机の上では録音機が二台、赤い光を灯している。


「成瀬さん」


 男は、わざと椅子を鳴らして立った。


「なぜ、この泥舟を買ったんですか?」


 隣の旧社長の指先が、マイクの横で強張った。


 会見場の後方には、数人のサポーターが腕を組んでいる。色褪せた青緑のマフラー。端はぼろぼろにほつれていた。


 即席の横断幕には、黒い油性マジックで書かれている。


『サッカーをおもちゃにするな』


 その文字を見た瞬間、右足の甲に古い痛みが戻った。


 名門ユースの人工芝。雨で濡れたスパイク。俺より一学年下の本物の天才が、何気ないトラップ一つで練習場の空気を変えた午後。


 努力はした。相手DFの癖をノートに書き、裏へ抜ける一歩のタイミングを何度も数えた。だが、最後の一枚には選ばれなかった。


 才能の壁は、殴っても音がしない。


 俺はマイクを引き寄せた。


「沈む船を買ったつもりはありません」


 フラッシュが一斉に光った。


 記者が口角を上げる。


「では、勝てると?」


「今のままなら、絶対に勝てません」


 旧社長が小さく息を呑んだ。


「一勝四分十敗。勝点七。得点不足、守備崩壊、観客動員の低迷、メインスポンサーの撤退予告、累積債務。今月末には選手給与と遠征費の支払いも重なる。来期のプロクラブライセンス維持にも赤信号が灯っている。数字だけを見れば、このクラブはすでに死んでいます」


「ずいぶん冷淡ですね」


「冷たく聞こえるなら、まだ耳は正常です。現場はもっと凍っています。ロッカールームも、芝の禿げた練習場も、スポンサー企業の応接室も」


 後方のサポーターが、低い声を飛ばした。


「勝たせるって言葉、俺たちは何回聞かされたと思ってる」


 会場がざわつく。


 警備員が動きかけたが、俺は手で制した。


「社長が替わるたびに聞いた。監督が替わるたびにも聞いた。補強のたびにも聞いた。で、今は最下位だ」


「だから、最初に結果を約束しません」


 男の眉が動いた。


「逃げるのか」


「違います。約束するのは順番です。勝てない理由を隠さない。使える選手を見捨てない。金の使い道を間違えない」


 俺は横断幕から目を逸らさなかった。


「怒る権利は、あなたたちにあります。チケットを買い、雨の日もスタンドに残り、惨敗の帰り道でもそのマフラーを外さなかった人間にだけ、怒る資格がある」


 空調の音だけが、会見場に残った。


 だが、媚びる気はない。


「ただし、俺は謝罪するためにこのクラブを買ったんじゃない。勝たせるために買ったんだ」


「現場を知らない投資家が、どうやって?」


「金だけで勝てるなら、このクラブはもっと前に黄金期を迎えていたはずです」


 記者のペンが止まった。


 左隣で、有栖川真白が資料の端を揃える。俺の秘書であり、失言を止める最後の防波堤でもある。


 その彼女が止めない。


 まだ燃やしていい範囲ということだ。


「サッカーで勝つために必要なのは、正しい配置と、正しい使い方です。選手が何を怖がり、何を諦め、どこなら足を出せるのか。それを見極める必要がある」


 言いながら、喉の奥に苦い笑いが込み上げた。


 どの口が言う。


 俺は選手として、その配置にすら選ばれなかった男だ。だからこそ、才能が足りない人間の苦しさも、才能を持ちながら置き場所を間違えられて腐る選手の惨めさも分かる。


「監督人事について伺います」


 別の記者が手を挙げた。


「片桐監督は続投ですか?」


 会見場の左端、パイプ椅子に浅く座っていた男の肩がわずかに跳ねた。


 片桐巧。三十二歳。


 前監督の辞任で内部昇格した若手監督。負け続けた責任を背負わされ、解任論の的になっている。


 片桐は俺を見なかった。膝の上で組んだ指の爪が、白くなるほど押し合っている。


「現時点で、片桐監督を解任する予定はありません」


 会場がざわついた。


「最下位の監督ですよ?」


「知っています」


「十敗しています」


「全試合、映像で確認しました」


「では、なぜ?」


「監督一人の首を切れば、メディアもサポーターも一時は満足するでしょう。ですが、それで次の試合の勝点は増えません」


 片桐の指が止まった。


「今必要なのは、誰かを吊るすことではない。勝てるピースを、勝てる形に組み替えることです。片桐監督には、その実務を全うしてもらう」


 片桐が顔を上げた。


 その目にあったのは、感謝ではない。


 警戒だった。


 それでいい。この状況で、初対面の経営者を簡単に信じる監督なら、俺は本当に首を切っている。


 会見後、旧社長室に通された。


 湿った紙の匂いと、古い埃が沈んでいる。窓の外の練習場は、夏場なのに芝がところどころ剥げ、茶色い土が露出していた。ゴールネットの隅には、紐で括った補修跡が三つある。


 スタジアムへ続く通路では、色褪せたスポンサー看板が斜めに傾いていた。


「成瀬様、最終確認です」


 真白がホルダーを差し出す。


「こちらに署名をいただいた時点で、手続きは完了します」


「いまさらだが、逃げ道は?」


「ありません。正確には、ここで拒否した場合、違約金、世論、サポーターの怒りを素手で受け止めることになります」


「いい秘書だ」


「褒め言葉として処理しておきます」


 その時、真白のスマートフォンが短く震えた。


 彼女は画面を見て、眉を寄せる。


「氷室からです。財務資料の速報が来ました」


「読め」


「今月末の支払い不足見込み、八千四百万円。遠征費、選手給与、練習場補修費の一部。スポンサー撤退が正式通知になれば、追加で一億二千万の穴が開きます」


 旧社長が視線を伏せた。


 真白は画面を閉じずに続ける。


「それと、氷室から伝言です。足りないのは資金だけではありません。信用です、と」


 俺は万年筆のキャップを外した。


「分かった」


「軽く受け止める額ではありません」


「軽くはない。だから、逃げない」


 契約書の最下部。


『ヴァンテール海浜FC・株式譲渡契約書』


 譲受人欄に、成瀬隼人とサインを走らせた。


 その瞬間だった。


 視界の端が青白く明滅した。


 立ちくらみかと思った。だが違う。


 何もない宙に、半透明の文字が浮かび上がっている。


【クラブビルドシステム・起動】


■ 所属クラブ:ヴァンテール海浜FC

■ 所属リーグ:国内プロ二部リーグ

■ 現在順位:最下位

■ 累計成績:1勝 4分 10敗

■ 現在勝点:7

■ クラブランク:E

■ サポーター熱量:5%

■ ビルドポイント:0 BP


 万年筆の先から、黒いインクが吸い取り紙に落ちた。


 真白が片方の眉を上げる。


「成瀬様?」


「……問題ない」


 嘘だ。


 問題しか起きていない。


 だが、心臓は落ち着いていた。


 空中の表示は、俺の視線に合わせるように下へ流れる。


【緊急課題】


・メインスポンサー撤退

・累積債務

・今月末支払い不足

・プロクラブライセンス維持危機

・得点力不足

・守備崩壊

・サポーター不信

・練習環境の劣化


 乾いた笑いが喉まで上がった。


 ここまで救いがないのか。


 それなのに、胸の奥は冷えなかった。


 才能の壁に敗れ、スパイクを捨てた日。誰にも見せずに書き続けた戦術ノート。無駄だったはずの時間が、今、目の前の画面と噛み合っていく。


「真白。トップチームの選手一覧を」


「はい?」


 俺は机の上のタブレットを起動した。強化部の名簿が表示されるより早く、視界の中に別の一覧が展開される。


 平均年齢が高すぎる守備陣。


 エゴだけが空回りする前線。


 両膝に不安を抱えたベテラン。


 監督への不満を隠さない控え組。


 どれも、最下位の縮図だった。


 だが、一人だけ表示が歪んで光っていた。


【神田 太陽】


年齢:20

ポジション:FW

総合値:23

技術:E

決定力:D

裏抜け:S

スタミナ:S

隠しスキル:ラインブレイカー


 総合値、二十三。


 二部リーグのベンチに置くのもためらう数字だ。足元は下手。シュートも粗い。普通なら、戦力外候補の若手で終わる。


 だが、裏抜けS。スタミナS。


 その二項目だけが、異様に強く光っている。


 俺は椅子を引いて立ち上がり、窓の外を見下ろした。


 西日の差すピッチで、背番号31の若い選手が居残りでシュートを打っていた。


 神田太陽。


 ボールはゴールのはるか上を越え、防球ネットに突き刺さった。先輩選手たちが呆れたように笑う。本人は何度も頭を下げ、泥のついた練習着のまま、次のボールへ走った。


 その走り方だった。


 一歩目で、上半身の軸がぶれずに前へ出る。


 二歩目で、相手DFの視界から消える角度へ入る。


 三歩目で、もう背中を取っている。


 足元は致命的に下手だ。シュートのインパクトも狂っている。


 だが、あの予備動作のない推進力と、何度失敗しても落ちないスプリントは死んでいない。


 誰も、使い方を知らないだけだ。


 ドアが乱暴にノックされた。


「失礼します」


 入ってきたのは片桐だった。


 会見場で見た時より、さらに顔色が悪い。ネクタイの結び目が少し曲がっている。


「新オーナー」


「成瀬でいい」


「なら、成瀬さん」


 片桐は窓の外を見ずに言った。


「現場に口を出す気ですか」


 真白のペンが止まった。


「出す」


 片桐の目が細くなる。


「なら、監督は要らない」


「違う。俺は勝ち筋を提示する。使うかどうかは、あなたが決める」


「数字で選手を並べ替えれば勝てると思っているなら、今すぐ帰った方がいい。神田は真面目です。走ります。でも、試合になると慌てる。シュートはふかす。ラインを見すぎて、肝心のボールを見失う」


「知っている」


「知っていて使えと?」


「使えとは言っていない。見ろと言っている」


 俺は窓の外を指した。


 神田がまたシュートを外した。


 今度は笑いが起きなかった。


 外した本人が、誰よりも速くこぼれ球へ突っ込み、先輩選手の足元からボールを奪い返したからだ。


 片桐の表情が、一瞬だけ動いた。


 気づいていないわけではない。気づいていて、使い切れずにいた顔だ。


「神田は下手だ」


「分かっています」


「だが、走る場所だけは武器になる。足元で受けさせるな。背負わせるな。ボールを触る回数を減らせ」


 俺は窓の外を見た。


「出し手が顔を上げた瞬間だけ走らせる。一度目で釣って、二度目で背中を取らせろ。相手の最終ラインに、神田の足音だけを意識させる」


 片桐は何も言わなかった。


 ただ、窓の下で走る神田を見ていた。


「次の試合で使えとは言わない。まずは練習メニューを変える。映像も全部見る。あなたの戦術ボードと、俺のデータを突き合わせる」


「それで勝てなかったら?」


「俺も責任を負う」


 片桐が、初めて俺を正面から見た。


「オーナーの責任なんて、現場には見えません」


「なら、見える形にする。補強費も、練習環境も、スポンサーへの頭下げも、俺が持つ。あなたはピッチの中で責任を持て」


 窓の外では、神田が膝に手をついて息をしている。ボールが転がるたび、また走った。


 片桐が低く言う。


「……映像室を開けます。今夜、全部見るなら付き合います」


「助かる」


「信じたわけじゃありません」


「それでいい」


 真白が手帳にペンを走らせた。


「では、主要スポンサーへの挨拶、旧役員との引き継ぎ、財務責任者との面談、すべて組み替えます」


「怒る相手が増えるな」


「すでに一覧化しています。優先的に怒らせる順番も決めます」


 窓の外、夕闇が迫るピッチで、神田太陽がまた走り出した。


 誰もが、このクラブを沈む船と呼ぶ。


 だが、俺は沈むためにここへ来たわけじゃない。


 このクラブを走らせる最初の一歩は、もう見つかった。


 その直後、机の上に置かれた真白のスマートフォンの画面が、通知音もなく白く点いた。


 彼女は件名を見て、指を止める。


「成瀬様」


「何だ」


「メインスポンサーからです。撤退予告ではありません」


 真白が、乾いた声で言った。


「正式な撤退通知です」

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