第10話 勝っていないのに、変わった
翌朝、映像室の空気は重かった。
勝っていないからだ。
試合結果は、0-0。
累計成績は、一勝五分十敗。
勝点は八。
順位表の一番下に、ヴァンテール海浜FCの名前はまだ沈んでいる。
だが、久我晴臣のタブレットには、順位表とは別のものが映っていた。
「ここです」
久我は、映像を止めた。
画面の中で、神田太陽はボールに触れていない。
ただ、相手CBの背後へ走り出そうとしているだけだ。
その瞬間、相手CBの左足が、ほんの半歩だけ後ろへ引かれていた。
片桐巧が、画面に指を伸ばした。
「ここです。神田が触っていないのに、相手が下がっている」
映像室にいた全員が、黙って画面を見た。
神田は、椅子の上で肩を縮めている。
昨日、三度オフサイドになり、四本目でやっとラインを破った男だ。
「でも、俺、決めてないです」
小さな声だった。
藤代誠二が隣で鼻を鳴らした。
「点を取ってから偉そうに言え」
「すみません」
「謝るな。まだ何も褒めてない」
神田は困った顔をした。
久我は気にせず、次の画面を出した。
「神田投入前、相手最終ラインの平均位置はセンターラインから三十八・二メートル。投入後は三十五・一メートルまで下がっています」
数字だけなら、三メートル。
だが、ピッチでは違う。
三メートル下がれば、中盤に息を吸う場所ができる。
藤代が前を向く時間が、一拍だけ増える。
サイドの選手が、身体を開く余裕を持てる。
「藤代さんの前方パス成功率も変わっています」
久我は、指先でグラフを拡大した。
「投入前は三十一パーセント。投入後は五十二パーセント。神田がボールに触った回数は少ないですが、相手が神田を警戒したことで、藤代さんの前に通す線が残りました」
藤代が、少しだけ顔をしかめた。
「数字にされると、気分が悪いな」
「事実です」
「もっと悪い」
久我は表情を変えなかった。
「セカンドボール回収位置も前進しています。投入前は自陣寄り。投入後は中央やや前。相手CBが下がり、中盤の押し上げが遅れた影響です」
片桐は映像を巻き戻した。
後半四十一分の場面。
神田を警戒して相手CBが半歩下がる。
その半歩で、藤代の前に小さな空間ができる。
藤代が短く刺す。
右サイドが前を向く。
クロス。
中央のFWが合わせる。
枠の上。
決まらなかった場面だ。
片桐は、そこで映像を止めた。
「点にはなっていません。でも、これは偶然じゃありません」
神田が画面を見る。
自分はボールに触れていない。
それでも、相手CBがこちらを見ている。
自分の走る場所を、気にしている。
「俺、邪魔してるだけじゃなかったんですか」
神田がぽつりと言った。
藤代が眉を寄せる。
「邪魔だよ」
「えっ」
「相手にとってはな」
藤代は、画面の中の相手CBを指した。
「あいつは前半、こっちのFWを見下ろしてた。後半、お前が入ってから背中を見始めた。DFが背中を気にしたら、もう半分負けてる」
神田の喉が動いた。
「でも、俺は三本もオフサイドで」
「三本も旗を上げたから、四本目であいつは下がった」
藤代の声は厳しい。
だが、昨日より少しだけ温度があった。
「勘違いするなよ。褒めてるわけじゃない。遅い。下手だ。決められない。でも、相手は嫌がった」
神田は、悔しそうにうつむいた。
それから、すぐに顔を上げた。
「次は、一本目から待ちます」
「言うだけなら誰でもできる」
「やります」
「なら、今日の練習で三十回待て」
「はい!」
片桐が咳払いをした。
「三十回はやりません」
「監督」
「昨日の試合明けです。疲労を見ます」
藤代は肩をすくめた。
「現場は厳しいねえ」
「あなたも別メニューです」
「俺まで?」
「当然です」
藤代は黙った。
ロッカーでは強かった男が、メディカルと監督の前では少しだけ弱い顔をする。
成瀬は、そのやり取りを黙って見ていた。
システムの表示が、視界の端に浮かぶ。
【クラブビルドシステム】
■ 試合結果:0-0
■ 勝点:7 → 8
■ サポーター熱量:5% → 7%
■ 神田太陽:裏抜け実戦適応・微上昇
■ 藤代誠二:前方パス連携・微上昇
■ BP:0 → 5
たった五。
勝利ではない。
覚醒でもない。
それでも、ゼロではなかった。
だが、成瀬は表示をすぐに閉じた。
今ここで見るべきものは、画面の数字ではない。
映像の中で、相手CBが後ろを見た瞬間。
神田が悔しさを飲み込んで顔を上げた瞬間。
藤代が「次は一本目から待て」と言った瞬間。
そちらの方が、今のクラブには重い。
映像室の扉が開いた。
若槻航が顔を出す。
「ちょっといいですか」
片桐が映像を止める。
「スポンサーですか」
「はい」
若槻は、いつもの軽い調子に戻そうとして失敗していた。
手にしたスマートフォンの画面を、成瀬へ向ける。
「昨日の面談条件、残りました。正式に、十五分だけ会うそうです」
神田が小さく息を呑んだ。
若槻は続ける。
「ただし、向こうの担当者から一言ありました」
「何と」
「勝っていない。だが、前よりは見ていて腹が立たなかった、だそうです」
映像室が少しだけ静かになった。
褒め言葉ではない。
むしろ、ひどい言い方だ。
だが、ヴァンテールにとっては、今までより一歩前だった。
「あと、観客数です」
笹原美月が、若槻の後ろから入ってきた。
手には入場者データの紙がある。
「前節比プラス十人。数字だけ見れば誤差です。でも、ゴール裏の退場時間が変わりました」
「退場時間?」
「試合終了後、すぐに帰った人が減っています。昨日は、ゴール裏の一部が最後まで残りました。拍手も出ました」
笹原は、一枚の写真を机に置いた。
空席の両隣に座っていた二人の男が、ピッチへ向かって拍手している写真だった。
真ん中の席は、空いたままだ。
神田がその写真を見つめた。
「この人たち……」
「あなたの名前を呼んでいました」
笹原は言った。
「怒っていました。でも、名前を呼んでいました」
神田は、何度も瞬きをした。
「俺、点取ってないのに」
「だからでしょう」
笹原の声は柔らかかった。
「点を取ったから名前を呼んだんじゃありません。走ったから呼んだんです」
神田は、膝の上で拳を握った。
片桐はそれを見て、少しだけ目を細める。
「浮かれるなよ、神田」
「はい」
「名前を呼ばれた選手は、次にもっと見られる」
「……はい」
「昨日の一本で許されたわけじゃない。次は、昨日より厳しく見られる」
神田の顔が引き締まった。
「分かっています」
「分かっているなら、今日の練習は走るな」
「えっ」
「回復だ」
「でも」
「待つのも仕事だと言っただろ」
神田は、口を開けたまま固まった。
藤代が笑う。
「良かったな。今日は待つ練習だ」
「それ、練習になるんですか」
「なる。お前には一番必要だ」
久我がタブレットを閉じた。
「次に先発で使うなら、設計が必要です」
片桐がうなずく。
「ええ」
成瀬は、片桐を見た。
「先発で使うつもりですか」
片桐はすぐには答えなかった。
映像をもう一度巻き戻す。
神田が三本目のオフサイドで下を向く。
空席の隣から声が飛ぶ。
神田が顔を上げる。
四本目。
半歩待つ。
相手CBの背中を取る。
旗は上がらない。
片桐は、その場面で映像を止めた。
「使いたいです」
短い言葉だった。
だが、簡単な言葉ではなかった。
「ただし、神田を先発で使うなら、彼を守る設計が必要です」
神田が顔を上げる。
「守る、ですか」
「お前を甘やかすという意味じゃない」
片桐はホワイトボードに相手の最終ラインを書いた。
「九十分間、ずっと裏を狙わせれば、お前は走りすぎる。相手も慣れる。潰される。だから、走る場所を限定する。走らない時間も作る。藤代さんの出しどころも絞る」
藤代が手を上げた。
「俺の膝も守ってくれ」
「当然です」
「当然って即答されると、年を取った気分になるな」
「事実です」
「久我みたいなこと言うなよ」
久我が無表情で言った。
「事実です」
藤代は顔をしかめた。
映像室に、小さな笑いが起きた。
勝っていない。
それでも、昨日までとは少し違う笑いだった。
片桐は、すぐに表情を戻した。
「次は下位直接対決です。勝点差を詰める相手。ここで勝たなければ、昨日の引き分けはただの善戦で終わります」
神田が背筋を伸ばす。
「俺、出たいです」
「知っている」
「走ります」
「それも知っている」
「でも、待ちます」
片桐は、そこで初めて神田を正面から見た。
「なら、準備しろ」
「はい!」
「ただし、今日は走るな」
「……はい」
今度の返事には、悔しさと納得が半分ずつ混じっていた。
その時、成瀬の視界の端で、システム画面がもう一度だけ点滅した。
【次節課題】
・神田太陽の先発起用設計
・藤代誠二の負荷管理
・相手CBのライン制御
・サポーター熱量の維持
・スポンサー面談への提出材料作成
課題は増えた。
勝っていないのに、仕事だけは増えていく。
だが、昨日までの仕事とは違う。
沈む船の穴を塞ぐ仕事ではない。
前へ進み始めた船を、壊さず動かす仕事だった。
片桐がホワイトボードに、新しい矢印を一本引いた。
藤代から、神田へ。
その横に、もう一本。
神田が引っ張った背後ではなく、神田が空ける手前の空間へ。
「次は、神田を使うだけじゃ足りません」
片桐は言った。
「神田で、他の選手を生かします」
神田は、自分の名前が駒ではなく、仕組みの中心に置かれていることに気づいて、息を呑んだ。
成瀬はホワイトボードを見た。
勝っていない。
だが、変わった。
その変化を、次は勝点三に変えなければならない。




