第11話 背中で勝て
神田太陽の名前は、先発メンバー表の一番下にあった。
背番号31。
ポジションは、FW。
相手は、順位表でヴァンテールのすぐ上にいる直接のライバル。勝てば引きずり下ろせる。負ければ、前節の死に物狂いの引き分けは「一瞬だけの奇跡」で終わる。
ロッカールームの空気は、石のように冷えていた。
神田はスパイクの紐を睨んでいた。結び目は、ちぎれそうなほど固い。それでも、震える指先が何度も紐を締め直す。
「そこまでやったら、血が止まるぞ」
隣でベンチコートを羽織った藤代誠二が、低く言った。
「……確認です」
「昨日から数えて百回目だ。試合中にほどけるなら、それは紐じゃなくて、てめえの心の方だ」
神田は笑えなかった。歯の根が噛み合わない。
片桐巧がホワイトボードの前に立つ。殴り書きされたボードには、相手の最終ラインと、神田の立ち位置から斜め裏へ伸びる赤い矢印が一本だけ描かれていた。
「神田。今日は頭からいくぞ」
「はい!」
「だが、お前ひとりにこの試合を全部背負わせる気はない」
神田の喉が詰まった。
「お前が裏へ走ることで、相手CBのラインを下げる。そのこじ開けたスペースを、中盤とサイドが食い破る。お前が一度もボールに触らない攻撃もある。むしろ、大半はそうだ」
「……俺、ただの囮ですか」
言った瞬間、神田はしまったという顔をした。
悔しさが、言葉の端から漏れていた。
だが、片桐の目は怒っていなかった。
「ただの囮で野垂れ死ぬか、チームを生かす武器になるかは、お前の走り方一つにかかってる」
藤代が、痛む膝をさすりながら横から口を挟んだ。
「囮をバカにするFWは三流だ。背中を獲る気満々で突っ込んでくる囮ほど、DFからすりゃ悪夢はねえんだよ」
「藤代さんは、今日……」
「俺は後半からだ。あいにく膝が、朝から引退勧告を突きつけてきやがる」
「すみません、俺が頼りないから」
「お前が謝るな。脳が腐る。俺の膝が年寄りなだけだ」
軽口だった。
だが、藤代の拳は、膝の皿の上で白くなるほど握られていた。
成瀬隼人はロッカーの隅で、神田の顔を見ていた。
恐怖で引きつっている。
それでも、その目は退いていない。
それでいい。
這いつくばってでも、ピッチに立て。
ピッチに出た瞬間、スタンドから怒号と歓声が降ってきた。
満員には遠い。空席も目立つ。
だが、前節とは空気の温度が違った。声が、肌を刺すほど近い。
ゴール裏の真ん中。
あの元太鼓係の男の席は、ぽっかり空いたままだ。だが、その両隣にいた男たちは今日も来ていた。腕を組み、険しい顔で、神田の背番号31を見ている。
キックオフの笛が鳴った。
神田は最前線で泥を噛んだ。
相手CBは分厚い肉体の壁だった。安易に食いつかない。肩口に嫌らしく手を添え、ラインを操りながら距離を潰してくる。
前半五分。
右サイドで奪ったボールが、神田の足元へ刺さった。
足元。
神田が一番、不器用な場所。
「しまっ――」
トラップが大きく跳ねた。
ボールは膝に当たり、相手CBの足元へ転がる。
ゴール裏から、ため息と罵声が降った。
「おい、太陽! 何やってんだ!」
「そこは足元じゃねえだろ、裏へ走れ!」
神田は奥歯を噛んだ。
「すみません!」
叫ばずにはいられなかった。
片桐がベンチから怒鳴る。
「謝る暇があったら次だ! 下を向くな、背中を狙え!」
前半十二分。
左サイドから斜めのロングボールが落ちる。
神田は相手CBの前に入りかけ、直前で踏みとどまった。
背中だ。
相手の視界から、一瞬消える。
半歩、我慢。
そこから泥を蹴った。
パスは少し長い。だが、神田は千切れるほど腕を振って追いついた。
角度はない。
迷わず右足を振る。
シュート。
乾いた破裂音を立てたボールは、サイドネットの外側を叩いた。
「枠へ飛ばせ!」
「いや、今のは走れてるぞ!」
「決めろよ太陽、そこを決めなきゃ勝てねえんだよ!」
怒号と期待が混ざる。
神田は膝に手を突き、肺から血の味がするほど息を吐いた。それでも、すぐ顔を上げる。
相手CBの顔が強張っていた。
後ろを振り返る回数が、明らかに増えている。
前半二十分を過ぎる頃、戦況が変わり始めた。
相手は神田のスピードを恐れ、ラインを上げられなくなった。神田が一歩ステップを踏むたび、CBの足が半歩止まる。
その半歩で、相手中盤に空白が生まれる。
だが、ヴァンテールには、まだそこを仕留め切る力が足りない。
パスは弱い。
サイドの判断は一拍遅い。
神田は何度も無駄走りを強いられ、泥まみれで戻った。
前半三十一分。
ヴァンテールの右サイドが破られた。クロスが中央へ放り込まれる。
エリア内で身体がぶつかる。
こぼれ球。
相手MFが右足を振り抜いた。
弾道は、ゴール左へわずかに逸れる。
ゴール裏から怒声が飛んだ。
「ふざけんな! 先に身体を張れ!」
「またラインが下がってんぞ、ビビるな!」
神田は前線で、その罵声を全身に浴びていた。
自分が決めていれば。
単純な話ではないと分かっていても、胸の奥が痛んだ。
ハーフタイム。
ロッカールームの床にへたり込んだ神田は、ユニフォームの裾を握りしめていた。
「……俺が、最初の一本を決めていれば」
「違う!」
片桐の声が叩きつけられた。
「でも、あそこはFWなら」
「あそこは決めろ! それは技術不足だ!」
神田の身体が硬直する。
片桐は緩めなかった。
「だが、お前が外したことと、試合全部を一人で背負うことは別だ。お前が裏を脅かしたから、相手は下がった。中盤にスペースが生まれた。いいか、両方とも事実だ!」
藤代が、ベンチから低く言った。
「おい太陽。おこがましい反省はやめろ」
「……おこがましい、反省?」
「『俺のせいで』なんて悲劇のヒーロー気取っても、技術は一ミリも直らねえ。そんな暇があるなら、トラップを置く場所と、シュートの時の体幹の向きだけを脳に叩き込め」
「……はい」
「あと、お前がバカみたいに走ったおかげで、相手CBの足は前半の最後、棺桶に片足突っ込んでたぞ」
神田が顔を上げる。
「本当ですか」
「俺が慰めで嘘をつくと思うか? 気持ち悪いこと言うな」
片桐がホワイトボードに、横線を叩きつけるように引いた。
「後半、相手SBの裏がガタつく。神田が中央でCBを引きつければ、右サイドにスペースが空く」
神田は、その赤い線を見つめた。
「俺が中央へ走って、相手を引きずればいいんですね」
「そうだ」
「でも、その時、俺のところにボールは……」
「来ない。ほぼ来ない」
片桐は言い切った。
「それでも走れ。お前が走って空けた道を、別の人間が踏み越えてゴールを奪う」
自分が点を取るための走りではない。
誰かにゴールを獲らせるための走り。
ストライカーのプライドを、泥に押しつけられるような命令だった。
「……分かりました」
神田の声は低かった。
「悔しいか、神田」
「悔しいですよ、死ぬほど!」
「なら、その怒りのまま行ってこい!」
後半が始まった。
藤代はまだベンチで牙を研いでいる。片桐も動かない。
神田は中央で、相手CBの背後へ向かって何度も突っ込んだ。
後半六分。
神田が斜めに走る。相手CBが必死についていく。
その瞬間、ライン手前に空白が生まれた。
ボランチがそこへ滑り込む。
前を向く。
右サイドへ展開。
スタンドの空気が膨れ上がる。
だが、クロスは相手SBのブロックに当たり、コーナーへ逃げられた。
後半十四分。
神田に、また苦手な足元へのボールが入る。
相手CBが背後から身体をぶつけてきた。
「うぐっ……!」
神田は倒れなかった。
だが収めきれない。ボールを掻き出される。
「太陽、耐えろ!」
「だから足元じゃねえって言ってんだろ!」
罵声を浴びながら、神田は吐き気をこらえて戻った。
奪い返すためではない。
次の背中を狙うために、またスタートラインへ立つためだ。
後半二十分。
神田の執念が、相手CBの足を削っていた。中央へ一歩踏むたび、相手のラインが上がる判断が遅れる。
片桐が立ち上がった。
「藤代さん!」
「ようやくお声が掛かりましたか、鬼監督」
「膝は持ちますか」
「走らねえよ。ボールだけを、地獄の果てまで走らせる」
片桐は交代用紙を第四審判へ渡した。
「走らせません。ゲームを、殺してきてください」
藤代は獰猛に笑った。
「人使いの荒いクラブだねえ」
「便利な選手じゃありません。あなたはこのチームに必要な選手です」
藤代の表情が、一瞬だけ止まる。
「……クソ忙しい時に、そういう殺し文句を吐くな」
後半二十三分。
背番号10、藤代誠二がピッチに立った。
スタジアムがざわめく。
神田は中央で、引き千切るようなスプリントで相手CBを引っ張る。
藤代にボールが入る。
顔を上げない。右足の裏で吸い付くように止める。
相手ボランチが寄せる。
その瞬間、神田が中央へ狂ったように走った。相手CBは反射的にラインを一歩下げる。
右サイドが空いた。
だが、藤代のパスはすぐには出ない。
ほんの一拍、遅れた。
右サイドの選手が飛び出しかけ、相手SBも慌てて身体を向ける。
「今じゃねえのかよ!」
ゴール裏から声が飛ぶ。
藤代は、顔を上げないまま、短く舌打ちした。
遅れたのではない。
まだ、出さなかった。
神田が中央で、もう一度だけ背中を狙う素振りを見せる。相手CBが完全にそちらへ釣られた。
そこで、藤代の軸足が外を向いた。
パスは、神田ではなく、右サイドの空白へ出た。
完璧ではない。
受け手の一歩前ではなく、半歩後ろ。
それでも、今のヴァンテールにとっては、初めて相手の背中を横から刺す一本だった。
右サイドの選手が、身体をひねりながら追いつく。
クロスを上げる。
しかし、わずかに体勢が崩れていた。
低いボールは、ニアへ戻った相手SBの膝に当たって跳ねる。
コーナーキック。
得点にはならない。
だが、スタジアムの空気が変わった。
今のは、偶然ではない。
神田が中央で相手CBを引きずり、藤代が空いたサイドを見つけた。
形は、見えた。
まだ、半歩足りないだけだ。
神田は泥と汗を流しながら、藤代を振り返った。
「……俺じゃ、なかったです」
「そうだな」
「でも……空きました」
「お前がこじ開けたんだよ」
藤代は短く、しかし敬意を込めて言った。
「悔しいからって足止めんな。その怒りのまま、次も走れ」
神田は胸を押さえ、大きく息を吐いた。
「はい!」
成瀬は、揺れるゴール裏を見ていた。
点は入っていない。
それでも、空席ではなく、人間の感情が動いた。
システムの数字では測り切れない、クラブがまだ失っていなかった熱だった。
ゴール裏の、ぽっかり空いた席の隣で、腕を組んでいた男たちが立ち上がっていた。
真ん中の席は、まだ空いている。
だが、その席へ帰ってくるはずの誰かに届かせるように、拍手は熱を帯びて大きくなっていった。




