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二部最下位の泥舟サッカークラブを買い取った俺、クラブビルドシステムで世界一のメガクラブに育て上げる  作者: 園路 遥々


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第39話 勝った後に奪われない契約

「この条項は、飲めません」


 白鳥千景は、使い慣れた赤ペンで契約書の一文を真っ直ぐに消した。


 定規を使ったかのように正確な一本の直線が、所属元クラブの都合を冷たく否定していく。


 クラブハウス二階の小会議室。


 昨日、七瀬玲央が座っていた椅子は空いている。机の上には、所属元クラブから返ってきた修正案、代理人の意見書、登録期限の確認表、そして氷室圭吾の資金繰り表が並んでいた。


 成瀬隼人は、白鳥の赤線を見つめる。


 そこには、こう書かれていた。


 ――所属元クラブが必要と判断した場合、一定期間経過後に選手を復帰させることができる。


 文章だけなら、何の変哲もない。


 レンタル契約では珍しくない、所属元を守るための条項にも見える。


 だが、白鳥の赤ペンは迷わなかった。


「活躍した瞬間に奪われる契約なら、育てる意味がありません」


 室内の空気が一段冷えた。


 海老名修が腕を組む。


「七瀬が神田にパスを通せるようになった途端、戻せるってことか」


「そう読めます」


 白鳥は契約書をめくった。


「しかも条件が曖昧です。『必要と判断した場合』という文言では、所属元の一方的判断を止められません。出場機会、負傷者発生、チーム事情、戦術上の必要性。理由はいくらでも作れます」


 若槻航が渋い顔で言う。


「でも、向こうからすれば当然じゃないですか。育てた選手を完全に手放したいわけじゃない。うちが安く借りて活躍させたら、戻したくなる」


「当然です」


 白鳥は即答した。


「だからこそ、こちらは飲んではいけません」


 若槻は黙った。


 正論と正論がぶつかっている。


 所属元は七瀬を守りたい。


 ヴァンテールは七瀬を使いたい。


 七瀬本人は、ようやく少しだけ前を向きかけている。


 その三つの間に、契約書の一文が冷たく横たわっていた。


 氷室が眼鏡を押し上げる。


「完全移籍の買取義務を外せたとしても、買取優先権を入れるなら金額の上限設定が必要です。活躍後に市場価格で競らされたら、我々は勝てません」


「それも修正対象です」


 白鳥は次のページに赤線を引く。


「買取優先権。金額上限。早期復帰不可期間。本人同意。メディカル情報の取扱い。出場時間に関する強制条項の禁止。最低限、この六つは必要です」


 成瀬は資料を見た。


 七瀬の映像が脳裏に浮かぶ。


 椅子の端に座り、目を合わせず、細い指を白くなるほど握っていた男。


 神田の映像を見た瞬間だけ、背中が椅子から離れた男。


 ――この映像、もう一度だけ見てもいいですか。……信じるとは、まだ言ってません。


 あの言葉を、契約で裏切るわけにはいかない。


「こちらの希望条件をまとめてください」


 成瀬が言うと、白鳥はすでに用意していた別紙を前へ出した。


「第一に、シーズン終了までのレンタル保証。少なくとも今季終了までは、所属元の一方的な復帰要請を認めない」


「向こうは嫌がるな」


 海老名が言う。


「嫌がるでしょう」


 白鳥は表情を変えない。


「第二に、出場試合数に応じた買取義務ではなく、ヴァンテール側の買取優先権。金額は事前に上限を設定。第三に、復帰や完全移籍については本人同意を必須にする」


 氷室が資料に目を落とす。


「金額上限を入れるなら、今のキャッシュでは厳しいです」


「分かっています」


 成瀬は答えた。


「分かっている方の声ではありません」


「最近、表情だけでなく声まで判定されるようになりましたね」


「数字は声にも出ます」


 氷室の声は冷たい。


 だが、反対だけではなかった。


「ただし、上限額が読めるなら資金計画は組めます。読めないオークションよりは、はるかにましです」


 白鳥が頷く。


「第四に、怪我時の治療費負担。七瀬選手は接触耐性に不安があります。出場中の負傷、練習参加中の負傷、既往症の悪化。発生原因ごとに負担範囲を明確化します」


 篠宮藍が資料を受け取った。


「医療情報の共有範囲も必要です。本人同意なしに所属元へ詳細を戻す形は避けてください。選手の状態が、交渉材料として使われる可能性があります」


「入れます」


 白鳥は即座にメモを取る。


 若槻が小さく呻いた。


「これ、相手からしたら相当面倒な借り手ですよ」


「面倒で構いません」


 白鳥は赤ペンを置いた。


「面倒でない契約は、だいたい弱い側に痛みを押しつけています」


 成瀬はその言葉を聞いて、七瀬の俯いた横顔を思い出した。


 誰も走らない場所へパスを出し、ミスとして処理され、味方に責められ、やがて安全な足元へ逃げるしかなかった右足。


 その右足を、二度と不条理な大人の事情で縛らせてはならない。


 ピッチ上で彼が自由なパスを出すためには、まずこの白い紙の上で、彼の自由を守る契約という盾が必要だった。


     *


 午後。


 オンライン交渉の画面越しに、所属元クラブの強化担当者は露骨に眉をひそめた。


『早期復帰権の削除は難しいですね。こちらにも編成上のリスクがあります』


 白鳥は淡々と答える。


「理解しています。ですが、こちらは七瀬選手の再設計を前提にしています。戦術的役割、心理的ケア、起用環境。そこまで整えて、活躍した瞬間に戻されるのであれば、投資として成立しません」


『投資、ですか』


「はい。選手を育て直すには、時間と費用がかかります」


 画面の向こうの担当者が少し笑った。


『七瀬は、そこまでの選手ですか』


 会議室の空気が変わった。


 海老名の目が細くなる。


 成瀬は口を開きかけた。


 だが、白鳥が先に言った。


「その判断を御クラブが下していないから、我々に交渉の余地があるのでは?」


 白鳥の眼鏡の奥の瞳が、冷徹に相手を射抜いていた。


「御クラブが七瀬選手を重要戦力として扱うなら、そもそもこの話は成立しません。そうでないなら、我々は彼の価値を別の場所で証明する契約を求めます」


『……強気ですね』


「選手の価値を預かる契約です。弱気で結べるものではありません」


 成瀬は白鳥を見た。


 法務は冷たい。


 だが、その冷たさは、選手を数字で切るためではない。


 数字と条文で、選手を守るためのものだった。


『では、早期復帰権については、今季終了までは行使不可。ただし、買取優先権の金額上限はこちらの希望額に近づけていただきたい』


 氷室が即座にメモを書く。


 白鳥は表情を変えない。


「金額は再協議します。ただし、上限設定なしの優先権は受けられません」


『出場試合数による追加金は?』


「一定範囲なら検討します。ただし、出場したことで自動的に完全移籍義務が発生する条項は削除してください」


『本人同意は?』


「必須です」


『そこまで必要ですか』


「必要です」


 白鳥は一拍置いた。


「七瀬選手は、環境への不信が強い。本人の意思を置き去りにした移籍は、プレーにも契約にも悪影響を及ぼします」


 画面の向こうの担当者は黙った。


 代理人の顔も、わずかに動いた。


 七瀬本人は、この場にはいない。


 だが、その沈黙が、この契約書の中心にあった。


     *


 交渉が一度休憩に入ると、若槻が椅子にもたれた。


「いやあ、胃が痛いですね。試合より疲れます」


「営業なら慣れているでしょう」


 白鳥が書類を整えながら言う。


「スポンサー交渉は、相手に夢を見せる余地があります。契約交渉は、夢を見すぎると死にます」


「言い方が重い」


「軽く言ってはいけない仕事です」


 氷室が資金表を差し出す。


「上限額次第では、映像設備更新をさらに遅らせます」


 久我晴臣が顔を上げる。


「それは困ります。七瀬を活かすなら、映像分析の精度が必要です。ハイスピードカメラの更新も、分析ソフトのライセンスも、今のままでは足りません」


「分かっています。ですが、金は増えません」


 氷室は淡々と言う。


「七瀬を獲るには映像が必要。映像を整えるには金が必要。金を作るには勝点とスポンサーが必要。勝点を取るには七瀬が必要。綺麗な円です」


 若槻が頭を抱える。


「循環じゃなくて首輪ですよ、それ」


 篠宮が静かに資料を引き寄せた。


「リカバリー費を削る案は、私は反対です。マッサージベッドの更新も、試合後のケア用品も、サプリメントの質も、今ですら十分ではありません」


 成瀬は資料を見た。


 誰かを獲れば、何かを削る。


 補強とは、足りない場所を埋める行為ではない。


 別の場所に痛みを移す行為でもある。


 だからこそ、判断を間違えられない。


「氷室さん」


「はい」


「七瀬の上限額を三段階で試算してください。映像設備更新を遅らせる場合、リカバリー費を削る場合、スポンサー前倒し収入を見込む場合」


「リカバリー費削減は推奨しません」


 篠宮が即座に言った。


「はい。だから比較に入れます。削った時に何が壊れるかも見えるように」


 篠宮は成瀬を見た。


「数字で痛みを見せる、ということですか」


「見えない痛みは、簡単に切られます」


 氷室が珍しく、わずかに頷いた。


「その表現は正しいです」


     *


 夕方。


 ヴァンテール側の仮修正案がまとまった。


 白鳥は最後のページに赤ペンで大きく丸をつける。


 早期復帰権――今季終了まで不可。


 買取優先権――金額上限あり。


 本人同意――必須。


 怪我時負担――発生原因別に明記。


 出場数による完全移籍義務――削除。


 医療情報共有――本人同意範囲内。


 ただし、これはまだヴァンテール側の修正案にすぎない。


 相手が最終的に署名するかどうかは、別の話だった。


 完璧ではない。


 だが、七瀬を「活躍した瞬間に奪われる選手」にしないための線は引けた。


 成瀬のスマートフォンが震えた。


 代理人から転送された、七瀬の短いメッセージだった。


『映像、見ました。まだ、信じたわけではありません』


 その一文の下に、もう一行。


『でも、もう一度だけ、あの場所に出してみたいです』


 成瀬は画面を見つめた。


 会議室の窓の外では、神田太陽がまた走っている。


 まだ出ぬパスを信じて、誰もいない空白のスペースへ、何度でも。


 その未来のパスを、ただの絵空事で終わらせないために、この契約書がある。


 白鳥が静かに言った。


「成瀬さん」


「はい」


「ここからが本番です。七瀬選手が前を向いた今、契約を急げば、向こうも足元を見ます」


「分かっています」


「急がず、遅れず。勝った後に奪われない契約を、今日中に詰めます」


 成瀬は頷いた。


 見えている右足が、ようやく一歩だけ前を向いた。


 だが、その右足をピッチに置くには、まだ契約書の最後の赤線を消さなければならない。


【現在地】

ヴァンテール海浜FC

国内プロ二部リーグ:18位/20クラブ

成績:5勝9分10敗

勝点:24

得失点差:-15

状態:降格圏。七瀬契約は前進。ただし資金計画と最終条項の詰めが残る。

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