第40話 最後の赤線
残留圏まで、勝点二。
クラブハウス二階の小会議室に貼られた下位順位表は、その数字だけをやけに大きく見せていた。
十七位、勝点二十六。
十八位、ヴァンテール海浜FC。勝点二十四。
だが、その二点を埋めるための一文が、契約書の中でまだ赤く残っている。
「一番危ない赤線は、ここです」
白鳥千景は、七瀬玲央のレンタル契約最終案に赤ペンを置いた。
――選手が一定以上の公式戦出場機会を得た場合、所属元クラブは翌シーズンにおける優先交渉権を保持する。
若槻航が首をかしげる。
「これ、一見すると普通じゃないですか? 早期復帰権は消えたんですよね」
「消えました。ですが、形を変えて残っています」
白鳥は赤ペンの先で条文を叩いた。
「今季中には奪われない。けれど、七瀬選手が活躍した瞬間、来季の主導権は向こうが握る。つまり、我々が半年かけて再生した選手を、次の契約で買い叩かれる可能性があります」
海老名修が低く唸った。
「今すぐ戻せない代わりに、来年の首輪を残すってことか」
「そうです」
氷室圭吾が資金表をめくる。
「金額上限なしの交渉は無理です。現預金では勝てません。スポンサー前倒し収入を見込んでも、上限が読めない案件には踏み込めない」
久我晴臣がタブレットを見ながら言う。
「七瀬を活かすには、映像分析の強化も必要です。ハイスピードカメラを後ろ倒しにすれば、彼のパスコース分析も遅れます」
篠宮藍が続けた。
「リカバリー費は削らせません。七瀬選手は接触耐性に不安がある。速水選手の件もあります。ここを削れば、補強した選手を守れなくなる」
若槻が苦笑する。
「全員、削られたくないものを抱えてるわけですね」
「当然です」
氷室は眼鏡を押し上げた。
「クラブ経営は、全員が必要なものを抱えたまま、足りない財布を囲む仕事です」
成瀬隼人は黙って契約書を見ていた。
七瀬の右足。
神田が走る空白。
まだ出ていないパス。
それを守るには、戦術だけでは足りない。条文、金額、登録期限、医療、分析。そのすべてが噛み合わなければ、ピッチには届かない。
「白鳥さん。こちらの譲れない条件を、もう一度」
白鳥は一枚の紙を前へ出した。
「早期復帰権は今季終了まで不可。買取優先権はヴァンテール側に置く。金額上限を明記。来季以降の優先交渉についても、上限額と本人同意を必須にする。出場数による自動的な完全移籍義務はなし。医療情報の共有は本人同意範囲内」
「相手が飲む可能性は」
「あります。ただし、金額面で必ず押し返されます」
氷室が表情を変えずに言う。
「押し返された分は、誰かが払うことになります」
会議室が静まった。
勝点二の差は、契約書の一文では埋まらない。金をどこから出すか、何を後ろ倒しにするか、誰に痛みを負わせるかを決めなければならない。
「リカバリー費は削りません」
成瀬が言うと、篠宮がわずかに目を細めた。
「映像設備も、最低限の更新は止めません」
久我が息を吐く。
「では、どこから出しますか」
成瀬は若槻を見た。
「スポンサー前倒し収入の交渉です」
若槻の顔が引きつった。
「ここで僕ですか」
「ここであなたです」
「勝った直後の営業は、確かに熱はあります。でも、前倒しは簡単じゃないですよ。残留圏にもまだ入っていないクラブに、追加で金を出す理由が必要です」
「あります」
成瀬は順位表を指した。
「降格圏脱出目前。地元のクラブが、沈みかけた場所から上がろうとしている。その瞬間に乗れる権利です」
若槻は苦い顔で笑った。
「言葉にすると綺麗ですね」
「綺麗なだけでは取れません」
「でしょうね」
若槻は資料を手に取った。
「なら、スポンサーにはこう言います。七瀬玲央という名前は出せない。けど、クラブが残留のために次の一手を打つ。その一手を、地元企業として支えてほしい。看板ではなく、再建の共犯者になってほしい」
白鳥が即座に釘を刺す。
「未成立の契約情報は出さないでください」
「分かっています。そこはぼかします」
氷室が言う。
「入金時期、金額、返礼内容まで明確にしてください。情熱だけでは会計処理できません」
「夢を売る営業に、夢を削る財務がついてくる……」
「削るのではなく、形にしています」
若槻は天井を仰いだ。
「このクラブ、全員言葉が重いんですよ」
*
午後のオンライン再交渉。
画面の向こうで、所属元クラブの強化担当者は明らかに苛立っていた。
『こちらもかなり譲歩しています。今季終了までの早期復帰不可は受け入れました。これ以上、来季の交渉余地まで縛られるのは難しい』
白鳥は表情を変えない。
「来季の交渉余地を完全に消せと言っているわけではありません。金額上限と本人同意を明記してください、と申し上げています」
『上限を入れれば、活躍後の市場価値を反映できません』
「市場価値を反映するための追加条項は検討します。出場数、アシスト数、チーム残留時のボーナス。ただし、上限のない価格変動は受けられません」
『そちらに都合が良すぎる』
白鳥は少しだけ間を置いた。
「いいえ。七瀬選手本人にとって必要な条件です」
画面の向こうが黙る。
「彼は、環境に不信を持っています。活躍したら戻される。活躍したら値段が変わる。活躍したら本人の意思よりクラブ間の都合が優先される。そういう契約では、彼はもう一度、前に出せなくなる」
成瀬は白鳥の横顔を見た。
声は冷静だった。
だが、その言葉は条文ではなく、七瀬の膝の上で白くなっていた指を見ているようだった。
「七瀬選手の価値を上げたいのは、御クラブも同じはずです。そのために必要なのは、彼が安心してリスクを取れる環境です」
沈黙のあと、代理人が初めて口を挟んだ。
『本人同意は必須にしてください。そこは、こちらも譲れません』
会議室の空気がわずかに変わった。
白鳥は小さく頷く。
「ありがとうございます」
『ただし、金額上限については、所属元の希望も聞く必要があります』
「承知しています。上限額と成果連動金を分けましょう。固定上限、残留達成時ボーナス、出場数に応じた追加金。ただし、自動復帰と自動移籍義務はなし」
氷室が横で素早く数字を書き直す。
若槻がスマートフォンを握ったまま、別室へ出ていく。スポンサーへの電話だ。
久我は映像設備の最低限更新案をタブレットにまとめている。
篠宮は、リカバリー費を削らない案に赤丸をつけた。
成瀬は、その全員の動きを見ていた。
契約書は、紙の上だけで作るものではない。
誰が何を譲り、誰が何を守るか。
その全員の痛みが、一文に集まっていく。
*
夕方。
会議室の外で、若槻が電話を切った。
顔色は悪い。
だが、目は死んでいなかった。
「地元信用金庫、前倒し分の一部なら検討してくれるそうです。条件は、次のホームゲームで地域連携企画を一つ入れること。あと、若手選手の職場訪問。……笹原さん案件です」
成瀬は頷いた。
「笹原さんに相談します」
「相談という名の爆弾投下ですね」
「はい」
「認めないでください」
そこへ氷室が戻る。
「その金額なら、七瀬の上限案は組めます。ただし、映像設備更新は最低限。分析ソフトのライセンス更新は一部機能を後ろ倒しにします」
久我が苦い顔をした。
「必要最低限は残してください」
「残します。不要ではなく、後ろ倒しです」
篠宮が資料を閉じる。
「リカバリー費は」
「削りません」
氷室が答える。
篠宮は初めて何も言わなかった。
白鳥のもとへ、代理人から最終確認のメッセージが届いた。
『本人同意必須。今季中の早期復帰不可。金額上限あり。成果連動金あり。自動復帰なし。自動移籍義務なし。この条件で所属元が最終確認に入ります』
白鳥は画面を見つめた。
「まだ成立ではありません」
成瀬が頷く。
「分かっています」
「ですが、最後に残っていた危険な赤線は、相手に消させるところまで来ました」
その時、成瀬のスマートフォンが震えた。
七瀬本人からではない。
代理人経由の短い伝言だった。
『七瀬選手より。条件が整うなら、ヴァンテールで挑戦したいとのことです』
会議室の空気が、一瞬だけ止まった。
海老名が小さく息を吐く。
「ようやく、少し前を向いたか」
白鳥は赤ペンのキャップを閉めた。
ぱちん、という小さな音がした。
それは、ホイッスルではない。
ゴールネットが揺れた音でもない。
だが成瀬には、確かに一つのプレーが通った音に聞こえた。
*
窓の外では、神田太陽がまた走っていた。
まだ出ぬパスを信じて、誰もいない空白のスペースへ、何度でも。
その未来のパスを、ただの絵空事で終わらせないために、この契約書がある。
成瀬は、白鳥が置いた赤ペンを見た。
真っ直ぐな線で、危険な条項を消すための道具。
選手の自由を守るための、もう一つのスパイク。
契約は、まだ正式成立していない。
登録もまだだ。
だが、七瀬玲央の右足は、ようやくヴァンテールの方を向いた。
【現在地】
ヴァンテール海浜FC
国内プロ二部リーグ:18位/20クラブ
成績:5勝9分10敗
勝点:24
得失点差:-15
状態:降格圏脱出目前。17位との差は勝点2。七瀬契約は最終確認段階。




