第38話 見えているのに、出せない
七瀬玲央は、椅子の端に座っていた。
クラブハウス二階の小会議室。
窓の外では、練習場の芝が午後の光を鈍く返している。昨日の勝利の熱はまだクラブ内に残っていたが、この部屋だけは妙に静かだった。
机の上には、契約条件案と映像用のタブレット。
白鳥千景が事前に確認した通り、今日の面談は正式ルートを通している。所属クラブ、代理人、本人。順序を飛ばしていない。
それでも、七瀬は目を合わせなかった。
細い指が、膝の上で組まれている。力が入りすぎて、指の関節だけが白い。
海老名修は壁際で腕を組み、余計なことを言わずに見ていた。
成瀬隼人は、向かいの椅子に座る。
「来てくれてありがとうございます」
「……はい」
声は小さい。
聞き取れないほどではない。だが、最初から相手に届くことを諦めた声だった。
成瀬はすぐに契約の話をしなかった。
七瀬の資料なら、もう何度も見ている。
《クラブビルドシステム》の評価は、残酷なほど割れていた。
【補強候補】
七瀬玲央
右足パス精度:A+
視野:A
展開判断:B+
接触耐性:D-
守備負荷耐性:D
被プレッシャー時成功率:低下傾向
成功体験:不足
自己評価:低下傾向
右足は突出している。
見えている場所も悪くない。
だが、接触に弱い。守備負荷にも不安がある。強く寄せられた瞬間、プレーの選択肢が安全側へ極端に寄る。
数字だけ見れば、使いにくい。
だが、成瀬には別の見え方をしていた。
七瀬は、才能がないのではない。
才能を出した場所に、誰も走ってくれなかっただけだ。
成瀬はタブレットを伏せたまま訊いた。
「なぜ、出さないんですか」
七瀬の肩がわずかに動いた。
「……何を、ですか」
「見えている場所へのパスです」
七瀬は答えなかった。
会議室の空調の音だけが残る。
海老名が少しだけ眉を動かした。焦らせるな、という顔だった。
成瀬は続ける。
「あなたは、誰も見ていない場所を見ています。相手のサイドバックとセンターバックの間。ボランチの背中。ラインの外側。味方が走れば、一発で裏返せる場所です」
七瀬は膝の上で指を握り直した。
「……出しても」
そこで言葉が止まる。
成瀬は待った。
藤代なら皮肉を挟むだろう。神田なら耐えきれず前のめりになるだろう。だが、七瀬には沈黙が必要だった。
やがて、七瀬は視線を床に落としたまま言った。
「出しても、誰も走ってくれないので」
海老名の表情が変わった。
怠慢ではない。
言い訳でもない。
それは、何度も同じ景色を見せられた選手の、乾いた諦めだった。
「そこに出すなって、言われました」
七瀬はぽつりと続けた。
「受けられない。無理なボールを出すな。自分が当たられたら何もできないくせに、味方に難しいことを要求するなって」
言葉が細くなる。
「最初は、見えてたんです。相手の最終ラインが少しズレる瞬間とか、味方が一歩目を出せば届く場所とか。でも、誰も走らないなら、そこは空白じゃなくて、ただのミスになる」
七瀬は笑おうとした。
失敗した笑いだった。
「だから、足元に出すようになりました。安全な方に。怒られない方に」
海老名が低く息を吐く。
成瀬は、タブレットを表に返した。
「見てください」
映像が流れる。
直前の試合ではない。
その前から集めていた、神田太陽の走りだけを切り出した映像だった。
中央から右斜めへ。
相手CBの背中へ。
まだ誰もボールを持っていない段階で、神田が走る。
ボールは出ない。
それでも走る。
次の映像。
神田が一度止まる。半歩待つ。相手CBの肩が内側へ向く。その瞬間、背後へ消える。
次の映像。
ボールは少し短い。だが、神田は減速しない。右足を伸ばし、つま先で触る。
七瀬の姿勢が変わった。
初めて、背中が椅子から離れた。
「……今の」
七瀬が画面に手を伸ばしかけ、途中で止める。
成瀬は映像を巻き戻した。
「もう一度」
神田が走る。
相手CBが下がる。
そこに、見えない線が生まれる。
七瀬の目が、初めて画面に吸い寄せられた。
「そこに出せば」
声が少しだけ強くなった。
「走る人が先に触れます」
成瀬は頷いた。
「はい」
「でも、普通は……そのタイミングで走らないです。出してから走る。受けられると分かってから走る。だから、間に合わない」
「神田は、出る前に走ります」
七瀬は画面を見つめたまま黙った。
映像の中の神田は、ボールが来る保証もない場所へ何度も走っている。
誰も走らないと思っていた場所。
そこに、本当に走る選手がいた。
「……怖くないんですか」
七瀬が呟いた。
「神田が、ですか」
「はい。出なかったら、ただ無駄に走っただけになる。味方に怒ることもできない。疲れるだけです」
成瀬は少しだけ考えた。
「怖いと思います」
七瀬が顔を上げる。
「でも、神田は走ります。自分が走ることで相手が下がると知っているからです。ボールに触れなくても、相手を壊せると覚え始めている」
海老名が低く言う。
「そして、あいつは本当は触りたくて仕方ねえ。点を取りたくて仕方ねえ。だから怖いんだ」
七瀬は小さく瞬きをした。
その目に、ほんの少しだけ熱が戻る。
「じゃあ……」
言葉を探すように、七瀬は画面を見た。
「僕がそこに出して、神田さんが走ったら」
「相手の守備は変わります」
「通らなかったら」
「次に相手が警戒します」
「奪われたら」
「奪われ方を設計します」
成瀬は即答した。
「あなたを一人で潰される場所には置きません。接触耐性が低いことは分かっています。だから、受ける位置、周囲のサポート、失った時の回収役までセットで作る」
七瀬の顔がまた少し伏せる。
「でも、僕は当たられたら何もできません」
「それを隠して獲るつもりはありません」
成瀬は静かに言った。
「あなたは接触に強くない。守備で相手を潰す選手でもない。だから、そこをあなた一人に背負わせるなら、獲るべきではない」
七瀬の指が、また強く組まれた。
その反応を見て、海老名が一歩前へ出る。
「勘違いするな。今のは切り捨てじゃねえ」
七瀬が海老名を見る。
「足りないところがあるなら、足りない前提で使う。それがプロの現場だ。全部できる奴だけでチームを作れるなら、うちみたいな泥舟はとっくに沈んでる」
言葉は荒い。
だが、突き放す響きではなかった。
七瀬はタブレットへ視線を戻す。
神田が、また誰もいない場所へ走っている。
「……僕のパスは、味方を困らせるんだと思ってました」
「困らせます」
成瀬が言うと、七瀬は驚いたように顔を上げた。
「でも、相手はもっと困ります」
会議室に、ほんの短い沈黙が落ちた。
七瀬の口元が、ほんの少しだけ揺れた。
笑ったのかどうかは分からない。
それでも、最初に部屋へ入ってきた時とは違っていた。
「……契約の話は、代理人を通してください」
「もちろんです」
「僕は、まだ決めたわけじゃありません」
「それで構いません」
「ただ」
七瀬はタブレットを指した。
「この映像、もう一度だけ見てもいいですか。……信じるとは、まだ言ってません」
成瀬はタブレットを七瀬の前へ押した。
「何度でも」
映像が再生される。
神田が走る。
まだ出ていないボールへ。
まだ信じられていない空白へ。
七瀬は画面を見つめた。
今度は、俯いていなかった。
*
面談が終わった後、廊下で海老名が成瀬に言った。
「危ねえな」
「七瀬がですか」
「お前がだ」
成瀬は眉を上げた。
海老名は窓の外の練習場を見た。神田がまた走っている。三好がその後ろで、こぼれ球の位置へ遅れず入る練習をしていた。
「ああいう選手を見ると、お前は早く置き場所を作りたがる。分かる。だがな、七瀬は右足だけじゃねえ。折れた自信ごと来る」
「分かっています」
「分かってる顔じゃねえ時がある」
「最近、それを言われすぎています」
「言われるうちは、まだ止まれる」
海老名はそう言って、歩き出した。
成瀬のスマートフォンが震えたのは、その直後だった。
白鳥千景からのメッセージ。
『七瀬玲央の契約条項、まだ一つ危険です』
成瀬の足が止まる。
続けて、二通目。
『所属元が、一定条件下での早期復帰権を残そうとしています。活躍した瞬間に戻される可能性があります』
成瀬は画面を見つめた。
ようやく、七瀬の目が少しだけ前を向いた。
そこに走る選手がいると、信じかけた。
その瞬間に奪われる契約なら、何も変わらない。
成瀬は窓の外を見た。
神田が走る。
三好が拾う。
阿部が空中戦の練習で身体をぶつける。
今いる選手も、まだ来ていない選手も、壊さずに置き直さなければならない。
勝つために急ぎたい。
だが、急げばまた誰かを折る。
成瀬は短く返信した。
『会議室を押さえてください。白鳥さん、海老名さん、氷室さんも』
すぐに既読がつく。
そして、白鳥から短い返事が来た。
『承知しました。勝った後に奪われない契約にします』
成瀬はスマートフォンを握ったまま、静かに息を吐いた。
見えているのに、出せなかった右足。
その右足を本当に前へ向かせるには、一本のパスだけでは足りない。
契約書の一文まで、味方にしなければならなかった。
【現在地】
ヴァンテール海浜FC
国内プロ二部リーグ:18位/20クラブ
成績:5勝9分10敗
勝点:24
得失点差:-15
状態:降格圏。七瀬玲央との面談は前進。ただし契約条項に危険あり。




