第37話 まだ届かない残留圏
藤代誠二の名前は、メンバー表になかった。
クラブハウスの廊下に貼られたホワイトボードの前で、神田太陽はしばらく黙っていた。
先発にも、ベンチにも、背番号10はない。
代わりにベンチ入りしているのは、雨の遠征で同点弾を押し込んだ三好颯。走れる。泥でも二歩目を出せる。だが、藤代のように一秒先の景色を変えるパスは持っていない。
「本当に、藤代さん出ないんですね」
神田が言った。
篠宮藍は、メディカルファイルを閉じた。
「出ません。今日は完全にベンチ外です」
「でも、勝てば――」
「その言葉の続きは、医療室では禁止です」
神田は口を閉じた。
片桐巧が戦術ボードを裏返す。
「藤代さんがいないから、勝てない。そう思った瞬間に今日は終わる」
ボード中央に、神田の磁石が置かれる。
その周囲に、渡瀬、榎本、三好、水野。
「藤代さんは、一人で一秒を作れる。だが今日は、その一秒がない。なら全員で一秒ずつ早く判断する。受ける前に見る。止める前に決める。迷った瞬間、相手に時間を渡す」
ロッカールームが静まった。
藤代の軽口がないだけで、空気はやけに重い。
いつもなら、誰かが詰まった瞬間に、背番号10が半身で受け、相手の圧を消し、一本のパスで試合の角度を変えていた。
今日は、それがない。
成瀬隼人は、壁際でその重さを見ていた。
七瀬玲央はまだ登録されていない。速水瞬も、まだ交渉中だ。市場でおかしなCBの名前も、まだ出せない。
つまり、今日ピッチに立つのは、今いる選手だけだった。
*
相手は、中位に沈みかけたが残留争いからは一歩離れているクラブだった。
だからこそ、厄介だった。
無理に前へ来ない。神田の背後は消す。渡瀬の侵入も見る。ヴァンテールが最近使ってきた形を、淡々と潰してくる。
前半十六分。
神田が中央から右斜めへ流れた。
相手CBが半歩だけつられる。その手前に、渡瀬が入る。
榎本は迷った。
いつもなら、ここで藤代の右足が時間を止めていた。相手の寄せを引きつけ、パスコースが開くまで待てた。
だが、今日は誰も待たせてくれない。
視野の隅に、三好が飛び込んできた。泥臭い。フォームも綺麗ではない。けれど、遅れてはいない。
藤代なら、待って急所を刺す。
今の俺たちは、止まらずに繋ぐしかない。
榎本は足を止めなかった。
低いパスが渡瀬へ刺さる。
渡瀬は前を向く。相手ボランチが寄せる。撃つには遠い。神田へ戻すには角度がない。
その瞬間、三好が中央を横切った。
渡瀬の短い落としを、三好はワンタッチで左へ逃がした。
水野が大外で受ける。
クロス。
神田がニアへ突っ込む。相手CB二枚が一気に引っ張られる。
中央に、榎本が残っていた。
右足を振り抜く。
ボールはGKの手をかすめ、ゴール左隅へ転がり込んだ。
1-0。
ヴァンテール海浜FC、先制。
榎本は自分のゴールを信じられない顔で立ち尽くした。
神田が真っ先に飛びつく。
「出したじゃないですか!」
「俺が決めたんだよ!」
「でも、出した!」
「うるせえ!」
歓声が遅れてスタジアムを包んだ。
ベンチで片桐が小さく拳を握る。
「一秒ずつ、早かった」
成瀬も頷いた。
藤代がいない。
それでも、藤代が作ってきた時間の感覚は、チームに少しずつ残っていた。
*
だが、試合は甘くなかった。
前半三十九分。
相手はヴァンテールの右サイドへ長く蹴った。
大卒ルーキーのCB、阿部航平が外へ出る。競り合いには勝った。だが、前節からの課題は消えていない。
跳ね返したボールが、中途半端に中央へ落ちる。
「セカンド!」
海老名修の声が飛ぶ。
しかし、相手MFの方が半歩早い。
拾われた。
ワンタッチで左へ振られる。守備が横へずれる。低い折り返しに、相手FWが足を合わせた。
1-1。
同点。
白鳥千景が関係者席で懲罰管理表を見た。阿部は、遅れて足を出してはいない。警告は増えていない。
だが、失点は消えない。
久我晴臣がタブレットに記録する。
「空中戦後の二次対応、またです」
成瀬はピッチを見つめた。
ここに、空から落ちるボールを支配できるCBがいれば。
考えかけて、止めた。
いない選手で、阿部を裁くな。
今、勝点を取りに行くのは、この十一人だ。
*
ハーフタイム。
ロッカールームに藤代の軽口はなかった。
その沈黙が、逆に重い。
片桐はホワイトボードに失点場面を書いた。
「競り合い自体は悪くない。問題は、その後だ」
阿部が俯く。
「すみません」
「謝るな。次に拾え」
片桐は三好の磁石を少し後ろへ下げた。
「後半、三好はセカンドボールの出口に入れ。前へ出すためじゃない。拾われないためだ」
三好が頷く。
「はい」
神田が口を開いた。
「俺は?」
「走れ。ただし、相手を下げるだけじゃない。相手が拾った瞬間、最初のプレスをかけろ」
「守備ですか」
「勝つためのFWの仕事だ」
神田は少し不満そうに顔を歪めた。
藤代さんなら、俺を走らせて、最後は前を向かせてくれる。そんな言葉が喉まで出かかった。
だが、藤代はいない。
その不在は、神田のタスクの重さになって目の前に置かれていた。
「やります」
神田は短く答えた。
*
後半、ヴァンテールは目に見えて泥臭くなった。
神田がなりふり構わず走り、相手CBのラインを強引に押し下げる。その背後の空白へ、渡瀬が滑り込む。
綺麗に崩す形ではない。決定機には遠い。
ならば、次はこぼれ球だ。
後半二十八分。
水野のクロスが跳ね返される。
ペナルティエリアの手前。
前半なら拾われていた場所に、三好がいた。
胸で止める。ボールが少し浮く。相手MFが身体を寄せる。
三好は倒れなかった。右足の外で、ボールを横へ逃がす。
そこへ渡瀬。
ワンタッチで縦。
神田は、まだ走っていなかった。
走りたい身体を、歯を食いしばって半歩だけ止めていた。
藤代に何度も怒鳴られた、あの半歩だった。
相手CBの肩が内側へ向く。
その瞬間、神田が消えた。
渡瀬のパスは完璧ではない。少し短い。
神田は減速しない。右足を伸ばす。
つま先で触る。
ボールがGKの前で浮く。相手GKが手を伸ばす。
その前に、神田がもう一歩を出していた。
身体ごと押し込む。
ネットが揺れた。
2-1。
神田太陽、逆転弾。
スタンドが爆発した。
神田はゴール裏へ走りかけて、途中で振り返った。
三好を指差す。
「拾った!」
三好は息を切らしながら、笑う余裕もなく親指を立てた。
渡瀬が神田の頭を叩く。
「やっと決めたな、囮」
「囮じゃないです!」
「今日は決めたからエースでいい!」
「今日だけですか!」
ベンチが少しだけ笑った。
だが、篠宮だけは時計を見ていた。
藤代はいない。速水もいない。
ここから逃げ切るには、誰かの魔法ではなく、全員の足がいる。
*
残り十五分。
相手は前へ出てきた。
ヴァンテールは受けた。
阿部は、またクロスを浴びる。
競る。跳ね返す。
今度は、三好が二歩目を出す。
拾う。
外へ逃がす。
神田は無駄に追わない。だが、相手CBが顔を上げた瞬間だけ全力で寄せる。
蹴らせる。
奪う。
時計を削る。
アディショナルタイムは四分。
最後のCK。
ゴール前に相手GKまで上がってきた。
ボールが高く落ちる。
阿部が競る。
完全には勝てない。
だが、身体をぶつけ、軌道をずらした。
こぼれ球へ相手が詰める。
三好が飛び込む。
ボールはタッチラインを割った。
主審の笛が鳴る。
試合終了。
2-1。
ヴァンテール海浜FC、勝利。
*
ロッカールームに戻ると、神田は泥だらけのままベンチへ倒れ込んだ。
「しんど……」
渡瀬が笑う。
「エースは守備もするんだよ」
「エースって言いました?」
「今だけな」
「短い!」
笑いが起きた。
勝利のロッカールームは熱かった。
泥と汗の匂い。濡れたユニフォーム。誰かが床に落としたテーピングの切れ端。神田の荒い息。三好の震える膝。阿部が、黙ってスパイクについた芝を指で落としている。
その奥で、片桐は戦術ボードを見つめていた。
藤代なしで勝った。
七瀬なしで、速水なしで、例のCBなしで。
だが、課題も残った。
空中戦の後の処理。
藤代不在時の前進。
神田の負荷。
勝利は、すべてを消してはくれない。
成瀬のスマートフォンが震えた。
白鳥からだった。
『速水瞬の代理人、条件提示を急がせています。別クラブが具体条件を出したようです』
勝利の熱で満ちた部屋の中で、成瀬の手元だけが冷えた。
画面を見つめた直後、海老名が低く言う。
「例のCBの代理人からも連絡が来た。値札が動く前に見るなら、今だ」
ロッカールームの喧騒が、少しだけ遠くなった。
七瀬の返事は、まだ来ていない。
速水は奪われるかもしれない。
空中戦の答えも、急がなければ市場に飲まれる。
勝った。
勝点は二十四。
だが、勝ったことで、また次の扉が開く。
補強は急ぎたい。だが、急げばチームの調和を壊す。
成瀬は、歓喜に沸くロッカールームを見渡した。
泥だらけで笑う神田。
膝を守るために今日は不在だった藤代。
その不在を、二歩目で埋めた三好。
そして――まだ、ここにはいない男たち。
このクラブは、まだ完成などしていない。
だが、もうただ沈むのを待つだけの泥舟ではなかった。
【現在地】
ヴァンテール海浜FC
国内プロ二部リーグ:18位/20クラブ
成績:5勝9分10敗
勝点:24
直近結果:2-1 勝利
得失点差:-15
状態:降格圏。残留圏まであと一歩。降格圏脱出目前。




