第36話 医療判断ではありません
「出せば勝てる、は医療判断ではありません」
篠宮藍の声は、会議室の空気を切り裂いた。
クラブハウス二階の小会議室。
机の上には、速水瞬の映像資料、スプリント履歴、過去の負傷歴、そして白鳥千景が用意した契約条件案が並んでいる。
映像の中で、速水は右サイドを駆け抜けていた。
一歩目で相手サイドバックを置き去りにする。
二歩目で肩の外を取る。
三歩目で、もう追いつけない。
だが、最後の踏み込みだけが浅い。
全力で抜け切る直前、右足がほんの少しだけ逃げる。
その瞬間で、クロスの軸がぶれた。
片桐巧は腕を組んだまま、画面から目を離さなかった。
「後半七十分以降なら、相手は嫌でしょうね」
「嫌どころじゃない」
海老名修が低く言う。
「足が止まったサイドバックからすれば、あの一歩目は悪夢だ」
成瀬隼人も同じことを考えていた。
神田太陽が中央で相手ラインを押し下げる。
七瀬玲央がもし合流すれば、誰も走らない空白へボールを置ける。
そこに、後半限定の速水が外から差し込めば、相手の守備は中央も外も選べなくなる。
速水は、欲しい。
だが、篠宮の表情は一切緩まない。
「魅力があることは否定していません」
篠宮は資料を一枚めくった。
そこには、過去三年分の出場記録とスプリント回数が折れ線で並んでいる。
「問題は、魅力があるからこそ危険だということです」
久我晴臣が画面を切り替えた。
速水が怪我から復帰した後の出場時間。
先発時のスプリント数。
途中出場時のスプリント数。
スプリント後半の速度低下。
右足接地の乱れ。
数字の列が、速水の軽口を無言で剥がしていく。
「先発時は、二十五分前後から終速局面の接地が乱れ始めています」
久我が淡々と説明する。
「クロス精度も、その時間帯から落ちます。速さ自体は残っていますが、最後の踏み込みが抜ける。つまり、速いのに仕留め切れない時間が増える」
篠宮が引き取った。
「さらに、連続スプリントが四本を超えたあたりから、右大腿部ハムストリングスの代償動作が明確になります。本人が意識しているかどうかに関係なく、身体が勝手に逃げている」
片桐は眉を寄せた。
「なら、四本までなら」
「そういう単純な話ではありません」
篠宮の声が冷える。
「試合状況によって、スプリントの質は変わります。守備で戻る全力疾走と、攻撃で抜ける全力疾走では負荷が違う。雨、芝、移動疲労、接触の有無でも変わる。数字だけで『四本まで安全』とは言えません」
片桐は黙った。
監督としては使いたい。
だが、篠宮の言葉を無視できないことも分かっている顔だった。
成瀬は資料を見た。
速水瞬。
瞬間加速はS。
最高速度も高い。
ただし、九十分の選手ではない。
それどころか、六十分の選手でもないかもしれない。
「それでも」
成瀬は口を開いた。
「後半終盤、十秒だけなら試合を壊せます」
篠宮は成瀬を見た。
「はい。壊せます」
意外なほどあっさりした肯定だった。
「だから危険なんです。勝ち筋が見えた瞬間、成瀬さんも片桐監督も使いたくなる。相手が嫌がるなら、もう一本走らせたくなる。スタンドが沸けば、さらに一本行けると思ってしまう」
その言葉に、会議室の誰も反論できなかった。
藤代誠二の膝で、すでに同じことを経験している。
勝てるから使う。
効いているから続ける。
その判断が、一歩間違えば選手生命を削る。
篠宮は、速水の映像を止めた。
ちょうど、速水が太ももの裏へ触れた瞬間だった。
「私は、速水選手を守るためだけに反対しているわけではありません」
成瀬が顔を上げる。
「守るためだけではない?」
「彼の武器を一番鋭い時間に残すためです」
篠宮はホワイトボードに数字を書いた。
七十分以降。
最大十五分。
連続スプリント制限。
メディカル側の停止権限。
「十秒だけなら、誰にも負けない。なら、その十秒を試合の終盤に残してください」
会議室が静かになった。
篠宮は続ける。
「前半から走らせれば、速水選手は速さを消費します。恐怖で最後の踏み込みが抜け、守備で戻り、また怖くなる。その繰り返しです。でも、後半七十分以降に限定し、役割を絞れば、恐怖を完全に消せなくても武器として使える」
片桐がホワイトボードへ近づいた。
「守備は?」
「最初から免除ではなく、逃げ道を作るべきです。後ろにカバーを置く。戻る距離を限定する。奪われた瞬間に、速水選手を戻すのではなく、周囲が回収する形を作る」
久我がタブレットを操作する。
「サイドバックとボランチのカバー範囲を調整すれば、成立はします。ただし、他の選手の負荷は増えます」
「そこは戦術側で引き受けます」
片桐が言った。
篠宮はすぐに返した。
「引き受けるなら、試合中に破らないでください」
「……痛いところを突きますね」
「医療判断ですから」
「皮肉じゃないですか」
「半分は」
若槻航が小さく笑いかけたが、白鳥千景の視線で黙った。
白鳥は契約条件案にペンを走らせる。
「契約書には、クラブ側のコンディション管理方針への同意、メディカル判断による出場制限権限を入れます。細かな連続スプリント数や出場時間は、別紙の起用管理プロトコルで運用する形が妥当です」
氷室圭吾が眼鏡を押し上げた。
「そのプロトコル運用には、GPS計測機器、メディカルチェック、試合後リカバリーの追加費用が発生します」
「また金ですか」
若槻が天井を仰ぐ。
「選手を守るには金がかかります」
氷室は淡々と言った。
「壊れてから払うよりは安い」
篠宮が即座に言う。
氷室は珍しく、わずかに頷いた。
「そこは同意します」
成瀬は資料を閉じた。
判断は、もう決まっていた。
「速水の補強優先度を上げます」
会議室の視線が集まる。
「ただし、先発WGとしてではない。後半七十分以降の切り札候補。契約条件と起用管理プロトコルをセットにする。最大出場時間、連続スプリントの管理、メディカル側の停止権限を前提に交渉します」
篠宮は成瀬を見た。
「停止権限を本当に認めますか」
「認めます」
「勝てる試合でも?」
「勝てる試合だからこそです」
篠宮の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
だが、すぐにいつもの冷静な顔に戻る。
「では、速水選手を壊さずに使う設計を出します」
「お願いします」
「ただし、一つ条件があります」
「何でしょう」
「現場が破った瞬間、私は次の試合で速水選手をベンチ外にします」
片桐が苦笑した。
「厳しいですね」
「厳しくしないと、勝ち筋は人を壊します」
その言葉は、会議室に重く残った。
*
会議が終わった後、成瀬は廊下で篠宮に呼び止められた。
「成瀬さん」
「はい」
「速水選手は、たぶん自分を安売りしています」
篠宮は窓の外を見た。
練習場では、神田太陽がまた誰もいない場所へ走っている。
「『十秒だけ使ってくれ』という顔をしている。でも、本当は、十秒しか使えない自分を笑ってほしくないはずです」
成瀬は黙って聞いた。
「後半限定の切り札、という言葉は便利です。でも、本人にはこう伝えてください。短くしか使わないのではなく、一番価値が出る時間に出すのだと」
「分かっています」
「分かっていない方の顔ではありませんね」
「最近、氷室さんにも同じようなことを言われます」
「このクラブのフロントは、代表の顔色を読むのが仕事になりつつあります」
「それは困ります」
「困るなら、隠すのを上手くしてください」
篠宮はそう言って、メディカル室へ戻っていった。
成瀬のスマートフォンが震えたのは、その直後だった。
白鳥からのメッセージ。
『速水瞬の代理人から連絡。別クラブも接触しているとのことです。条件提示を急ぐ必要があります』
成瀬は画面を見つめた。
速水は売れ残っているわけではない。
見つけたのは、自分たちだけではなかった。
十秒だけなら、試合を壊せる男。
その十秒に値札がつく前に、クラブとして守れる条件を差し出さなければならない。
成瀬は、篠宮が残した言葉を思い返した。
短くしか使わないのではない。
一番価値が出る時間に出す。
それを契約に、戦術に、医療に落とし込めるか。
次の勝負は、ピッチの外で始まっていた。
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【現在地】 ヴァンテール海浜FC
国内プロ二部リーグ:19位/20クラブ
成績:4勝9分10敗
勝点:21
得失点差:-16
状態:降格圏。速水の十秒を守るため、医療と契約の条件整理が始まる。




