第35話 全力疾走を怖がる男
「速いだけなら、まだ売れ残ってないっすよ」
速水瞬は笑ってそう言った。
国内プロ二部リーグの別クラブが使う、郊外の練習場。芝はヴァンテール海浜FCの練習場より整っている。だが、端の防球ネットは古く、ベンチ脇のパイプ椅子には雨ざらしの錆が浮いていた。
成瀬隼人と海老名修は、ピッチ脇の視察席に立っていた。
正式な許可は取ってある。白鳥千景が、所属クラブと代理人経由で確認を済ませていた。声をかけていい範囲、聞いていい内容、持ち帰っていい映像。すべて線を引いたうえでの視察だった。
それでも、海老名は渋い顔を崩さない。
「軽いな」
「速水のことですか」
「態度も、身体もだ」
ピッチ上で、速水瞬は控え組のビブスを着ていた。
明るめの髪。薄い笑顔。走り出す前の立ち姿も、どこか力が抜けている。
成瀬の視界に、《クラブビルドシステム》の表示が淡く浮かんだ。
【補強候補】
速水瞬
総合値:低〜中
瞬間加速:S
最高速度:A
クロス精度:C-
守備理解:D
スプリント持続:D
再発リスク:高
再発記憶:強
全力踏切時:回避傾向
数字だけなら、奇妙だった。
瞬間加速は突出している。最高速度も高い。だが、スプリント持続は低く、クロス精度も安定しない。
なぜ、速さが武器の選手が、走り切った先のプレーで評価を落としているのか。
笛が鳴った。
右サイドのタッチライン際。味方の中盤から斜め前へボールが出る。
速水が一歩目を踏んだ。
その一歩だけで、相手役のサイドバックが置き去りになった。
二歩目。
三歩目。
芝の上を滑るように加速する。
速い。
ただの俊足ではない。相手が足を回し始めた時には、速水はもう肩の外へ抜けている。ボールに追いつくまでの距離が、他の選手より明らかに短い。
海老名の目が細くなった。
「十メートルまでなら、今のうちのサイドじゃ誰も勝てねえな」
速水はボールへ追いついた。
ここで全力のまま縦へ抜ければ、深い位置までえぐれる。相手サイドバックは完全に遅れている。中のDFもまだ準備できていない。
だが、速水は最後の踏み込みで、わずかに緩めた。
本当にわずかだった。
見逃そうと思えば見逃せる。
全速力で踏み切る直前、右足の接地が半歩だけ浅くなる。身体が一瞬だけ外へ逃げる。クロスは上がったが、軸が弱い。ボールはファーへ流れ、誰にも合わなかった。
「今、抜けたな」
海老名が低く言った。
「抜けましたね」
「でも、本人が抜かなかった」
ピッチ上の速水は、失敗したクロスを見て両手を軽く上げた。
「いやー、すんません。芝が俺のスピードについて来られなかったっすね」
チームメイトが笑う。
軽い冗談。軽い空気。
だが、成瀬は笑わなかった。
速水の右手が、ほんの一瞬だけ太ももの裏へ触れていたからだ。
その動作は、痛みを確認するというより、そこにある古傷へ無意識に触れる癖に近かった。
海老名も気づいている。
「あれだな」
「ええ」
「身体が覚えてやがる」
成瀬はタブレットへ録画映像を落とし、篠宮藍へ送った。
練習は続いた。
速水は何度も仕掛ける。
最初の加速は圧倒的だった。相手の腰が浮く。足が遅れる。守備者は、速水の一歩目に反応した時点でほとんど負けている。
だが、全力で抜き切る局面になると、必ずどこかで緩む。
最後の一歩。
切り返しの踏み込み。
クロス前の軸足。
全速力のまま身体を投げ出せば決定的になる場面で、速水は身体の奥にブレーキをかける。
それでも速い。
だから、周囲は気づかない。
速水自身も、気づかれていないと思っている。
給水の笛が鳴った。
速水が汗を拭きながら、こちらへ歩いてくる。相変わらず軽い笑みを浮かべていた。
「どうでした? 速さだけなら、お買い得っすよ」
海老名が腕を組む。
「自分で売り込む奴は、だいたい面倒だ」
「それ、偏見じゃないっすか」
「経験だ」
速水は笑った。
だが、その笑いは少しだけ早い。沈黙を避けるような笑い方だった。
成瀬は訊いた。
「なぜ最後を緩める」
速水の笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。
「いや、緩めてないっすよ。あれで全力です」
「違う」
成瀬は静かに言った。
「一歩目は全力だ。二歩目も速い。だが、抜き切る直前に右足の接地を浅くしている。クロス前の軸足も逃がしている」
「細かいっすね」
「そこが価値だから見ている」
速水はタオルを首にかけ、少しだけ視線を外した。
「価値、ねえ」
軽い声だった。
だが、目は笑っていない。
右手が、また太ももの裏へ伸びかける。速水は途中でそれに気づき、わざとらしくタオルを握り直した。
成瀬は、その指先から目を離さなかった。
「太ももが、全力疾走を怖がっているな」
速水の動きが止まった。
笑みを張りつけたまま、口元だけがわずかに引きつる。
沈黙が降りた。
風が吹き、練習場のネットがきしむように揺れる。
「……だとしたら」
速水はゆっくり息を吐いた。
自嘲するような笑みだった。
「俺は不良債権っすか?」
「使い方次第だ」
速水の目が、初めて成瀬を正面から見た。
「九十分は見ません」
「でしょうね。俺、そんな高級品じゃないんで」
「後半七十分以降。相手の足が止まり、サイドバックの戻りが半歩遅れた時間帯。全力疾走の回数を限定する。守備負担も最初から設計する」
速水の笑みが薄くなる。
「十秒だけ使うってことっすか」
「十秒で試合を壊せるなら、それは十分な価値だ」
速水は黙った。
軽口が返ってこない。
風の音だけが、短く通り過ぎた。
*
クラブハウスへ戻る車内で、篠宮から返信が届いた。
動画に、短いコメントが添えられている。
『右大腿部ハムストリングスの代償動作を確認。終速局面で骨盤後傾と接地浅化が出ています』
成瀬は画面を見つめた。
さらに続く。
『肉離れ再発後のキネシオフォビアに近い反応です。痛みそのものより、「また切れるかもしれない」という恐怖で身体が勝手に止まっている可能性が高い。起用設計なしで獲るなら反対です』
海老名が助手席から振り返った。
「篠宮は何て」
「右ハムストリングスの代償動作。再発恐怖に近い、と」
「だろうな」
車窓の外を、曇った街並みが流れていく。
成瀬は速水の走りを思い返した。
一歩目で相手を剥がす加速。
最後の踏み込みで逃げる右足。
冗談で隠した恐怖。
普通に考えれば、先発のサイドアタッカーとして九十分走らせる選手ではない。
守備理解も浅い。
クロス精度も安定しない。
連続スプリントにも不安がある。
だが、後半七十分。
相手の足が止まり、サイドバックの戻りが半歩遅れ、ラインが間延びした時間帯。
十秒だけなら。
その十秒で、試合を壊せる。
「海老名さん」
「何だ」
「速水を、先発WGとしては見ません」
海老名が少しだけ眉を動かした。
「じゃあ、どう見る」
「後半限定の切り札です」
「兵器って言わねえのか」
「言うと怒られるので」
「分かってきたじゃねえか」
海老名は鼻で笑った。
成瀬は続ける。
「長く走らせない。守備の負担も最初から設計する。全力疾走の回数を管理し、使う時間を限定する。その代わり、相手が最も嫌がる時間に出す」
「選手を道具にするなよ」
「だから、契約と医療で守ります」
海老名は窓の外を見た。
少しだけ口元が緩んだ。
「言い方は嫌いだが、判断は悪くねえ」
その時、成瀬のスマートフォンがまた震えた。
篠宮から、さらに一通。
『獲るなら、契約条件と起用管理プロトコルをセットにしてください。最大出場時間、連続スプリント本数、メディカル側の出場停止権限。この三つは必須です』
成瀬は短く息を吐いた。
速水の問題は、速さではない。
恐怖だ。
恐怖を消すことはできない。
だが、恐怖ごと設計することはできる。
十秒だけなら、誰にも負けない。
その十秒を、どう守り、どう使うか。
それが、次の勝負だった。
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【現在地】 ヴァンテール海浜FC
国内プロ二部リーグ:19位/20クラブ
成績:4勝9分10敗
勝点:21
得失点差:-16
状態:降格圏。速水瞬という後半限定の切り札候補が見つかる。




