第34話 遠征の雨と勝点一
雨は、ピッチの上の判断を一秒ずつ遅らせた。
アウェーのスタジアム。
屋根のないゴール裏では、灰色の雨粒がサポーターの旗を重く濡らしている。芝は水を含み、ボールは転がるたびに小さく止まり、蹴り上げられるたびに妙な高さで浮いた。
前半十四分。
神田太陽がまた裏へ走った。
相手センターバックは、もう追ってこない。最初から深く構え、神田の走る場所を消している。二列目の渡瀬にも、相手ボランチがぴたりと影のようについていた。
「徹底してますね」
久我晴臣が、タブレットを濡らさないようベンチの奥で画面を拭いた。
片桐巧は答えない。
藤代誠二の動きが重い。
雨のせいだけではない。連戦の疲労が、右膝だけでなく、身体全体の反応を鈍らせていた。
前半二十七分。
相手が右サイドから単純なクロスを放り込んだ。
ヴァンテールの若手CBは競り負けていない。頭には当てた。だが、雨で重くなったボールを遠くへ飛ばし切れない。クリアはペナルティエリアの手前に落ちる。
「セカンド!」
海老名修が叫んだ。
しかし、足が一歩遅い。
相手の二列目が先に泥を蹴った。低い弾道のシュートが、濡れた芝で伸びる。GKの手前でわずかに跳ね、ボールはゴール右隅へ滑り込んだ。
0-1。
スタジアムの屋根を叩く雨音だけが、一瞬大きく聞こえた。
神田はセンターサークル付近で拳を握る。
「俺に出してください!」
叫びは、雨に消えた。
前へ出したい。
だが、奪われればまたクロスを浴びる。
その恐怖が、ヴァンテールの中盤から前向きの一本を奪っていた。
*
ハーフタイム。
ロッカールームの床には、選手たちのスパイクから落ちた泥が点々と残っていた。
藤代はベンチに腰を落とし、右膝にタオルを巻いている。息は乱れていない。だが、表情の奥に疲労が沈んでいた。
篠宮藍が短く言った。
「藤代さん、後半十五分までです」
「短くないか」
「長いくらいです」
藤代は笑おうとして、やめた。
片桐がホワイトボードに太い線を引く。
「後半、藤代さんを早めに下げます」
ロッカールームがざわついた。
「守備的MFを入れるんですか」
若手CBが訊く。
片桐は首を横に振った。
「走れる若手を入れます。守るためじゃない。雨で止まるボールを拾うためです」
神田が顔を上げる。
「俺は?」
「走れ。ただし、全部に全力で追うな。相手CBを下げる走りと、こぼれ球の出口を作る走りを分けろ」
藤代が低く言った。
「太陽。今日のボールは綺麗に届かねえ。だから、汚いところに顔を出せ」
「汚いところ?」
「相手がクリアし損ねた場所。味方が触り損ねた場所。雨の日は、上手い奴より、そこへ一歩出る奴が点を拾う」
神田は頷いた。
悔しさを飲み込む顔だった。
*
後半十五分。
藤代が下がった。
代わりに入ったのは、若手MFの三好だった。守備の名手ではない。だが、走れる。泥に足を取られても、二歩目を出せる。
雨はさらに強くなっていた。
相手は引いて守り、奪えばすぐにサイドへ蹴る。クロス、クリア、ロングボール。美しい崩しはない。だが、ヴァンテールにとっては厄介だった。
若手CBは競る。
跳ね返す。
それでもクリアは小さい。
二次攻撃を受ける。
また跳ね返す。
また拾われる。
成瀬隼人は、ベンチ横でその繰り返しを見ていた。
負けているのは高さだけではない。
跳ね返した後の一歩。
雨で浮いたボールが落ちる場所。
そこを読む経験と、身体の強さが足りていない。
後半三十八分。
神田が右斜めへ走った。
相手CBが下がる。
渡瀬が中央へ入る。
だが、パスはそこへ届かない。雨で止まったボールを、三好が必死に拾った。
「もう一回!」
神田が叫ぶ。
三好は顔を上げない。
泥に滑った一歩目のあと、すぐに二歩目を出していた。雨で止まったボールへ、誰よりも先に身体を運ぶ。綺麗なフォームではない。だが、止まらない。
泥まみれの足で、三好はボールを前へ押し出した。
きれいなパスではない。
だが、神田が走ったことで相手CBの足が止まっている。こぼれ球のようなボールが、ペナルティエリア手前に転がった。
渡瀬が飛び込む。
相手DFも身体を投げる。
ボールが弾けた。
その先に、神田がいた。
「太陽!」
誰かの声が雨を裂いた。
神田はシュートを撃たなかった。
角度がない。
強引に撃てば、GKに潰される。
神田は右足のつま先で、中央へ戻した。
泥を跳ね上げながら、三好が詰める。
さっき出した二歩目が、そのままゴール前まで続いていた。
右足を振り抜く。
ボールは相手DFの膝に当たり、軌道を変え、GKの逆を突いた。
ネットが揺れた。
1-1。
三好は一瞬、自分が決めたことを理解できない顔をした。
神田が真っ先に抱きつく。
「拾った! 今の拾いましたよ!」
「お前が走ったからだろ!」
「俺、決めてません!」
「でも、いなきゃ空かなかった!」
雨の中で、二人の声が混ざる。
勝ち越しはできなかった。
アディショナルタイム、相手はさらにクロスを増やす。ヴァンテールは跳ね返し続けたが、前へ運ぶ力はもう残っていない。
主審の笛が鳴った。
1-1。
アウェーの雨の中、勝点一。
累計成績は、四勝九分十敗。
勝点二十一。
得失点差は、マイナス十六のまま。
勝てなかった。
だが、負けなかった。
*
試合後のロッカールームは、雨と泥と湿布の匂いで満ちていた。
久我が濡れたタブレットをタオルで拭き、映像を止める。
失点場面。
若手CBは競っている。
勝ってはいないが、完全に負けてもいない。
問題は、その後だった。
「空中戦そのものより、跳ね返した後の処理が悪いです。CBの空中戦勝率はリーグ下位。セカンド対応も遅れています」
久我の声は冷静だった。
だが、若手CBの顔がわずかに歪む。
海老名が腕を組んだまま、低く呟いた。
「一人だけ、市場でおかしなCBがいる」
成瀬は顔を上げた。
「名前は」
「まだ出すな。今の段階で飛びつけば、値段が変わる」
海老名はそこで口を閉じた。
伏せられた名前だけが、雨に濡れたロッカールームの空気に残った。
篠宮は藤代の膝を確認していた。
アイシングの下で、皮膚は熱を持っている。
「次戦、藤代さんはベンチ外を提案します」
片桐が一瞬、動きを止めた。
「ベンチ外ですか」
「はい。今日の負荷で、次もベンチに置けば、使いたくなります。使えば、壊す可能性があります」
藤代が苦笑する。
「本人の前で言うかね」
「本人が一番信用できないので」
「ひどい医者だ」
「選手生命を守る医療です」
成瀬は黙って頷いた。
現有戦力だけでは、連戦で出力が落ちる。
藤代はいつまでも使えない。
七瀬はまだ来ない。
空から落ちるボールには、別の答えがいる。
その時、白鳥千景からメッセージが届いた。
『代理人側、映像資料の送付は可。ただし本人が見るかは不明』
成瀬は、同点場面の映像を見た。
神田が走る。
相手CBが下がる。
こぼれ球が生まれる。
誰もいないはずの場所へ、人が走っている。
成瀬は短く返信した。
『神田が走った映像を送ってください。余計な説明はいりません』
契約書では届かない。
数字でも届かない。
なら、ピッチで見せるしかない。
雨の中でも、泥の中でも、誰もいない空白へ本当に走る選手がいることを。
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【現在地】 ヴァンテール海浜FC
国内プロ二部リーグ:19位/20クラブ
成績:4勝9分10敗
勝点:21
直近結果:1-1 引き分け
得失点差:-16
状態:降格圏。雨の遠征で勝点1。藤代の限界とCBの課題が浮き彫りになる。




