第33話 契約書の赤い線
「この条件なら、七瀬玲央は獲れます」
白鳥千景はそう言って、契約書の一行に赤い線を引いた。
クラブハウス二階の小会議室。
窓の外では、神田太陽が誰もいないスペースへ走っている。
ボールは出ない。
それでも走る。
まるで、まだ見ぬ右足へ向けて、先に道を作っているようだった。
机の上には、七瀬玲央の映像資料、所属クラブから届いた条件案、登録期限の確認表、氷室圭吾の資金繰り表が並んでいる。
成瀬隼人は、そのすべてを見ていた。
誰も走らない空白を見続けていた右足。
味方に理解されず、パスミスとして処理され続けた弾道。
神田がいれば、届く。
その確信があるからこそ、成瀬の中で七瀬玲央はただの候補ではなくなっていた。
だが、白鳥の赤ペンは、一切の熱を許さない。
「ただし、このままなら獲るべきではありません」
会議室の空気が、硬く止まった。
海老名修が腕を組む。
「獲れるのに、獲るなってことか」
「獲れることと、獲っていいことは違います」
白鳥は顔を上げた。
声は静かだった。だが、机に置かれた契約書よりずっと重い。
「まず、登録可能期間前です。現時点で進められるのは、事前交渉、条件整理、仮合意の準備まで。七瀬選手を今すぐ公式戦に出すことはできません」
「分かっています」
「分かっている方は、今朝から三回も登録期限表を見ません」
成瀬は言葉を飲み込んだ。
図星だった。
今すぐ欲しい。
藤代の膝に頼り切らず、神田の走る場所へボールを置ける選手が欲しい。
だが、欲しいという感情で登録制度は動かない。
白鳥は次のページをめくる。
「問題は、ここです」
赤線の先には、出場試合数に応じた買取義務の条項があった。
一定数以上出場させた場合、ヴァンテール側に完全移籍の買取義務が発生する。
金額は、今のクラブにとって軽くない。
氷室が資料を覗き込み、わずかに眉を寄せた。
「これを飲めば、リカバリー用品の補充か映像設備更新、どちらかが止まります」
若槻航なら悲鳴を上げただろう。
だが、この場に笑いはなかった。
成瀬は契約書を見つめる。
七瀬を使えば、試合は変わるかもしれない。
けれど、使えば使うほど、買わなければならなくなる。
勝つための補強が、勝つほど財務を締め上げる。
それはクラブを強くする契約ではない。
クラブの首に、勝利のたびに締まる縄をかける契約だった。
白鳥は二本目の赤線を引いた。
「早期復帰条項。所属元が必要と判断した場合、一定期間後に七瀬選手を戻せる内容です」
海老名の声が低くなる。
「活躍したら返せ、ってことだな」
「そう読めます」
「論外だ」
海老名は即答した。
「あいつは、右足だけ借りればいい選手じゃない。折れかけた自信ごと預かる選手だ。うちで前を向かせた瞬間に持っていかれる契約なら、最初から触るな」
成瀬は、七瀬が通路で足を止めていた姿を思い出した。
誰も走らない場所へ出したパス。
誰にも理解されなかった弾道。
あの選手をもう一度俯かせる契約なら、獲得そのものが毒になる。
白鳥は三本目の赤線を引く。
「怪我時の費用負担です。接触耐性に不安がある選手なのに、治療費とリハビリ費がこちらへ寄りすぎています」
ドアの近くに立っていた篠宮藍が、すぐに反応した。
「その条件では、私は起用計画に同意しません」
白鳥が頷く。
「医療側の意見として記録します」
「記録ではなく、修正してください」
「もちろんです」
短い応酬だった。
だが、成瀬にはそれが心強かった。
七瀬を守るのは、戦術だけではない。
契約書の一文。
治療費の負担割合。
登録前の練習参加範囲。
そういう冷たい文字が、選手の未来を守ることもある。
白鳥は、赤線だらけになった契約書を机の中央へ戻した。
「成瀬さん」
「はい」
「才能を見つけた瞬間に、距離を詰めすぎる癖があります」
海老名が鼻で笑う。
「否定できねえな」
成瀬は否定しなかった。
七瀬に早く伝えたかった。
そこに走る選手はいる、と。
君のパスミスに見えた場所へ、うちのFWは本当に走る、と。
だが、それを今、正式ルートを飛ばして伝えれば、七瀬を守るどころか、交渉そのものを壊す。
白鳥は言葉を続けた。
「勝つための契約なら、勝った後に奪われない条項が必要です。選手を守る契約なら、怪我をした瞬間にクラブだけが潰れる内容では駄目です。育てる契約なら、本人が何を承諾したのか理解できる形でなければなりません」
成瀬は赤線を見た。
《クラブビルドシステム》は才能を見せる。
だが、契約書は才能の扱われ方を決める。
そこを誤れば、七瀬の右足はヴァンテールに来る前から折れる。
「条件案を出してください」
白鳥は待っていたように、別紙を前へ出した。
「短期レンタルではなく、シーズン終了までのレンタル保証。所属元の一方的な早期復帰権は削除。買取義務ではなく、一定試合数出場後の買取優先権。怪我時の費用負担は、発生状況に応じて分担。登録開始日までは限定的な練習参加扱い。正式登録までは公式戦出場不可」
氷室が即座に計算を始めた。
「それでも予算は厳しいです」
「分かっています」
「分かっていない方の目をしています」
「最近、それを言われすぎています」
「改善してください」
白鳥は赤ペンを置いた。
「さらに、本人面談も必要です。ただし、所属クラブ、代理人、本人の順序を崩さないこと。裏で声をかけるような真似はしないでください」
「しません」
「今の返事は早すぎます。疑わしいです」
海老名が低く笑った。
成瀬は苦く息を吐く。
「正式ルートで進めます」
「なら、ここから先は焦らないでください」
白鳥は条件修正案の表紙に、赤ペンで短く書いた。
――送付準備。
まだ送っていない。
まだ合意していない。
まだ七瀬本人にも会っていない。
ただ、壊さずに獲りに行くための線だけが、ようやく引かれた。
*
夕方。
練習場では、神田がまだ走っていた。
相手の背後へ。
中央へ。
右斜めへ。
ボールが来ない場所へも、迷わず走る。
七瀬が見ていた空白。
そこへ、この男なら本当に走る。
成瀬は窓越しにその姿を見ていた。
スマートフォンが震える。
白鳥からだった。
『条件修正案の送付準備が整いました。所属クラブ側の回答後、代理人ルートの確認に進みます。本人面談は、その後です』
成瀬は画面を見つめた。
まだ獲得ではない。
登録でもない。
試合に出せるわけでもない。
それでも、俯いた右足へ向かう道が、ようやく一本だけ引かれた。
その時、続けてもう一通、白鳥から短い文面が届いた。
『なお、代理人は難色を示しています。本人は話したがらない可能性があります』
成瀬の指が止まった。
*
その頃、七瀬玲央は自室の床に座っていた。
部屋の明かりは点けていない。
カーテンの隙間から入る街灯だけが、床に置かれたスパイクケースを薄く照らしている。
スマートフォンが震えていた。
代理人からの着信。
画面には、同じ名前が三度並んでいる。
七瀬はそれを見た。
だが、指は動かなかった。
通話ボタンを押せば、また条件の話になる。
必要とされているのか。
使われるだけなのか。
駄目なら戻されるのか。
活躍したら、また別の場所へ動かされるのか。
何を聞いても、きっと誰かにとって都合のいい言葉が返ってくる。
七瀬は膝を抱え、壁に背中を預けた。
試合映像を開く。
自分が誰もいない右奥へ出したパス。
誰も走らなかった場所。
味方に両手を広げられた瞬間。
スタンドから漏れた笑い。
画面の中のボールは、やはりゴールラインを割っていた。
七瀬は小さく呟く。
「……どうせ、誰も走らない」
スマートフォンが、もう一度震えた。
七瀬は画面を伏せた。
*
クラブハウスの窓の外で、神田がまた誰もいない空白へ走り出す。
成瀬は小さく呟いた。
「七瀬。そこに、走る選手はいる」
声は、窓の外には届かない。
契約書では届かない。
数字でも届かない。
だからこそ、次の壁は契約条項ではない。
誰も信じなくなった選手の心だった。
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【現在地】 ヴァンテール海浜FC
国内プロ二部リーグ:19位/20クラブ
成績:4勝8分10敗
勝点:20
得失点差:-16
状態:降格圏。七瀬玲央の契約条件を整え始めるが、本人の心はまだ動かない。




