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二部最下位の泥舟サッカークラブを買い取った俺、クラブビルドシステムで世界一のメガクラブに育て上げる  作者: 園路 遥々


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33/40

第33話 契約書の赤い線

「この条件なら、七瀬玲央は獲れます」


 白鳥千景はそう言って、契約書の一行に赤い線を引いた。


 クラブハウス二階の小会議室。


 窓の外では、神田太陽が誰もいないスペースへ走っている。


 ボールは出ない。


 それでも走る。


 まるで、まだ見ぬ右足へ向けて、先に道を作っているようだった。


 机の上には、七瀬玲央の映像資料、所属クラブから届いた条件案、登録期限の確認表、氷室圭吾の資金繰り表が並んでいる。


 成瀬隼人は、そのすべてを見ていた。


 誰も走らない空白を見続けていた右足。


 味方に理解されず、パスミスとして処理され続けた弾道。


 神田がいれば、届く。


 その確信があるからこそ、成瀬の中で七瀬玲央はただの候補ではなくなっていた。


 だが、白鳥の赤ペンは、一切の熱を許さない。


「ただし、このままなら獲るべきではありません」


 会議室の空気が、硬く止まった。


 海老名修が腕を組む。


「獲れるのに、獲るなってことか」


「獲れることと、獲っていいことは違います」


 白鳥は顔を上げた。


 声は静かだった。だが、机に置かれた契約書よりずっと重い。


「まず、登録可能期間前です。現時点で進められるのは、事前交渉、条件整理、仮合意の準備まで。七瀬選手を今すぐ公式戦に出すことはできません」


「分かっています」


「分かっている方は、今朝から三回も登録期限表を見ません」


 成瀬は言葉を飲み込んだ。


 図星だった。


 今すぐ欲しい。


 藤代の膝に頼り切らず、神田の走る場所へボールを置ける選手が欲しい。


 だが、欲しいという感情で登録制度は動かない。


 白鳥は次のページをめくる。


「問題は、ここです」


 赤線の先には、出場試合数に応じた買取義務の条項があった。


 一定数以上出場させた場合、ヴァンテール側に完全移籍の買取義務が発生する。


 金額は、今のクラブにとって軽くない。


 氷室が資料を覗き込み、わずかに眉を寄せた。


「これを飲めば、リカバリー用品の補充か映像設備更新、どちらかが止まります」


 若槻航なら悲鳴を上げただろう。


 だが、この場に笑いはなかった。


 成瀬は契約書を見つめる。


 七瀬を使えば、試合は変わるかもしれない。


 けれど、使えば使うほど、買わなければならなくなる。


 勝つための補強が、勝つほど財務を締め上げる。


 それはクラブを強くする契約ではない。


 クラブの首に、勝利のたびに締まる縄をかける契約だった。


 白鳥は二本目の赤線を引いた。


「早期復帰条項。所属元が必要と判断した場合、一定期間後に七瀬選手を戻せる内容です」


 海老名の声が低くなる。


「活躍したら返せ、ってことだな」


「そう読めます」


「論外だ」


 海老名は即答した。


「あいつは、右足だけ借りればいい選手じゃない。折れかけた自信ごと預かる選手だ。うちで前を向かせた瞬間に持っていかれる契約なら、最初から触るな」


 成瀬は、七瀬が通路で足を止めていた姿を思い出した。


 誰も走らない場所へ出したパス。


 誰にも理解されなかった弾道。


 あの選手をもう一度俯かせる契約なら、獲得そのものが毒になる。


 白鳥は三本目の赤線を引く。


「怪我時の費用負担です。接触耐性に不安がある選手なのに、治療費とリハビリ費がこちらへ寄りすぎています」


 ドアの近くに立っていた篠宮藍が、すぐに反応した。


「その条件では、私は起用計画に同意しません」


 白鳥が頷く。


「医療側の意見として記録します」


「記録ではなく、修正してください」


「もちろんです」


 短い応酬だった。


 だが、成瀬にはそれが心強かった。


 七瀬を守るのは、戦術だけではない。


 契約書の一文。


 治療費の負担割合。


 登録前の練習参加範囲。


 そういう冷たい文字が、選手の未来を守ることもある。


 白鳥は、赤線だらけになった契約書を机の中央へ戻した。


「成瀬さん」


「はい」


「才能を見つけた瞬間に、距離を詰めすぎる癖があります」


 海老名が鼻で笑う。


「否定できねえな」


 成瀬は否定しなかった。


 七瀬に早く伝えたかった。


 そこに走る選手はいる、と。


 君のパスミスに見えた場所へ、うちのFWは本当に走る、と。


 だが、それを今、正式ルートを飛ばして伝えれば、七瀬を守るどころか、交渉そのものを壊す。


 白鳥は言葉を続けた。


「勝つための契約なら、勝った後に奪われない条項が必要です。選手を守る契約なら、怪我をした瞬間にクラブだけが潰れる内容では駄目です。育てる契約なら、本人が何を承諾したのか理解できる形でなければなりません」


 成瀬は赤線を見た。


 《クラブビルドシステム》は才能を見せる。


 だが、契約書は才能の扱われ方を決める。


 そこを誤れば、七瀬の右足はヴァンテールに来る前から折れる。


「条件案を出してください」


 白鳥は待っていたように、別紙を前へ出した。


「短期レンタルではなく、シーズン終了までのレンタル保証。所属元の一方的な早期復帰権は削除。買取義務ではなく、一定試合数出場後の買取優先権。怪我時の費用負担は、発生状況に応じて分担。登録開始日までは限定的な練習参加扱い。正式登録までは公式戦出場不可」


 氷室が即座に計算を始めた。


「それでも予算は厳しいです」


「分かっています」


「分かっていない方の目をしています」


「最近、それを言われすぎています」


「改善してください」


 白鳥は赤ペンを置いた。


「さらに、本人面談も必要です。ただし、所属クラブ、代理人、本人の順序を崩さないこと。裏で声をかけるような真似はしないでください」


「しません」


「今の返事は早すぎます。疑わしいです」


 海老名が低く笑った。


 成瀬は苦く息を吐く。


「正式ルートで進めます」


「なら、ここから先は焦らないでください」


 白鳥は条件修正案の表紙に、赤ペンで短く書いた。


 ――送付準備。


 まだ送っていない。


 まだ合意していない。


 まだ七瀬本人にも会っていない。


 ただ、壊さずに獲りに行くための線だけが、ようやく引かれた。


     *


 夕方。


 練習場では、神田がまだ走っていた。


 相手の背後へ。


 中央へ。


 右斜めへ。


 ボールが来ない場所へも、迷わず走る。


 七瀬が見ていた空白。


 そこへ、この男なら本当に走る。


 成瀬は窓越しにその姿を見ていた。


 スマートフォンが震える。


 白鳥からだった。


『条件修正案の送付準備が整いました。所属クラブ側の回答後、代理人ルートの確認に進みます。本人面談は、その後です』


 成瀬は画面を見つめた。


 まだ獲得ではない。


 登録でもない。


 試合に出せるわけでもない。


 それでも、俯いた右足へ向かう道が、ようやく一本だけ引かれた。


 その時、続けてもう一通、白鳥から短い文面が届いた。


『なお、代理人は難色を示しています。本人は話したがらない可能性があります』


 成瀬の指が止まった。


     *


 その頃、七瀬玲央は自室の床に座っていた。


 部屋の明かりは点けていない。


 カーテンの隙間から入る街灯だけが、床に置かれたスパイクケースを薄く照らしている。


 スマートフォンが震えていた。


 代理人からの着信。


 画面には、同じ名前が三度並んでいる。


 七瀬はそれを見た。


 だが、指は動かなかった。


 通話ボタンを押せば、また条件の話になる。


 必要とされているのか。


 使われるだけなのか。


 駄目なら戻されるのか。


 活躍したら、また別の場所へ動かされるのか。


 何を聞いても、きっと誰かにとって都合のいい言葉が返ってくる。


 七瀬は膝を抱え、壁に背中を預けた。


 試合映像を開く。


 自分が誰もいない右奥へ出したパス。


 誰も走らなかった場所。


 味方に両手を広げられた瞬間。


 スタンドから漏れた笑い。


 画面の中のボールは、やはりゴールラインを割っていた。


 七瀬は小さく呟く。


「……どうせ、誰も走らない」


 スマートフォンが、もう一度震えた。


 七瀬は画面を伏せた。


     *


 クラブハウスの窓の外で、神田がまた誰もいない空白へ走り出す。


 成瀬は小さく呟いた。


「七瀬。そこに、走る選手はいる」


 声は、窓の外には届かない。


 契約書では届かない。


 数字でも届かない。


 だからこそ、次の壁は契約条項ではない。


 誰も信じなくなった選手の心だった。



------

【現在地】 ヴァンテール海浜FC

国内プロ二部リーグ:19位/20クラブ

成績:4勝8分10敗

勝点:20

得失点差:-16

状態:降格圏。七瀬玲央の契約条件を整え始めるが、本人の心はまだ動かない。

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