第32話 順位は上がった。金は減った
「BPで請求書は払えません」
氷室圭吾の一言で、会議室の温度が三度ほど下がった。
前日の勝利から一夜明けたクラブハウス。
窓の外では、練習場の芝に朝露が残っている。ピッチの端では、昨日の試合で削れた部分にグリーンスタッフが砂を入れていた。
勝った。
2-0。
累計四勝八分十敗。勝点二十。
順位表の底から、一つ浮いた。
それなのに、成瀬隼人の前に置かれているのは、順位表ではなく請求書の束だった。
遠征費。
映像設備費。
リカバリー用品。
商店街企画の初期費用。
七瀬玲央を見に行くためのスカウト遠征費。
紙の白さが、やけに冷たい。
「昨日の勝利でBPは増えています」
成瀬はタブレットを机に置いた。
【クラブビルドシステム】
戦術習熟度:上昇
サポーター熱量:微増
神田太陽:ライン牽引理解度上昇
チーム攻撃構造:改善
獲得BP:+18
数字だけを見れば、クラブは前に進んでいる。
だが、氷室の視線はまったく揺れなかった。
「BPは練習環境やスカウト網の強化には使える。ですが、バス会社への支払い、リカバリー用品の購入、外注映像スタッフの請求、屋台区画の設営費には使えません」
「分かっています」
「分かっている方は、勝利翌日にスカウト網強化へBPを全振りしようとはしません」
成瀬は口を閉じた。
言い返せなかった。
七瀬玲央が欲しい。
神田の走る空白を見られる右足。
藤代の膝に頼り切らないための、新しい配球点。
現地で見たい。契約条件も探りたい。所属クラブの本音も知りたい。
だが、それには金がいる。
スカウトを走らせるにも交通費がかかる。映像を集めるにも使用料がいる。正式ルートを通すなら、法務の作業時間も増える。
才能を見つけるだけなら、システムでもできる。
才能をクラブへ連れてくるには、現金がいる。
若槻航が、明るい声を作って手を挙げた。
「一応、良いニュースもあります。昨日の勝利で、小口スポンサーの問い合わせが三件増えました」
会議室に、わずかな空気の揺れが生まれた。
若槻はそれを逃さず、資料を広げる。
「バックスタンドの看板枠を、小口向けに分割します。大きな一枚を売るより単価は落ちますが、地元企業が入りやすくなる。勝利直後の熱がある今なら、短期契約でも取れる可能性があります」
「短期契約ですか」
白鳥千景がペンを持ち上げた。
「契約期間、掲出場所、撤去費、雨天時の破損、支払い遅延条項。全部確認が必要です」
「分かってます。だから白鳥さんに早めに見てもらいたくて」
「営業資料の表現も見ます。『勝利確約』や『昇格目前』のような文言は禁止です」
「そこまで書きませんよ!」
「勢いで書きそうな顔をしています」
若槻は資料を胸に抱え、わずかに視線を逸らした。
図星だった。
笹原美月が、別の資料を机に置く。
「スタジアム外の屋台スペースも調整できます。商店街から、試合日の出店希望が増えています。唐揚げ、焼きそば、地元野菜のスープ、あと海浜通りの和菓子店が勝利まんじゅうを出したいと」
「勝利まんじゅう」
氷室が眉を動かした。
「名前は再検討してください」
「そこですか?」
「負けた日に売れません」
若槻が吹き出しかけたが、笹原は真剣に頷いた。
「確かに。では、海浜まんじゅうで調整します」
勝った翌日の会議室に、ようやく小さな笑いが起きた。
だが、成瀬は笑い切れなかった。
商店街企画は、サポーター熱量を上げる。
小口スポンサーは、現金を生む。
リカバリー用品は、選手を守る。
スカウト網は、未来の勝点を探す。
どれも必要だ。
だが、全部は選べない。
氷室が、机の中央に赤線を引いた資料を置いた。
「今月末までに自由に動かせる現金は、これだけです」
沈黙が落ちた。
数字は、思ったより薄かった。
勝利給が出る。
遠征費が出る。
試合後のケアで使ったアイシング用品と圧迫バンドの補充も必要だ。
映像分析用の外部カメラマンへの支払いも残っている。
勝つと、クラブは熱くなる。
同時に、支払いも増える。
「医療費は削りません」
成瀬は言った。
篠宮藍が顔を上げる。
「削らせません」
「分かっています」
「藤代さんのリカバリー、CB陣の打撲対応、神田くんのスプリント後のケア。昨日の勝利は、負荷を先送りにしただけです。ここを削るなら、次の試合で請求されます」
氷室が頷いた。
「医療費は固定。ピッチ補修も最低限は必要。警備も観客が増えるなら削れません」
「なら、どこを削るんですか」
若槻が苦い顔で言う。
氷室は容赦なく答えた。
「夢です」
会議室が固まった。
「正確には、今すぐ叶えなくても死なない夢です」
成瀬は、タブレットのBP表示を見た。
スカウト網を強化すれば、七瀬だけでなく、速水瞬、ガルシア・レオンの情報も拾いやすくなる。
だが、今ここで全振りすれば、現金の薄さを補う営業資料も、選手を守るリカバリー環境も遅れる。
成瀬は深く息を吐いた。
「BPの配分を変えます」
全員の視線が集まる。
「スカウト網強化は最低限。七瀬の現地確認と契約調査に必要な範囲までに絞る」
久我がタブレットを操作する。
「広域スカウト網ではなく、対象選手限定の情報収集ですね」
「そうだ。残りのBPは、スポンサー営業資料とリカバリー環境に回す」
若槻が顔を上げた。
「営業資料にもBPを使えるんですか」
「映像整理、観客動線データ、看板露出レポート、サポーター属性の可視化。スポンサーへ出す資料の精度を上げる」
「それ、めちゃくちゃ欲しいです」
若槻の目が一気に営業の目になった。
「『熱いクラブです』だけじゃなく、『何人が見て、どこに滞在して、どの導線で看板を見たか』を出せるなら、小口でも説得力が違います」
笹原も身を乗り出した。
「屋台スペースの動線にも使えます。混雑する場所と、売れ残る場所を分けられるなら、商店街に無理な出店をさせずに済む」
「商店街を巻き込むなら、売れない場所に押し込むなということですね」
「はい。勝ったから来てください、ではなく、来て損をしない形を作らないと次がありません」
成瀬は頷いた。
勝点だけでは、人は戻らない。
戻ってきた人が、次も来たいと思う理由を作る必要がある。
それは、ピッチの外の戦術だった。
氷室が資料にペンを走らせる。
「スカウト網は限定強化。スポンサー資料にBPを投入。リカバリー環境にも一部投入。現金支出は、医療・遠征・最低限のピッチ補修を優先。商店街企画は初期費用を圧縮し、屋台側の負担が増えすぎない形で再設計」
「それでいきます」
成瀬が言うと、氷室は眼鏡を押し上げた。
「ようやく分かっている方の顔になりました」
「褒められた気がしません」
「褒めていません」
会議室に、また小さな笑いが起きた。
その瞬間、若槻の携帯が震えた。
画面を見た彼の表情が変わる。
営業用の笑顔ではない。
獲物を見つけた顔だった。
「成瀬代表」
「どうしました」
「地元交通会社から折り返しです」
室内の空気が、一気に締まった。
若槻は通話ボタンを押し、背筋を伸ばす。
「お世話になっております。ヴァンテール海浜FCの若槻です。はい、昨日の試合をご覧に……ありがとうございます。ええ、神田の走りは――はい、触っていなくても効いていました」
若槻の声が、そこで少し低くなる。
「次のホームゲームですか。はい。臨時バスの相談も、看板の件も、可能です。条件を一度お聞かせください」
成瀬は窓の外を見た。
朝露の残る練習場で、スタッフが削れた芝に砂を入れている。
勝った翌日。
順位は上がった。
金は減った。
だが、電話は鳴った。
泥舟はまだ、沈んでいない。
若槻がスマートフォンを押さえたまま、成瀬へ視線を向ける。
「代表。先方、来場者の交通導線データを見たいそうです。数字が出せるなら、臨時バス協賛とバックスタンド看板、両方検討すると」
成瀬は、机の上のBP配分案を見た。
スポンサー営業資料への投資。
たった今、答えが出た。
「出しましょう」
成瀬は言った。
「勝利の熱ではなく、数字で」
若槻が大きく頷き、通話へ戻る。
氷室は支払い表を閉じなかった。
白鳥は契約書の雛形を開いた。
笹原は屋台配置図に赤ペンを入れ始めた。
篠宮はリカバリー用品の在庫表を確認する。
勝利の余韻は、もう会議室にはない。
あるのは、次に沈まないための仕事だけだった。
ただし、その数字を作るための資料にも、また金がかかる。
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【現在地】 ヴァンテール海浜FC
国内プロ二部リーグ:19位/20クラブ
成績:4勝8分10敗
勝点:20
得失点差:-16
状態:降格圏。順位は上がったが、現金は減った。




