第31話 空白を使う者
「神田に出せ!」
前半十一分、熱を帯びたゴール裏から怒号が飛んだ。
神田太陽はまた走っていた。
相手センターバック二枚は、最初から位置取りが深い。神田の圧倒的な俊足に背後を取られるのを嫌い、ペナルティエリア手前まであらかじめ下がることで、裏のスペースそのものを消している。
右サイドの榎本が顔を上げた。
神田が中央へ斜めに駆け込む。
だが、ボールは出ない。
「なんで出さないんだよ!」
「太陽、走ってるだろ!」
スタンドの苛立ちが、声となって割れた。
しかし、片桐巧はベンチ前で腕を組んだまま動かない。
ピッチ上の藤代誠二も慌ててはいなかった。今日は検査で悪化なしと判断され、篠宮藍が渋々認めた条件付きの先発。六十五分まで。そこで必ず退く。
その制限時間を、藤代自身も分かっていた。
藤代は中央でゆっくりと半身を作った。
神田が走る。
警戒した相手CB二枚が釣られて下がる。
その手前に、ぽっかりと空白が生まれた。
そこへ、渡瀬が滑り込んだ。
前節より半歩早い。早すぎず、遅すぎない。相手ボランチの背中の死角から、すっと顔を出すような絶妙な侵入だった。
藤代の右足が、短く刺す。
わずか数メートルのパス。だが、そこが陣形の急所だった。
「前向け!」
片桐の声が飛ぶ。
渡瀬はパスを受けた瞬間に身体を開いた。相手ボランチが慌てて戻る。渡瀬は撃つと見せかけ、右へ小さく流した。
そこへ榎本が走り込む。
低い折り返し。
神田はニアへ流れ、またしても相手CB二枚を引き連れた。
中央が、空く。
もう一度、渡瀬。
今度は迷わなかった。
右足が思い切りよく振り抜かれる。
ボールは身を投げ出した相手DFの足に当たり、わずかに軌道を変えてネットへ吸い込まれた。
1-0。
ヴァンテール海浜FC、先制。
堰を切ったようにスタンドが爆発した。
神田は、またしてもボールに触っていない。
それでも真っ先に渡瀬の元へ走った。
「今の、俺、触ってないですけど!」
「知ってるよ!」
「でも空きましたよね!」
「だから撃てたんだろ!」
歓声に負けじと渡瀬が叫び返す。
神田は悔しそうに、けれど痛快そうに笑った。
喜びだけではない。自分が決めたかったというストライカーとしての火は、まだ目の奥で燻っている。
藤代が遠くから声を飛ばした。
「その顔でいい! 次も釣れ!」
「釣り餌扱いしないでください!」
「釣れる餌は高級品だ!」
ベンチで若槻航が吹き出しかけ、白鳥千景に無言で睨まれて慌てて口を閉じた。
成瀬隼人は静かにスコアボードを見上げた。
1-0。
だが、まだ前半だ。
相手も、このまま同じ場所を壊され続けるほど甘くはない。
*
後半開始直後、相手は明確に修正を施してきた。
神田の裏は引き続き消す。同時に、渡瀬が侵入する中盤のスペースにも、ボランチを一枚残す。
神田が走る。
相手CBが下がる。
渡瀬が入ろうとする。
だがそこには、相手ボランチが先回りして立っている。
前半にぽっかりと空いていた空白は、今は泥臭く埋められていた。
久我晴臣がタブレットから目を上げ、低く言う。
「向こう、中央の間を締めました」
「見えている」
片桐は短く返した。
相手監督も無能ではない。ハーフタイムで、自分たちが壊された致命傷の場所を的確に塞いできた。
後半十七分。
藤代が中央でボールを受けようとした瞬間、相手ボランチ二枚が激しく挟みに来た。
藤代は無理に前を向かない。背中で強烈な圧を受けながら、右足の裏でボールをぴたりと止める。
膝に負担のかかる体勢だ。
ベンチの篠宮の顔が険しくなる。
「反転しないでください」
声はピッチには届かない。
だが、藤代は反転しなかった。
前ではなく、外へ逃がしたのだ。
右サイドの榎本へ。
神田は中央へ走らない。今度は右斜めへ流れた。
相手CBの一枚が一瞬、迷いを見せる。
ついていけば中央が薄くなる。残れば、神田にCBとサイドバックの間をえぐられる。
そのコンマ数秒の迷いを、藤代は見逃さなかった。
榎本からの戻しを受けた藤代は、中央へは刺さない。
逆へ大きく逃がした。
左サイド。
大外に張っていた水野が、完全にフリーになっていた。
「逆!」
久我が叫ぶより早く、ボールは届いていた。
水野はトラップで前へ出る。相手サイドバックは内側へ絞りすぎており、広大なスペースがある。
水野は一歩運び、左足を思い切り振り抜いた。
低いクロスではない。
シュートだった。
ボールはGKの手前で大きく跳ね、泥を巻き上げながらゴール右隅へ突き刺さった。
2-0。
スタジアムが、今度こそ大きく揺れた。
神田は右サイドで両手を広げていた。
「俺、今度は右に流れただけなんですけど!」
水野がゴール裏へ走りながら叫んだ。
「流れたから空いたんだよ!」
「また俺、触ってない!」
「触らなくても怖いんだよ、お前は!」
神田は一瞬黙り、それから白い歯を見せて笑った。
悔しい。
でも、嬉しい。
自らゴールネットを揺らす快感とは違う。だが、自分の走りが相手の陣形を歪め、確実に壊しているという感覚が、確かに足の中に残っていた。
片桐が静かに拳を握る。
「中央を塞がれたら外。外を締めたら逆。神田を止めるために相手が動く限り、必ずどこかは空く」
成瀬は深く頷いた。
神田だけではない。
渡瀬だけでも、藤代だけでもない。
相手が一つを消せば、別の場所に新しい刃が突き立てられる。
ようやく、現有戦力でも対策の対策が形になり始めていた。
*
試合通算六十五分。
後半二十分。
篠宮がベンチから声を飛ばした。
「藤代さん、予定通りです」
片桐はすぐに第四審判へ合図を送る。
藤代交代。
守備的MFが入る。
勝負を決めるため、もっと藤代を使いたい時間帯だった。
だが、使わない。
それが、このクラブの新しい約束だった。
藤代はピッチを出る時、すれ違う神田へ短く言った。
「触らずに勝つ試合も、触って勝つ試合も、どっちもお前の仕事だ」
「……はい」
「ただし、次は決めろ。お前がうるさいからな」
「決めますよ」
「その顔で走れ」
藤代はベンチへ戻ると、篠宮にアイシング用の右膝を差し出した。
「今日は素直ですね」
「勝ってる時くらい、賢く見せたいんだよ」
「膝は賢くありません」
「ひどい言い方だ」
軽口はそこで終わった。
残り時間、二点差を追う相手は死に物狂いで前へ出てきた。
当然、リスクを取る。
だが、ヴァンテールは前節と同じ失敗を繰り返さなかった。
神田はただ闇雲に前に残らない。
相手がラインを押し上げようとした瞬間だけ、背後へ走るそぶりを見せる。味方が苦しそうな時は右サイドへ流れ、ボールの逃げ道になった。
パスが出る。
神田は無理に突破しない。
相手に背中を向けて身体を入れ、確実にスローインを取る。
じりじりと、時計の針が進む。
スタンドから、今度は先ほどと違う声が飛んだ。
「うまいぞ、太陽!」
「時間使え!」
「そこでいい!」
神田は荒い息をつきながら、少しだけ笑った。
勝つためのFWの仕事は、点を取ることだけじゃない。時計も支配するのだ。
片桐に言われた言葉が、また一つ実感として足の中に根付いていた。
後半四十一分。
相手が最後の望みを懸けてロングボールを放り込む。ヴァンテールの若手CBが競る。前節なら不用意に足を出していた場面だ。だが今日は、身体を入れるだけでじっと我慢した。
ボールは大きく外へ流れる。
白鳥千景が関係者席で懲罰管理表に目を落とし、小さく頷いた。警告は増えていない。
篠宮は別のタブレットで、選手の走行負荷を確認している。危険域には入っていない。
氷室圭吾は、観客席の入りを冷静に見渡していた。前節より、少し増えている。
勝つことは、ピッチの上だけで完結しない。
警告を増やさず、怪我を増やさず、観客を少し戻し、スポンサーへ胸を張って説明できる形で勝つ。
それこそが、今のヴァンテールに必要な勝利だった。
アディショナルタイムは三分。
神田は最後まで走った。
だが、無駄には追わない。
相手CBが顔を上げた瞬間だけ、背後へ猛烈な圧をかける。
蹴らせる。
奪う。
サイドへ逃がす。
時計を削る。
主審の長い笛が鳴った。
試合終了。
2-0。
ヴァンテール海浜FC、勝利。
累計成績は、四勝八分十敗。
勝点二十。
得失点差はマイナス十六。
泥舟は、順位表の冷たい底から一つだけ、確かに足を持ち上げた。
*
試合後のロッカールーム。
神田はタオルを頭からかぶったまま、ベンチに深く座り込んでいた。
周囲は騒がしい。渡瀬と水野は互いの得点をいじり合いながら笑い、若手CBは警告なしで終えたことに大げさに胸を撫で下ろしている。
その中で、神田だけが少し黙っていた。
成瀬が歩み寄る。
「不満か」
神田はタオルの下から顔を出した。
「勝ったのに、不満って言ったら怒られますよね」
「怒らない」
「じゃあ、不満です」
成瀬は小さく頷いた。
「点を取りたかったか」
「取りたかったです」
「それでいい」
「いいんですか」
「点を取りたい熱を持ったまま、相手を壊せ。お前が満足した顔で囮になったら、相手は少しも怖がらない」
神田はしばらく黙り、それからタオルで顔を乱暴に拭った。
「次は、俺も決めます」
「チームが勝つ形でな」
「分かってます」
その声は、以前よりも少しだけ大人びて響いた。
ロッカールームの端では、片桐が戦術ボードを片づけている。久我は今日の二点目の映像を何度も見返していた。
「中央を閉じられた後の逆サイド展開。使えます」
「使えるが、藤代頼みだ。あの膝で毎回やるのは無理だぞ」
海老名が腕を組んで現実を突きつける。
成瀬は頷いた。
「だから、次の刃がいる」
その言葉に、歓喜に沸いていた全員が少しだけ静かになった。
七瀬玲央。
まだ交渉にも入っていない選手。
誰も走らない空白を見て、俯いていた配球の右足。
今日の神田なら、あの場所へ走れる。今日のヴァンテールなら、あの右足を無二の武器に変えられるかもしれない。
だが、契約も、金も、本人の意思も、何一つ片づいてはいなかった。
その時、ロッカールームの重い扉が開いた。
入ってきたのは、氷室圭吾だった。手には順位表ではなく、薄い支払い表が握られている。
若槻が露骨に嫌な顔をした。
「勝った直後ですよ、氷室さん」
「だからです。勝利給が発生しました」
「言い方!」
氷室は成瀬の前に、無情にもその紙を置いた。
そこには、遠征費、リカバリー用品、映像設備費の残額がずらりと並んでいる。
「順位表の底からは、一つ浮きました」
氷室は淡々と言った。
「ですが、支払いは三つ残っています」
ロッカールームの熱が、ほんの少しだけ冷めた。
成瀬は支払い表を見下ろした。
二対ゼロで勝った。
勝点は二十に届いた。
順位表でも一つ上がった。
だが、クラブの現金は、それだけでは増えない。
泥舟は、勝ちながら金を探さなければならないのだ。
成瀬は短く息を吐いた。
「分かっています」
氷室は眼鏡を中指で押し上げた。
「分かっている方の顔ではありません」
「最悪ですね」
「現実です」
その言葉は冷徹だった。
だが、その冷たさこそが、この泥舟が二度と沈まないために引かれた命綱でもあった。
成瀬は支払い表を折らずに持ったまま、ロッカールームの熱気を見渡した。
刃は増えた。
順位も上がった。
けれど、このクラブにはまだ、金という名の重りがぶら下がっている。
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【現在地】 ヴァンテール海浜FC
国内プロ二部リーグ:19位/20クラブ
成績:4勝8分10敗
勝点:20
直近結果:2-0 勝利
得失点差:-16
状態:降格圏。最下位を脱出したが、残留圏にはまだ届かない。




