第30話 配球の天才は、俯いている
「この選手、本当に必要ですか」
海老名修の第一声は、容赦がなかった。
夜の分析室。
大型モニターには、七瀬玲央の試合映像が映っている。白いユニフォームを泥で汚した細身のMF。背番号は十六。中央寄りの位置でボールを受けるが、身体はどこか小さく見えた。
味方CBからのパスを受けた七瀬が、一瞬だけ顔を上げる。
右足のアウトで持ち出そうとした瞬間、相手ボランチが肩をぶつけてきた。
七瀬の身体が簡単に傾く。
ボールが足元から離れ、相手のスパイクに引っかかった。
奪われる。
カウンター。
七瀬はすぐ追いかけようとした。だが、最初の一歩が遅い。接触の衝撃が残っているのか、重心が沈んでいた。
海老名は腕を組んだまま唸る。
「当たられると終わる。二部の中盤でこれは怖い」
久我晴臣がタブレットを操作しながら頷いた。
「接触耐性はかなり低いです。守備時の寄せも軽い。球際に入る前に身体を逃がす癖があります」
成瀬隼人の視界に、《クラブビルドシステム》の表示が浮かぶ。
【補強候補】
七瀬玲央
総合値:低
右足パス精度:A+
接触耐性:E
守備強度:D-
判断速度:B
心理状態:自信喪失
数字だけ見れば、危うい。
国内プロ二部リーグの中盤は、綺麗なパスだけで生き残れる場所ではない。肩をぶつけられ、足を削られ、雨の芝で転がりながら、それでも前へ進めなければならない。
七瀬は、その泥に弱い。
「今のヴァンテールには、球際で逃げる選手を抱える余裕はない。藤代の膝があの状態で、もう一人守れない司令塔を増やすのは危険だ」
「同感です」
久我が短く答える。
「普通に使えば、リスクの方が大きい」
「普通に使えば、か」
成瀬は画面を見つめた。
映像の七瀬は、俯いていた。
ミスのあと、味方の誰かが手を叩いて声をかけることもない。ベンチからも指示は飛ばない。七瀬は失ったボールを数秒だけ見つめ、それから視線を落として中盤へ戻っていく。
要求されていない。
信頼されていない。
その事実が、彼の姿勢をさらに小さくしていた。
「次を」
成瀬が言うと、久我が映像を切り替えた。
別の試合。
七瀬は右サイド寄りでボールを受けた。相手のプレスはまだ遠い。
前方には味方FWが一枚。
だが、そのFWは足元へ欲しがっている。手を下げ、近くへ出せと要求している。
七瀬は一度だけ、右奥のスペースを見た。
誰もいない場所だ。
そこへ出せば、普通ならパスミスになる。味方のいない空間へ蹴っただけに見える。
七瀬は、結局、近くの味方へ横パスを出した。
受けた味方は、すぐに詰められてバックパス。
攻撃は止まった。
久我が映像を戻す。
「ここです」
画面が止まる。
七瀬が右奥のスペースへ視線を向けた瞬間。
「ここ、出す前に神田が走っていたら届きます」
海老名の眉が動いた。
「距離があるぞ」
「七瀬の右足なら届きます。しかも、ただ強く蹴るんじゃない。落とす場所を見ています」
久我は画面を一コマ進める。
七瀬の軸足。
身体の向き。
右足の振り幅。
蹴らなかったパスの軌道が、そこに薄く残っているように見えた。
「この時、味方は誰も走っていません。でも七瀬は、誰かが走れば届く場所を見ている」
成瀬の脳裏に、神田太陽の走りが重なった。
相手CBの肩の外。
半歩待ってから、裏へ消える足。
今のヴァンテールには、その空間へ本気で走るFWがいる。
七瀬の視線の先に、神田がいたら。
その右足は、届く。
海老名はまだ渋い顔をしていた。
「見えているのは分かる。だが、出せていない。パスは蹴って初めて評価される。見えてるだけなら、スタンドの客でもできる」
「なぜ出せなかったかです」
成瀬は言った。
久我が次の映像を出す。
七瀬が縦パスを狙った場面。
味方FWが一瞬だけ走り出す。
七瀬は右足を振る。
だが、蹴る直前に相手MFが身体を寄せた。
七瀬の軸がズレる。
パスは弱くなり、相手CBにカットされた。
直後、七瀬は両手を膝に置き、俯いた。
チームメイトが苛立ったように手を広げている。ベンチからも厳しい声が飛ぶ。
それから先の映像で、七瀬はほとんど冒険しなくなった。
横パス。
バックパス。
安全な逃げ道。
海老名が、少しだけ目を細めた。
「心が折れてるな」
久我が頷く。
「はい。技術より先に、自信が死んでいます」
成瀬の視界に、システム表示が揺れる。
【心理状態】
自信喪失
縦パス選択率:低下
失敗回避傾向:強
味方要求反応:過敏
潜在役割:配球点
配球点。
成瀬はその言葉を静かに読む。
試合を支配する王様ではない。
相手を一人で剥がすドリブラーでもない。
ただ、味方が走るべき場所を見つけ、そこへボールを置く選手。
正しい走り手がいなければ、ただの臆病な横パス係に見える。
だが、神田が走るなら。
渡瀬がバイタルへ入り、神田が相手CBを下げるなら。
七瀬の右足は、第三の刃になるかもしれない。
「成瀬」
海老名の声が低くなる。
「まさか、獲る気じゃないだろうな」
「まだ獲りません」
成瀬は即答した。
久我が小さく息を吐く。
「調査段階、ですね」
「ああ。移籍期間、登録期限、契約条件、年俸、本人の意思、所属クラブの扱い。全部確認が必要だ。今ここで獲得を決める段階ではない」
「分かってるならいい」
海老名は腕を組み直した。
「ただ、調べるなら早い方がいい。こういう選手は、価値が見えた瞬間に値段が変わる」
「まず、現地で見る。映像では、彼が俯いた理由までは分からない」
成瀬の言葉に、久我がメモを取った。
「現地視察ですね」
「白鳥に契約状況を確認させる。若槻にはスポンサー資料にはまだ出させない。氷室には概算だけ見てもらう」
「氷室が聞いたら顔をしかめるぞ」
「いつものことだ」
その時、分析室のドアが開いた。
片桐巧が入ってくる。手には練習メニューの紙がある。
「七瀬ですか」
「知っているのか」
「映像だけは。昔、ユース年代ではかなり評価されていました。ボールを持つ前に、味方を走らせる選手でした」
片桐はモニターの七瀬を見た。
画面の中の七瀬は、また右奥のスペースを見ている。
そこには誰もいない。
「今は、誰も走ってくれない場所を見ているんですね」
「そうだ」
成瀬は頷いた。
「そこへ走る選手なら、うちにいる」
片桐は神田の名前を口にしなかった。
言わなくても分かっていた。
「ただし、七瀬を入れれば全部解決するわけではありません」
「分かっている」
「彼が当たられて潰れるなら、周りが逃げ道を作らなければならない。守備で軽いなら、後ろの負担も増える。神田を走らせる代わりに、別の場所へ歪みが出ます」
海老名が鼻を鳴らす。
「だから怖いんだよ。綺麗な右足には、だいたい汚い請求書がついてくる」
久我が小さく笑った。
「表現は荒いですが、正しいです」
成瀬はモニターを見つめ続けた。
七瀬玲央。
総合値は低い。
接触耐性も低い。
心理状態も悪い。
だが、誰も走っていない空白を見ている。
それは、ヴァンテールが今、喉から手が出るほど欲しい視線だった。
*
その頃。
古びたロッカールームの隅で、七瀬玲央は一人、スパイクの紐をほどいていた。
チームメイトの声は遠い。
誰かが笑っている。
誰かが次節の話をしている。
七瀬に声をかける者はいない。
彼はスマートフォンを開き、今日の試合映像を一瞬だけ見た。
右奥のスペース。
自分が見た場所。
誰も走らなかった場所。
画面を閉じる。
「……見えても、意味ないよな」
小さな呟きは、誰にも届かない。
七瀬はスパイクの紐をほどく手を止めた。
もう一度だけ、顔を上げる。
けれど、その視線の先には、まだ誰も走っていなかった。
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【現在地】 ヴァンテール海浜FC
国内プロ二部リーグ:20位/20クラブ
成績:3勝8分10敗
勝点:17
得失点差:-18
状態:降格圏。藤代に頼らない攻撃構造を作る必要がある。




