第28話 背後を消されたFW・後編
「後半、お前が触らないまま、相手を壊す」
片桐巧の言葉は、ロッカールームの空気を凍らせた。
神田太陽は、泥のついたスパイクを見下ろしたまま動かなかった。
ボールに触らなくてもいい。
点を取りたいFWにとって、それは慰めではない。胸の奥をえぐる命令だった。
「太陽」
藤代誠二が、右膝に氷嚢を当てたまま低く声を投げた。
「お前が触らねえで勝ったら、悔しいか」
「……悔しいです」
「なら、その顔で走れ。相手は、その悔しそうな顔が一番怖い」
神田は顔を上げた。
藤代の横では、篠宮藍が時計を見ている。
藤代を使える時間は長くない。
それでも、その目はまだ死んでいなかった。
「俺にボールが来なくても、勝てますか」
神田が訊いた。
片桐は即答した。
「勝つために、お前へボールを出さない時間を作る」
その言葉を飲み込むように、神田は深く息を吐いた。
*
後半開始。
神田はまた中央の裏へ走った。
相手CBは、やはり追ってこない。ただ下がる。神田の俊足を警戒し、あらかじめ深く構えて走る空間を消す。
ボールは来ない。
一本目も、二本目も。
だが、ヴァンテールの二列目の動きは変わっていた。
渡瀬が、神田の走り出しより半拍早く、相手が下がって空けた中盤の空白へ顔を出し始める。
バイタルエリア。
前線と中盤の間に生まれる、ほんの数秒だけの隙間だ。
後半八分。
左サイドに逃がしたボールが、ワンタッチで中へ戻った。
神田が中央へ走る。
相手CB二枚が、反射的に下がる。
その手前に、渡瀬が入った。
「そこだ!」
片桐の声が飛ぶ。
渡瀬は前を向いた。だが、シュートの前に相手ボランチが戻ってくる。右足を振る直前、寄せられて軸足がブレた。
ボールは枠の上へ外れる。
渡瀬が天を仰いだ。
神田は、喉まで出かかった言葉を噛み殺した。
俺に出せ。
そう言いたかった。
だが、言わなかった。
そのかわり、次のプレーでまた走った。
触れないまま。
相手を下げるためだけに。
後半十八分。
相手は苛立ち始めていた。
神田を消しているはずなのに、ヴァンテールの二列目が何度も手前へ入ってくる。CBが下がれば、その前が空く。ボランチが戻れば、サイドが空く。
どちらかを閉じると、どこかが開く。
その迷いが、相手の守備に少しずつ亀裂を入れていた。
だが、得点はまだない。
ベンチで、篠宮が時計を見た。
「藤代さん。ウォームアップは五分だけです」
「五分もくれるのか。太っ腹だねえ」
「皮肉を言う余裕があるなら、まだ出しません」
「黙るよ」
藤代は立ち上がらず、まず膝を伸ばした。ゆっくり、慎重に。篠宮の視線が、足首から膝、股関節までを追う。
後半二十九分。
第四審判のボードが上がった。
藤代誠二、投入。
スタンドがざわつく。
神田は中央で振り返った。
藤代はピッチに入る直前、神田へ短く言った。
「俺を見るな。相手の最終ラインの深さを見ろ」
「はい」
「あと、悔しそうな顔はそのままでいい」
「うるさいです」
「いい返事だ」
藤代が入った瞬間、相手の中盤が一歩寄った。
藤代への縦パスを切る。
その約束事は、相手の頭にも焼きついている。
だが、藤代は前を向こうとしなかった。
後半三十二分。
右サイドから戻されたボールが、藤代の足元へ入る。
相手ボランチが猛烈に寄せる。
神田が中央の裏へ走る。
相手CB二枚が、その脅威に引っ張られてずるずると自陣深くへ下がる。
その瞬間、藤代は絶妙な一拍を置いた。
神田の裏ではない。
神田が相手を引きはがして作った、手前の空白。
そこへ、短い縦パスを刺した。
渡瀬が、泥を蹴って飛び込んでいた。
「撃て!」
片桐の声が裂けた。
渡瀬は一瞬だけ迷いかけた。
前半の失敗が頭をよぎったのが、遠目にも分かった。
だが、神田の咆哮がその迷いを叩き割った。
「撃てえええ!」
渡瀬の右足が振り抜かれる。
低い弾道のシュート。
ボールは相手DFの股を抜け、芝を削るように滑った。
GKが反応する。
指先が触れる。
それでも、ボールは止まらなかった。
ゴール左隅のネットが揺れた。
1-0。
ヴァンテール海浜FC、先制。
スタジアムが爆発した。
渡瀬は一瞬、自分が決めたことを理解できずに立ち尽くした。次の瞬間、神田が真っ先に飛びつく。
「決めた! 決めたじゃないですか!」
「お前が叫ぶから撃ったんだよ!」
「俺、触ってないです!」
「だから空いたんだろ!」
神田は笑っていた。
悔しさが消えたわけではない。
だが、自分が走った場所の後ろで、確かにゴールが生まれた。
自分の足は、ボールに触れずとも相手の守備を壊したのだ。
ベンチ前で、片桐は拳を握りしめた。
成瀬隼人はスコアボードを見た。
1-0。
だが、勝利の匂いに酔うには早すぎる。
北関東戦から続く消耗は、確実にヴァンテールの足を鈍らせていた。
藤代はピッチ中央で小さく膝を曲げ、すぐに伸ばした。篠宮の視線が鋭くなる。
「藤代さん、残り十分です!」
片桐が叫ぶ。
「分かってるよ!」
藤代は答えたが、その声には明らかに余裕が減っていた。
後半四十一分。
ヴァンテールは逃げ切りに入った。
神田は前に残る。相手CBを押し上げさせないための重石だ。
だが、そこでミスが起きた。
自陣右側。
若手CBが縦パスを入れようとして、足元をわずかに滑らせた。
芝は乾き切っていない。
ボールは予定より弱く、内側へずれた。
相手MFがその一瞬を逃さなかった。
奪われる。
スタンドが悲鳴を上げた。
「戻れ!」
海老名修の怒声。
奪った相手は、迷わず前へ運ぶ。ヴァンテールの最終ラインは、神田を前に残した分、人数が足りない。
中央へスルーパス。
相手FWが抜け出す。
オフサイドではない。
GKが飛び出す。
相手FWは冷静だった。右足で軽く浮かせる。
ボールはGKの肩を越え、無情にネットへ落ちた。
1-1。
同点。
空気が、一瞬で重く沈んだ。
若手CBは膝に手をつき、顔を上げられなかった。
「俺の……ミスです」
その声は誰にも届かない。
神田は前線で立ち尽くした。
自分が触らなくてもゴールは生まれた。
だが、勝てなかった。
触らないまま相手を壊すことはできた。
それでも、試合を終わらせる力はまだ足りなかった。
アディショナルタイムは四分。
藤代はもう限界だった。
片桐は交代カードを切る。藤代が下がり、守備的MFが入る。
藤代はピッチを出る時、神田の方を見た。
「太陽!」
神田が振り返る。
「今日の一本は、お前の足だ!」
神田は何も言えなかった。
ただ、拳を握った。
最後の数分、ヴァンテールは押し返そうとした。
神田は走った。
渡瀬も走った。
だが、相手ももう二度は同じ場所を空けない。
主審の笛が鳴る。
試合終了。
1-1。
ヴァンテール海浜FC、引き分け。
累計成績は、三勝八分十敗。
勝点十七。
得失点差は、マイナス十八のまま。
勝ち切れなかった。
だが、何も得られなかったわけではない。
*
試合後の分析室。
久我晴臣が映像を止めた。
後半三十二分。
神田が走り、相手CB二枚が下がり、渡瀬の前に空白が生まれた瞬間。
「ここです」
久我の指が、画面の中央を示す。
神田は画面を見つめたまま息を止めた。
久我は映像を一コマ戻す。
神田が、まだボールに触れていない。
ただ走り出しただけの瞬間。
それだけで相手CB二枚の重心が後ろへ沈み、その手前のバイタルエリアが、ぽっかりと口を開けている。
「神田を見て下がった瞬間、相手の腹が空いています」
久我の言葉が、静まり返った部屋に落ちる。
「神田は消されたのではありません。神田が相手を下げ、別の刃を入れるスペースを作ったんです」
神田は、何も言わなかった。
映像の中で、相手の強固な守備は、確かに自分の走りに引きずられていた。
だが、久我は次の映像で、もう一度停止ボタンを押した。
後半四十一分。
若手CBの縦パスが奪われた瞬間。
「そして、こっちもです」
久我の声は重かった。
「勝ち筋は見えました。でも、終盤にこの刃を握ったままどう試合を閉じるか。出口管理の精度がまだ足りません」
画面の中で、ボールを奪った相手MFが前を向く。
その瞬間、ヴァンテールの最終ラインは一枚足りなかった。
成瀬は無言で画面を見つめた。
神田のデコイから、新たな得点パターンは生まれた。
だが、最後の十分をどう守り切るか。
泥舟には、まだ重い宿題が残されていた。
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【現在地】 ヴァンテール海浜FC
国内プロ二部リーグ:20位/20クラブ
成績:3勝8分10敗
勝点:17
直近結果:1-1 引き分け
得失点差:-18
状態:降格圏。勝点1を拾ったが、勝ち切れず最下位脱出はまだ遠い。




