第27話 背後を消されたFW・前編
神田太陽の前には、最初から狙うべき裏のスペースがなかった。
キックオフ直後。
ヴァンテール海浜FCが中盤でボールを奪い、右サイドへ素早く展開する。前節までなら、ここで神田は相手センターバックの肩の外へ消えていた。
だが、今日の相手は追ってこない。
競ってこない。
振り返りもしない。
二枚のセンターバックは、神田の初速に反応する前から、ペナルティエリア手前まで深く下がって陣形を敷いていた。
神田の裏抜けを警戒し、あらかじめ走る空間を消す守り方だった。
神田は走った。
だが、ディフェンダーの背後に広がるはずの芝生が見えない。
「くそっ……!」
ボールは出てこない。
出せない。
ボランチが一度、縦を見た。藤代誠二なら針の穴を通すように刺したくなる角度だった。だが、次の瞬間には相手の中盤が身体を寄せ、コースを消している。
藤代はベンチで、右膝にサポーターを巻いたまま低く舌打ちした。
今日はベンチスタート。篠宮の許可が出ても、使えるのは後半の十五分だけだ。
「出せねえな、あれは」
隣の篠宮藍が視線だけを向ける。
「立ち上がらないでください」
「分かってるよ。膝より先に胃が痛くなる試合だ」
前半八分。
神田はまた走った。
右サイドの味方が顔を上げる。神田は相手CBの外側を狙い、半歩だけ膨らんでから内へ切る。
だが、相手CBはついてこない。
神田を見たまま、ただ下がる。
神田の身体が、ゴールから遠い場所へ誘導されていく。前へ出たいのに、背後を取るはずの足が、ただラインの外へ逃がされていく。
パスは出なかった。
代わりに、サイドが戻したボールを渡瀬が受ける。
前を向く。
だが、神田を警戒して下がった相手CBの手前には、ボランチがすでに戻っていた。渡瀬の右足から放たれたシュートは、寄せてきた相手の足に当たり、力なくゴールラインを割る。
コーナーキック。
スタンドから、低い呻きが漏れた。
「太陽、走れてるのに!」
「なんで出さないんだよ!」
「いや、今のは出せねえだろ……」
声が割れている。
サポーターにも分かり始めていた。
神田が悪いのではない。
パスの出し手が臆病なのでもない。
相手が、最初から神田の武器だけを消しに来ている。
ベンチ前で片桐巧は腕を組み、奥歯を噛みしめていた。
「中央の空白、まだ遅い」
久我晴臣がタブレットを覗き込みながら頷く。
「神田が動いた瞬間、相手CBは下がっています。ただ、こちらの二列目の侵入が半拍遅れています」
「分かっている」
片桐は短く返した。
怒鳴りたい場面ではない。
だが、喉の奥は焼けていた。
練習では見えた。
だが、公式戦の圧力の中では、半秒が遅れる。
その半秒で、相手のボランチが戻る。
その半秒で、シュートコースが消える。
前半十六分。
中央でボールを受けた渡瀬が、神田を見ずに自分で前へ運ぼうとした。
相手の中盤が即座に寄せる。
肩をぶつけられ、ボールが浮いた。
ヴァンテールのボランチが拾おうとするが、相手の足が一瞬早い。
逆襲。
一気に空気が反転した。
相手の左サイドが、広いスペースへ走る。ヴァンテールの右サイドバックが遅れる。中央では、さっきまで神田を見ていた相手CBの片方が、もう前線へ押し上がっている。
「戻れ!」
海老名修の怒声が飛ぶ。
低いクロス。
ニアで相手FWが潰れ、こぼれ球がペナルティスポット付近へ落ちた。
ヴァンテールの若手CBが、警告を恐れて一瞬だけ足を止める。
その一瞬を、相手の二列目が見逃さなかった。
右足を振り抜く。
乾いた音がした。
ボールはGKの手をかすめ、ゴールのわずか外側へ逸れていった。
スタジアム全体が、息を吸い忘れたように静まり返る。
神田は前線で立ち尽くしていた。
自分が走っても、パスコースが作れない。
自分が触れないまま、後ろが危険に晒される。
頭では分かっている。自分が相手CBを下げていることは理解している。
だが、身体は納得しない。
胸の奥が、焦げるように熱かった。
「俺が……何もできてない」
小さく漏れた声は、歓声にかき消された。
だが、藤代の耳には届いていた。
ベンチから、低い声が飛ぶ。
「太陽!」
神田が振り返る。
藤代は立ち上がらない。篠宮が隣にいるからではない。膝が、それを許さないからだ。
座ったまま、目だけが鋭かった。
「最初から引いてスペースを消してる相手に、無理に裏へ飛び出そうとしても勝てねえぞ」
神田の表情が歪む。
「じゃあ、どうしろって言うんですか!」
「それを今、ピッチの中で探せ」
「無茶言わないでくださいよ!」
「無茶じゃねえ。プロの試合だ」
神田は歯を食いしばり、前を向いた。
怒りが足に乗る。
次のプレーで、彼はさらに強く走った。
相手CBはまた下がる。
競らない。
追わない。
ただ、消す。
神田の走る先にあるはずの裏のスペースを、最初から地面ごと削り取るような守りだった。
前半二十九分。
ヴァンテールは押し込んでいた。
ボールは持てる。
敵陣にも入れる。
だが、ゴール前の刃が届かない。
神田は走る。相手CBが下がる。二列目が入る。だが、渡瀬の受ける位置はまだ遠い。サイドからの戻しは少し浮く。シュートの前に、相手の足が一本入る。
惜しい。
だが、惜しいだけでは勝点は増えない。
成瀬隼人は、ベンチ横でピッチを見つめていた。
視界の端で、《クラブビルドシステム》の表示が淡く揺れる。
【試合状態】
神田太陽:裏抜け成功率低下
相手最終ライン:平均位置低下
相手CB二枚:神田監視固定
中央バイタル:断続的に空白発生
二列目侵入:成功率不足
成瀬は表示を閉じた。
数字は正しい。
だが、システムが示すデータは「神田が消された」という結論ではない。
神田は消されていない。
相手CB二枚を、あそこに釘づけにしている。
敵は神田の裏抜けを恐れて、前へ出られない。
問題は、その恐怖で空いた場所を、こちらがまだ使い切れていないことだ。
「片桐監督」
「見えています」
片桐は視線をピッチから外さずに言った。
「神田は封じられていない。むしろ、効きすぎている。相手CB二枚は、あいつの裏抜けを恐れてラインを深く下げたまま釘づけになっている」
片桐は、唇を噛んだ。
「問題は、相手が警戒して下がったことで、その手前にぽっかりと空いた中盤の空白――バイタルエリアを、こちらの二列目が刺し切れていないことです」
「ハーフタイムで修正を」
「します」
前半三十八分。
再び決定機が来た。
右サイドからの低い戻しを、渡瀬が受ける。
神田が中央でCB二枚を引っ張った。相手のボランチが一瞬だけ遅れる。
渡瀬の前に、確かに道が開いた。
「撃て!」
片桐が叫ぶ。
渡瀬が右足を振る。
だが、シュートは力んだ。
ボールは低く飛んだものの、ゴールの右へ外れていく。
渡瀬が頭を抱える。
神田は、思わず両手を広げかけて、途中で止めた。
責めるな。
自分だって、さっきから何も触っていない。
それでも、喉の奥から苦い息が漏れた。
「俺に出してくれれば……」
言いかけて、自分で黙った。
出せないのだ。
分かっている。
分かっているのに、腹の底が煮える。
前半終了間際。
相手がまたカウンターを狙う。
ヴァンテールのCBが今度は身体を入れ、足を出さずにコースを切った。ボールはタッチラインへ逃げる。
関係者席で、白鳥千景がタブレットに目を落とし、短く息を吐いた。
警告は増えていない。
だが、危険な場面は増えている。
やがて主審の笛が鳴った。
前半終了。
0-0。
負けてはいない。
だが、勝てる匂いもまだ薄い。
*
ロッカールームに戻った神田は、ユニフォームの裾を握りしめたまま座っていた。
スパイクの泥が、床に黒く落ちている。
誰もすぐには喋らなかった。
息の音だけが重い。
「俺、何本走りました?」
神田が低く言った。
「何本も走った」
片桐が答える。
「でも、一本も通ってません」
「そうだ」
「じゃあ、止められてるじゃないですか」
神田の声が震えた。
「俺の武器、消されてるじゃないですか」
片桐は、しばらく神田を見ていた。
それから、ホワイトボードの前に立った。
神田の磁石を中央に置く。
相手CB二枚を、その前ではなく、かなり深い位置に置く。
その手前。
二列目が使うべき空白に、別の青い磁石を置いた。
「違う」
片桐は言った。
「お前は止められていない」
神田が顔を上げる。
「今日、お前が触らなくてもいい」
ロッカールームの空気が、一瞬で硬くなった。
神田の目が、揺れる。
「……触らなくても?」
「ああ」
片桐は、青い磁石を指で押さえた。
「お前が裏を狙って走るだけで、相手の最終ラインは勝手に下がる。なら、その手前のスペースを俺たちが使う」
神田は息を呑んだ。
「お前はボールを受けるなと言われているんじゃない。触れない時間も、その脅威でチームを前へ進めろと言われているんだ」
神田は、唇を強く噛んだ。
納得はしていない。
だが、逃げる目ではなかった。
成瀬は、その顔を見ていた。
点を取りたいFWに、触らなくてもいいと言う。
それは冷たい命令だ。
だが、この冷たさを飲み込めなければ、泥舟はまた同じ場所へ沈む。
片桐は最後に、低く告げた。
「後半、お前が触らないまま、相手を壊す」
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【現在地】 ヴァンテール海浜FC
国内プロ二部リーグ:20位/20クラブ
成績:3勝7分10敗
勝点:16
得失点差:-18
状態:降格圏。神田は消されていないが、ボールに触れない時間が増える。




