第26話 神田包囲網
「神田太陽には、背中を見せるな」
公開練習後の囲み取材で、次節の相手監督はカメラを真っ直ぐ見据えて言い切った。
クラブハウスの分析室。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋の正面に、その映像が投影されている。画面の脇には、前節・北関東ガーディアンズ戦の決勝ゴールが静止画で並んでいた。
神田太陽が半歩待ち、藤代誠二のパスに合わせて相手の背後へ消え、ゴールを奪った場面。
だが、データ分析部長の久我晴臣が動画を止めたのは、歓喜の瞬間ではなかった。
神田が加速する直前。
相手センターバックの肩が、ほんのわずかに内側へ絞られた、その刹那だ。
映像の中で、相手監督の低い声が続く。
『神田に背中を取らせなければ、ヴァンテールの攻撃は機能しない。競るな。追うな。最初から背後のスペースを消せ。藤代への縦パスは、中盤の網で引っかける』
久我がリモコンを押すと、プロジェクターの排気音だけが室内に残った。
「……対応が早いですね」
監督の片桐巧が腕を組んだまま、苦いものを噛み潰したように呟いた。
成瀬隼人は、暗闇に浮かぶ画面から目を離さない。
「ああ。想定より一週間は早い」
北関東戦の勝利から、まだ数日しか経っていない。
だが、国内プロ二部リーグの底辺は甘くない。泥の中で生き残ってきた連中は、華やかなゴールシーンなど見ない。そこに至る前の、たった半歩の予兆を凝視する。
神田の裏抜け。
藤代の楔のパス。
ヴァンテールが泥沼の中でようやく見つけた細い勝ち筋は、すでに敵の戦術ボード上で丸裸にされていた。
久我が次の映像を再生する。相手チームの公開練習における、守備確認の風景だ。
最終ラインの設定が、最初から深い。
センターバックは、仮想・神田役の選手とあえて競らない。ただひたすら、背後のスペースを潰す位置へ先回りしてステップを踏んでいる。中盤のボランチは、藤代にボールが入る前段階でプレスを掛け、縦のパスコースを身体で遮断していた。
「神田が動き出す前に、相手の最終ラインがもう一歩下がっています」
久我がタブレットの画面を指で叩いた。
「これでは、裏へロブを落としてもスペースがありません」
部屋の隅で、神田太陽が両膝の上で拳を握りしめていた。
「……じゃあ、俺はもう、走っても意味ないんですか」
掠れた声には、隠しきれない苛立ちが混ざっている。
その隣で、右膝にテーピングを巻いた藤代が、椅子に浅く腰掛けたまま横目で神田を見た。
「走る意味がないんじゃねえ。走っても、ボールが来ねえんだよ」
「同じことじゃないですか」
「全然違うな」
藤代は口元を薄く歪めて笑った。
「お前が本当に怖くなったから、相手はプライドを捨てて最初から下がるんだ。ストライカーとしては、最高にそそる嫌われ方だろ」
「嬉しくないです」
「そりゃそうだ。点、取れねえもんな」
神田の拳にぐっと力がこもる。
片桐がホワイトボードへ歩み寄り、マグネットを動かした。前線に神田を示す青い磁石を置く。その背後へ伸びるはずの赤い矢印を描こうとして、途中でペンを止めた。
「今までの形なら、ここで神田が背中を取る」
片桐は赤い矢印を塗り潰すように、相手センターバックの赤い磁石を二枚、最初から深い位置へ配置した。
「だが次は、ここがスタートから消される。相手は神田を追わない。ゴールに近いエリアを多少空けてでも、背後のスペースだけを殺しにくる」
後方で、営業の若槻航が小さく息を漏らした。
「勝ったら勝ったで、すぐにこれか……」
「勝ち方を見せちまったからな」
強化部長の海老名修が腕を組む。
「二部で長く飯を食ってるクラブほど、こういう嫌な実利を取る対応は早い。派手なアタッカーを潰すより、そこへ至る通路を潰しにくるんだ」
成瀬は黙ってホワイトボードを見つめていた。
システムを開けば、神田の裏抜け成功率の低下予測や、相手のラインディフェンスの数値傾向が並ぶだろう。だが、今はそれを見る必要はない。
冷たい画面の数字よりも、神田の握りしめた拳の震えの方が、はるかに事態の深刻さを物語っている。
彼の武器が、初めて真正面から無力化されようとしていた。
「神田のスタメンは外さない」
成瀬が静かに告げると、部屋の視線が一斉に彼に集まった。
片桐が少しだけ眉をひそめる。
「理由を聞いても?」
「相手が最初から神田を警戒して下がるなら、それは神田がピッチに立っているだけで仕事をしているという意味だ。ボールに触れずとも、相手のラインは勝手に下がる」
神田が弾かれたように顔を上げた。
「俺が、触らなくても?」
「そうだ」
成瀬は真っ直ぐに神田の目を射抜いた。
「お前が点を取れなくても、相手のセンターバック二枚を引き連れて下がってくれれば、敵の前線と中盤の間にエアポケットができる」
すかさず片桐が、神田の磁石の手前にある空白へ、もう一枚の青い磁石を叩きつけた。
二列目。
トップ下、あるいはインサイドハーフの位置だ。
神田の表情が、微かに強張った。
「そこを……誰かが使うんですか」
「使わせる」
片桐の声は徹頭徹尾、冷徹だった。
「今日からの戦術練習はこれだ。お前が背後を消された時、次に空くバイタルエリアを連動して使う。お前はスコアラーではなく、相手のラインを強引に下げる囮になる時間が増える」
「囮……」
神田はその単語の苦味を噛み砕くように、低く繰り返した。不満のすべてが顔に出ていた。
「俺、やっと点を取ったばっかりなんですけど」
隣で藤代が耐えかねたように吹き出した。
「一回取ったくらいで、随分と大物ぶるじゃねえか」
「大物ぶってないです。ただ、また俺が取りたいんです」
「なら、もっと敵に嫌がらせをしろ」
藤代は膝の皿に置いた手を一度だけ握り込み、言葉を継いだ。
「世界一、点を取りたそうな顔をして走れ。相手がビビって下がる。そこに別の奴が走り込む。そいつが仕留める。お前はアシストにもならない走りに悔しがる。で、次のプレーではさらにキレた顔で走る。最高に美しい循環じゃねえか」
「俺だけ、ずっと割に合わないじゃないですか」
「ストライカーなんてな、引退するまでずっと割に合わねえ生き物だよ」
神田は何かを言い返しかけて、口を閉ざした。
悔しい。
だが、目の前の怪物の言葉が、完全に間違っているとも思えなかった。
壁際で見守っていた篠宮藍が、冷徹に釘を刺した。
「藤代さん、発言はそこまで。長時間の着座も本来はスケジュール外です」
「おいおい、監視付きの解説者かよ」
「その椅子の真横に私が立っている意味を理解してください。次に勝手に立ち上がったら、その瞬間に医療室へ強制送還します」
「……怖いねえ」
「怖がってください」
片桐がホワイトボードに素早くマーカーで線を引いていく。
神田が中央へ走る。相手センターバック二枚が下がる。その手前に、二列目の選手が滑り込む。
藤代への縦のコースは切られている。ならば、ボールを経由するルートを変える。サイドへ一度逃がし、ダイレクトではたいて、中央の空白へグラウンダーで刺す。
久我がタブレットの画面を指し示しながら言った。
「北関東戦のデータを分析したところ、神田がスプリントを開始した直後、相手のボランチとセンターバックの距離が一瞬だけ開いています。次の相手にも、同じ現象は起きる。ただし、藤代さんを起点にできない以上、別の出し手が必要です」
「藤代さん抜きの時間帯の構築が急務、ということですね」
篠宮が手帳を閉じながら告げる。
「次戦、藤代さんの先発は許可しません。ベンチ入りを認める場合も、出場は最大で後半の十五分。もしリードしている展開なら、一分たりとも使わせません」
片桐が重々しく頷いた。
「分かっています」
「本当に?」
「……勝ち筋が見えても、我慢します」
「今の数秒の間が、ものすごく不安ですが」
有栖川真白が、そのやり取りを無言でノートに書き留めていく。
成瀬はホワイトボードに置かれた、二列目の青い磁石を凝視していた。
神田以外の刃。
口で言うのは容易い。だが、現在のヴァンテールに、神田ほど一歩で相手をパニックに陥れられる走力を持つ選手はいない。そして、藤代ほど一瞬の戦術的ズレを見逃さずにパスを刺せる人間もいない。
見つけなければならない。
現有戦力の中から覚醒させるか。
あるいは――まだ移籍市場で、その本当の価値を見落とされ、間違った値札をつけられている誰かを。
*
練習場の芝生には、激戦だった北関東戦で抉られた痕跡がまだ生々しく残っていた。
グリーンスタッフが応急処置を施したばかりの箇所には、侵入禁止の白いマーカーが刺さっている。そのエリアを避けるように、今日の戦術トレーニングのグリッドは通常より狭く設定されていた。
神田が最前線のポジションに就く。
仮想・敵センターバック役の控えDF二枚は、最初からペナルティエリアの手前まで深く下がっていた。
背後にスペースがない。
走り出すべき影がない。
それでも、片桐の鋭いホイッスルが響くと同時に、神田は泥を蹴って走った。
当然、ボールは出てこない。
二列目に入った渡瀬が、中央の空いたスペースへ走り込む。だが、コンマ数秒、遅い。
ピッチ脇のパイプ椅子から、藤代の怒声が飛んだ。
「渡瀬、遅え! 太陽が走り出してから動くな! 太陽が走りたそうなツラをした瞬間に、もうお前はトップスピードで入ってなきゃ間に合わねえんだよ!」
「ツラですか!?」
「ツラだよ! こいつは単細胞だから全部顔に出るんだよ!」
「藤代さん!」
神田が走りながら思わず抗議する。
その瞬間、片桐の笛が容赦なくピッチを切り裂いた。
「神田、足を止めるな! 文句を垂れ流しながらでも全力で走り切れ!」
「はいっ!」
藤代の椅子のすぐ後ろには、篠宮が仁王立ちで腕を組んでいた。藤代が熱くなって尻を浮かせようものなら、即座に医療室へ戻される距離感だ。
二本目。
神田が中央を強襲する。相手ディフェンスラインが釣られて下がる。
今度は渡瀬が早く入りすぎ、相手ボランチの背中の影に自ら隠れてしまった。
久我が手元のタブレットを見つめながら首を横に振る。
「早すぎます。空白に侵入する前に、敵の網に捕捉されています」
渡瀬がユニフォームの襟元で汗を拭い、歯を食いしばった。
「もう一本、お願いします!」
三本目。
神田が突っ込む。相手のラインが下がる。
ボールが左サイドへ一度逃げる。ワンタッチの戻し。
今度は、渡瀬が完璧なタイミングでその空白へ滑り込んできた。
足元に収まる。
前を向いて、右足のシュート。
激しい金属音を立てて、ボールはクロスバーを遥か上に越えていった。
「すみません!」
渡瀬が頭を抱えて叫ぶ。
だが、片桐はすぐに次のボールを要求しながら首を振った。
「謝る必要はない。今のは入ったタイミングと場所が正解だ。外したシュートの精度は精進しろ。別問題だ」
ピッチ脇で藤代が低く笑う。
「決めるのは相変わらず下手くそだが、ポジショニングは悪くねえ」
「……それ、褒めてます?」
「半分な」
神田はゴール前で肩を上下させ、荒い息を吐き出した。
自分には、絶対にボールが来ない。その代わり、自分が必死に走ったその背後で、チームの誰かが前を向いてスポットライトを浴びる。
ひどく気持ちの悪い感覚だった。
チームのために仕事をしている誇らしさと、自分だけが置き去りにされていくような疎外感。
成瀬はピッチサイドから、その神田の横顔をじっと見つめていた。
この上なく不満そうな、苦い顔をしている。
だが、その脚は一度だって走るのをやめていない。
それでいい、と成瀬は思った。
囮の役割に、綺麗に納得する必要などないのだ。点を取りたいという飢餓感を剥き出しにしたまま、そのエゴで敵のラインを歪ませろ。そのやり場のない不満ごと、ヴァンテールの新しい武器に昇華すればいい。
全体練習が終わり、夜の分析室。
片桐は戦術ボード上にある、二列目の青い磁石を中央へと滑らせた。
神田の目の前ではない。
神田の背後でもない。
神田が敵を強引に引き下げた時、その刹那にだけ生まれる、極小の空白地帯。
「次は、この半歩のズレで勝負をかけます」
成瀬は静かに頷いた。
居残りで部屋に入ってきた神田が、汗で張り付いた前髪を乱暴にかき上げながら、ボード上の磁石を睨みつけるように見ていた。
「俺……本当に、一本も触らなくていいんですか」
片桐は少しの沈黙の後、眼鏡の奥の目を細めた。
「触れる隙があるなら触れ。隙を突いて決められるなら、エゴを通してでも決めろ」
神田の瞳が微かに揺れる。
「だが、お前がボールに触れずとも、チームを勝たせる仕事は厳然として存在する」
片桐は磁石をパチンと指で弾いた。
「お前が背中を消された時、相手ディフェンスはお前を抑え込んだと錯覚する。その慢心の裏を、俺たちが刺す」
神田は唇を強く噛み締め、最後は絞り出すように頷いた。
「……分かりました」
当然、心からは納得しきっていない声だ。
だが、それでよかった。
戦術の形は見えた。
だが、実戦の九十分間で、これと全く同じ完璧な半秒が訪れる保証はどこにもない。
その夜、自室。
成瀬がパソコンを開くと、昼間と同じ相手監督のコメント映像が自動再生された。
『神田太陽には背中を見せるな。あいつのスプリントさえ止めれば、ヴァンテールは確実に止まる』
成瀬はマウスをクリックし、その傲慢な言葉の途中で映像を停止させた。
そして、机の上に置いた小さなタクティクスボードを指先でなぞる。
動かしたのは神田ではない。
その手前に位置する、二列目の青い磁石だ。
本当に止まるかどうかは、次の九十分間で証明すればいい。
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【現在地】 ヴァンテール海浜FC
国内プロ二部リーグ:20位/20クラブ
成績:3勝7分10敗
勝点:16
得失点差:-18
状態:降格圏。神田の裏抜けが対策され、次の刃が必要になる。




